第111話 妻になってから初恋
朝の拠点は、いつもより少しだけ静かだった。
良樹は食卓に座っていた。
ツナギ姿。
髪も整え、腰袋も近くに置いている。
見た目だけなら、いつもの良樹にかなり戻っている。
けれど、完全ではない。
椅子へ腰を下ろす時、ほんの少し動きが遅い。
湯飲みに手を伸ばす時、肩の動きが小さい。
立ち上がろうとする前に、一度だけ息を整える。
クラリスはそれを見ていた。
カレンも見ていた。
そしてリシアも、見ていた。
見ていた、はずだった。
けれど、リシアの視線は、良樹の身体の状態だけを追えていなかった。
ツナギの袖から出た手。
湯飲みを持つ指。
少しだけ疲れの残る横顔。
それでも食卓へ戻ってきた男の姿。
それが、いちいち胸に刺さる。
良樹は、箸を置いて言った。
「迷惑かけちまったな」
何度目かの言葉だった。
リシアは、すぐに返事をしようとした。
いつもなら言える。
迷惑なんて思っていない。
無理をしたことは怒っている。
でも、帰ってきてくれてよかった。
そんなふうに、言えるはずだった。
けれど、言葉が喉で止まった。
良樹がこちらを見る。
「リシア?」
「な、何でもないわ」
返事が少し早すぎた。
クラリスが静かにリシアを見る。
カレンも小さく首を傾げる。
良樹だけが、本気で分からない顔をしていた。
「そうか?」
「そうよ」
リシアは湯飲みを持った。
熱い。
けれど、手の中の熱より、自分の顔の方が熱かった。
その時だった。
玄関を叩く音がした。
カレンがすぐに反応する。
クラリスは、その音にわずかに表情を変えた。
「この叩き方は……」
クラリスが呟く。
良樹は眉を寄せた。
「知り合いか」
「はい」
「おそらく」
クラリスが立ち上がり、玄関へ向かった。
扉が開く。
そして、朝の空気に、妙に爽やかな声が乗った。
「やぁ、良樹君」
「甥っ子の顔はいつ見せてくれるんだい!?」
食卓の空気が止まった。
良樹は目を細めた。
「来て第一声がそれかよ」
「兄様!?」
クラリスの声が裏返った。
リシアは湯飲みを落としかけた。
「ちょ、ちょっと……!」
カレンは両手を胸元で握る。
「お、おいっ……甥っ子……」
玄関に立っていたのは、クリスだった。
白い法衣。
整った顔。
優雅な立ち姿。
気障な微笑み。
朝から人の家の玄関で初孫の話題を撃ち込むには、あまりにも堂々とした男だった。
「おっと」
「姪っ子でも僕は一向に構わないよ」
「そういう問題じゃねえ」
良樹が即座に返す。
クラリスは兄を睨んだ。
「兄様、朝から何を言っているんですか」
「父上から伝言を預かっていてね」
クリスはまったく悪びれない。
「婿殿の治療を手伝え」
「それから、初孫の祝い酒を楽しみにしている、と」
「後半いらねえだろ」
良樹が言う。
「伝言は正確に伝えるべきだろう?」
「兄様」
クラリスの声が少し低くなる。
「そこだけ妙に誠実にならないでください」
「僕はいつでも誠実だよ、クラリス」
「都合のよい誠実さですね」
クリスは軽く肩をすくめ、家へ入ってきた。
入る動作まで妙に優雅だった。
「リシア、カレン、久しぶりだね」
「以前にも増して綺麗になった」
「結婚とは、女性をここまで輝かせるものなのだね」
リシアは半眼になった。
「そういう台詞をさらっと言えるところ、本当に兄妹ね」
「私を巻き込まないでください」
クラリスが即座に返す。
カレンは顔を赤くしながら、小さく頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……」
「カレン、まともに受け取らなくていいぞ」
「たぶん半分くらい呼吸だ」
良樹が言う。
「失礼だな、良樹君」
「僕は美しいものを美しいと言っているだけさ」
「それを呼吸みたいにやるなって言ってんだよ」
いつものように、良樹が面倒そうに突っ込む。
その声が、普通に聞こえる。
戻ってきた日常のように聞こえる。
それなのに、リシアの胸はまた少しだけ跳ねた。
◇
クリスはふざけていた。
ふざけていたが、良樹の前に立った瞬間、その目だけは少し変わった。
顔色。
肩の動き。
座り方。
右腕の使い方。
呼吸の深さ。
立ち上がる時にどこを庇ったか。
全部、見ている。
良樹も、それに気づいた。
「……見てるな」
「もちろん」
「妹の夫だからね」
「壊れていないか、兄としても治療者としても確認する必要がある」
クラリスは真面目な顔で言った。
「兄様、診てください」
「ああ」
「良樹君、少し手を出してくれるかな」
「手?」
「脈と魔力回路の戻りを見る」
「怖がらなくていい」
「僕は妹ほど殴らない」
「比較対象がおかしいだろ」
「兄様」
「冗談だよ」
クリスは良樹の手首を取った。
その手つきは、先ほどまでの軽さが嘘のように正確だった。
指先で脈を見る。
手首から肘へ、魔力の戻りを追う。
肩の近くで、わずかに目を細める。
「ふむ」
クラリスの顔が少し硬くなる。
「どうですか」
「身体の傷はかなり戻っている」
「クラリスの治療が良かったね」
「ありがとうございます」
「ただし、魔力回路の戻りが少し硬い」
「流すことはできる」
「けれど、急に上げると跳ねる」
「特に大出力と、長時間の連続使用は避けた方がいい」
良樹は自分の手を見た。
「それは俺も感じてる」
「立ち上がりが少し遅い」
「途中で引っかかる感じもある」
「自覚があるなら話が早い」
「少なくとも、数日は無理をしないことだ」
「ああ」
良樹は頷いた。
その瞬間、三方向から視線が刺さった。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人とも、黙って良樹を見ていた。
「……何だよ」
「本当に分かってる?」
リシアが言う。
「無理しませんか?」
カレンが続く。
「守れますか?」
クラリスが締める。
「三方向から信用がねえ」
良樹は眉間を押さえた。
クリスは楽しそうに微笑んだ。
「良い妻たちだね」
「そこは否定しねえけどな」
良樹は、当たり前のように言った。
リシアの動きが止まった。
良い妻たち。
ただ、それだけ。
良樹にとっては、何気ない返事だったのだろう。
けれど、その言葉が胸の奥へ落ちてくる。
良い妻。
良樹の妻。
その中に、自分もいる。
顔が熱くなる。
リシアは、そっと目を逸らした。
クリスが、その一瞬を見逃すはずがなかった。
◇
「それから」
クリスが、わざとらしく指を立てた。
「まだあるのか」
良樹が嫌そうな顔をする。
「あるとも」
「激しい運動は控えること」
「それはさっき聞いた」
「夫婦生活も含めてだよ」
一瞬、全員が止まった。
「言い方!」
良樹が叫んだ。
「なっ……!」
リシアは湯飲みを握ったまま固まる。
「ふ、夫婦……!」
カレンは耳まで赤くなった。
「兄様」
クラリスの声が低い。
クリスはまったく動じない。
「大事な医療判断だ」
「ここを曖昧にして、あとで悪化しても困るだろう?」
「正論を最悪の投げ方で投げるな」
「兄様、言葉を選んでください」
「では言い直そう」
クリスは爽やかに微笑んだ。
「しばらくは、妻たちを焦らさない程度に、しかし身体を壊さない程度に、節度を持って愛し合うように」
「悪化してんだよ」
良樹が頭を抱えた。
リシアは真っ赤になった。
カレンは両手で顔を覆った。
クラリスは赤くなりながらも兄を睨んでいた。
「おや、三人とも随分と反応が良い」
「良樹君」
「君は本当に、罪深い男だね」
「俺のせいなのか、これ」
「良樹くんだけのせいではありません」
「兄様が大部分です」
「厳しいね、クラリス」
「黙ってください」
空気が一度、笑いと赤面で崩れた。
重かった数日間。
グレンの墓。
良樹の療養。
三人妻の不安。
それらの上に、クリスは遠慮なく爆弾を落としていく。
迷惑だった。
迷惑だったが、少しだけ息がしやすくなったのも事実だった。
◇
しばらくして、クリスはリシアを見た。
「ところで、リシア」
「な、何よ」
「体調は?」
「私?」
「ああ」
「少し顔が赤い」
良樹が反応した。
「やっぱりそう見えるよな」
「リシア、朝から少し変なんだ」
「変じゃないわよ!」
声が強く出た。
自分でも分かった。
「いや、変だろ」
「さっきから目も合わねえし」
「何か考え込んでるし」
「そ、それは……!」
「ふむ」
クリスが顎に手を当てる。
「兄様」
クラリスが釘を刺すように呼んだ。
「分かっているよ」
「診察には本人の同意が必要だ」
「それに、これは僕が診る症状ではなさそうだ」
「どういう意味だ」
良樹が聞く。
「良樹君」
「何だ」
「君は本当に、罪深い男だね」
「二回目だぞ、それ」
カレンが心配そうにリシアを見る。
「リシア……大丈夫ですか?」
「大丈夫よ!」
「声が強いですね」
クラリスが静かに言う。
「強くない!」
「強いだろ」
良樹が言った。
「良樹は黙ってて!」
「何で俺だけ怒られるんだ」
「それが夫というものだよ」
「お前にだけは言われたくねえ」
クリスは楽しそうに笑った。
クラリスはため息をつき、それから兄を奥の部屋へ促す。
「兄様」
「良樹くんの治療方針を詰めます」
「今度は真面目にお願いします」
「いつでも真面目だよ」
「先ほどの発言を思い出してください」
「あれも大切な医療判断だった」
「黙ってください」
「厳しいねえ」
クリスとクラリスが奥へ向かう。
カレンも洗い物を手伝うために席を立った。
食卓には、良樹とリシアが残された。
急に、静かになった。
◇
リシアは落ち着こうとして、食器を片付け始めた。
手を動かしていれば、少しは誤魔化せると思った。
皿を重ねる。
湯飲みを寄せる。
匙を取る。
その時だった。
指先が滑った。
匙が床へ落ちる。
軽い音がした。
「あ」
リシアは反射的にしゃがんだ。
同時に、良樹も手を伸ばしていた。
床に落ちた匙へ、二人の手が向かう。
指先が触れた。
本当に、それだけだった。
なのに。
胸が跳ねた。
「っ……!」
リシアは、息を止めた。
良樹の指。
温度。
ほんの一瞬触れただけの感触。
それだけで、身体の奥が熱くなる。
今までなら、大したことはなかった。
良樹とリシアは、何度も一緒に戦ってきた。
魔導盤に入った。
魔力を重ねた。
背中を預けた。
キスもした。
妻にもなった。
抱かれたりもしている。
なのに。
指が触れただけで、息が止まりそうになった。
「どうしたんだ、リシア」
「何か悩み事でもあんのか?」
良樹が心配そうに覗き込む。
いつもの良樹だった。
少し鈍い。
恋の細かい機微には気づかない。
けれど、人の異変には変に気づく。
そして、そういうところが。
格好よかった。
リシアは固まった。
「おい、リシア」
「大丈夫か?」
「な、何でもないわ!」
声が裏返りそうになる。
良樹は眉を寄せた。
「いや、何でもない顔じゃねえだろ」
「顔、赤いぞ」
「熱でもあるんじゃねえか」
良樹が手を伸ばした。
額に触れようとしたのだと、すぐに分かった。
リシアは反射的に一歩下がった。
良樹の手が止まる。
「あ……悪い」
「嫌だったか?」
「違うの」
リシアはすぐに言った。
「嫌じゃ、ないけど」
自分で言って、さらに顔が熱くなる。
嫌じゃない。
むしろ、触れてほしかった。
でも、今触れられたら駄目になる。
自分が駄目になる。
危ない。
本当に、最近の良樹は危ない。
いや、違う。
危ないのは、良樹じゃない。
私だ。
私は今、良樹の何でもない仕草に、いちいち壊されている。
ずっと隣にいた男を。
もう夫になった男を。
今さら、初めて恋をしたみたいな目で見てしまっている。
「リシア?」
良樹がまた呼ぶ。
その声すら、胸に刺さる。
「ちょっと、外の空気を吸ってくるわ」
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫よ!」
また、声が強すぎた。
良樹は本当に心配そうに見ている。
それがまた刺さる。
リシアは、逃げるように家を出た。
◇
危ない。
最近の良樹は、危ない。
リシアは、工房通りへ向かう道を歩きながら、胸元を片手で押さえていた。
歩いている。
普通に歩いている。
ただ、少し早いだけだ。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、耳の奥ではまだ心臓の音がうるさかった。
良樹に触れたい。
手を繋ぎたい。
隣に座りたい。
抱きつきたい。
胸に顔を埋めたい。
帰ってきた良樹を、何も考えられないくらい甘やかしたい。
なのに。
いざ良樹が近づくと、心臓が爆発しそうになる。
顔が熱い。
息が苦しい。
目を合わせられない。
なんで。
なんで今さら。
私は、どうにかなってしまったの。
そう思いながら、リシアが逃げた先は、ノーラの工房だった。
◇
工房の中には、金属を削る音と、木材を叩く音が混じっていた。
油の匂い。
熱を持った鉄の匂い。
乾いた木くずの匂い。
ノーラは作業台の前で、固定具らしき部品を手にしていた。
腰には道具。
腕には薄い傷。
額には汗。
いつもの、若い女職人の姿だった。
「あれま」
ノーラが顔を上げる。
「リシアちゃん、久々だね」
「良樹と上手くやってんのかい?」
それから、にやりと笑う。
「やってないわけないか。ははは!」
いつもの調子だった。
明るくて、遠慮がなくて、少し乱暴で。
それでいて、妙に人の芯を見る。
リシアは、何か返そうとした。
けれど、声が出なかった。
俯いたまま、手を胸元で握る。
ノーラの笑いが、そこで止まった。
女の直感。
それだけで、何かを察したらしい。
「ケーン!」
ノーラは奥へ向かって声を張った。
「あんた! ちょっとアタシは休憩するよ!」
「大事なお客さんも来てるしね!」
奥の作業台で何かを削っていたケーンは、こちらを振り返らなかった。
ただ、背中を向けたまま右手をひらひらと振る。
分かった、という合図だった。
「ほら、こっちおいで」
ノーラは手を拭きながら言った。
「表じゃ話しにくいことだろ?」
リシアは小さく頷いた。
◇
作業場の奥には、小さな休憩用の卓があった。
椅子が二つ。
水差し。
少し欠けた木の杯。
壁には工具が並び、窓際には乾かしている布が吊られている。
ノーラは椅子を引いた。
「座りな」
「……はい」
リシアは椅子へ腰を下ろした。
座ってからも、膝の上で両手を握ったままだった。
ノーラは向かいに座る。
「どうしたんだい」
「良樹と喧嘩でもしたのかい」
それから、少しだけ声を落とす。
「噂では、かなり大変なことになってたみたいだけどさ」
グレンのことだ。
町には、すべてではないにせよ、ある程度の話が伝わっている。
良樹が傷だらけで帰ってきたことも。
三人妻が支えたことも。
ギルドや施療院が動いていたことも。
リシアは、首を横に振った。
「喧嘩じゃ、ないの」
「じゃあ何だい?」
リシアは、しばらく口を開けなかった。
言葉にするのが恥ずかしかった。
けれど、言葉にしないとどうにもならないことも、自分で分かっていた。
「……ノーラさん」
「うん」
「私、おかしいの」
ノーラは茶化さなかった。
「何がだい?」
リシアは、膝の上で握った指に力を込めた。
「私、良樹の妻なのよ」
「うん」
「もう、抱かれてもいるわ」
「お盛んだねえ」
ノーラが反射のように言った。
リシアの肩が小さく跳ねる。
ノーラはすぐに片手を上げた。
「おっと」
「茶化したらまずいところだね」
「ごめんよ」
リシアは、ふるふると首を振った。
「いいの」
「そういうことを言われるのが嫌なんじゃないの」
「じゃあ?」
「なのに」
リシアは、やっと顔を上げた。
目元が少し赤い。
「今さら」
「良樹と手が触れただけで、ドキドキしちゃって」
「顔なんて、まともに見られなくて」
「名前を呼ばれるだけで、胸が苦しくて」
言えば言うほど、顔が熱くなる。
「良樹が近づいてくると、嬉しいのに」
「触れたいのに」
「でも、心臓が壊れそうになるの」
ノーラは黙って聞いていた。
からかわない。
急かさない。
ただ、リシアが言葉を出し切るのを待っている。
「嫌いになった、ってわけじゃなさそうだね」
やがて、ノーラが言った。
リシアは即座に首を横に振った。
「逆」
声が、小さく震えた。
「良樹のこと、大好きなの」
「うん」
「今まで何も思わなかったことまで、全部、胸に刺さるの」
「良樹が格好良く見えちゃって」
「立ってるだけでも」
「心配してくれるだけでも」
「私の名前を呼ぶだけでも」
リシアは、また俯いた。
「だから、顔もまともに見られなくて」
「恥ずかしくて」
「このままじゃ私……妻を続けていけなくなりそうで……」
言い終わった。
言ってしまった。
工房の奥に、小さな沈黙が落ちる。
次の瞬間。
「……く」
ノーラの口元が震えた。
「くくっ」
「ノーラさん?」
「あー」
ノーラは片手で顔を覆った。
だが、もう駄目だった。
「アッハッハッハッハ!」
工房の奥に、豪快な笑い声が響いた。
「の、ノーラさん!?」
「ごめん、ごめん!」
ノーラは腹を押さえながら笑っている。
「いや、悪かった」
「悪かったんだけどさ」
「あんまりにも、あんたが可愛らしい顔で悩んでるもんだからさ」
「可愛いって……!」
「可愛いよ」
「そりゃもう、見事なくらいに」
ノーラは笑いを堪えながら、リシアを見た。
「リシアちゃん」
「あんた、初恋はいつ頃だい?」
「え?」
予想外の質問に、リシアは瞬きをした。
「初恋?」
「ああ」
「最初に、誰かを好きだって思った時だよ」
「……確か、十二歳くらいの頃」
「その時のこと、思い出せるかい?」
「ちゃんとは覚えてないけど……」
「じゃあ、今の自分と、その時の自分を比べてみな」
ノーラの声は、笑いを含んでいた。
けれど、不思議と雑ではなかった。
リシアは言われるままに、十二歳の頃の自分を思い出した。
相手は、近所にいた少し年上の少年だった。
別に、何か大きな出来事があったわけではない。
ただ、優しく声をかけられた。
ただ、笑いかけられた。
ただ、自分の知らないことを少し知っていた。
それだけで、相手が妙に眩しく見えた。
話しかけたいのに、話しかけられなかった。
目が合うと、慌てて逸らした。
相手が他の女の子と話しているだけで胸がざわついた。
ほんの一言をもらっただけで、その日一日ずっと嬉しかった。
恥ずかしくて。
苦しくて。
でも、嬉しくて。
あの頃の自分は、どうしようもなく不器用だった。
リシアは、そこで動きを止めた。
「……え」
胸の奥で、何かが繋がった。
「ちょっと待って」
ノーラがにやにやしている。
「え」
「なんで」
「なんで?」
「いやぁ」
ノーラは椅子の背にもたれた。
「ずいぶん可愛らしい顔で工房に来たからねえ」
「まるで、初恋に悩む女の子そのものだったよ」
そしてまた笑う。
「アーッハッハッハ!」
「え、だって、おかしいわよ!」
リシアは立ち上がりそうになった。
「私、もう良樹の妻なのよ?」
「今さらそんなことがあるわけ――」
「そんなことになったから」
ノーラは笑いながらも、真っ直ぐ言った。
「そんな顔でここに来たんだろう?」
リシアは言葉を失った。
ノーラは、今度は優しく笑う。
「いいじゃないか」
「……いいの?」
「いいに決まってるだろ」
ノーラは胸を張った。
「二回目の初恋を」
「それも結婚した後にさせてくれる男なんて、そうそういないよ!」
リシアの頬が、また赤くなる。
「二回目の、初恋……」
「そうさ」
ノーラは奥へ向かって声を張った。
「まあ、あたしは何度も旦那に惚れ直してるけどね!」
「ねぇ、あんた!」
奥のケーンは、相変わらずこちらを向かなかった。
ただ、耳だけが赤い。
そして、さっきと同じように右手をひらひらと振った。
ノーラはそれを見て、満足そうに笑う。
「ほら、あれがうちの返事さ」
「……仲、いいのね」
「悪くないよ」
「喧嘩もするけどね」
ノーラはリシアへ視線を戻した。
「夫婦ってのは、一回好きになって終わりじゃない」
「一緒に飯を食って」
「一緒に仕事して」
「喧嘩して」
「腹を立てて」
「それでも、ふとした時にまた惚れる」
ノーラの声が、少しだけ柔らかくなる。
「疲れて帰ってきた顔とか」
「子供を抱いた時の手つきとか」
「馬鹿みたいなことを真剣にやってる横顔とか」
「そういうので、何度もね」
リシアは黙って聞いていた。
「だから、リシアちゃん」
「あんたはおかしくなんかないよ」
「でも」
リシアは不安そうに言った。
「どうしたらいいのか分からないの」
「顔を見ただけでも、私……」
「リシアちゃん」
ノーラは、少しだけ声を強めた。
「あんたは良樹のことが好きなんだろ?」
リシアは、こくんと頷いた。
「一回目の初恋の時より、今の方が苦しいんだろ?」
リシアは、今度は何度も頷いた。
ノーラは、にかっと笑った。
「だけど、リシアちゃんはもう良樹の嫁さんだ」
その言葉に、リシアの肩が揺れた。
「なら、そのまま良樹に全部ぶつけな」
「全部……?」
「ああ」
「恥ずかしいなら、恥ずかしいって言えばいい」
「触れたいなら、触れたいって言えばいい」
「顔を見られないなら、見られないって言えばいい」
「好きすぎてどうしたらいいか分からないなら、そう言えばいい」
リシアは目を丸くした。
「そんなの、言えるわけ……」
「それとも」
ノーラは少しだけ目を細めた。
「良樹は、そんなに狭量な男かい?」
「そんなことない!」
リシアの声は、思ったより大きく出た。
ノーラは笑った。
「ほら」
「答えは分かってるじゃないか」
リシアは、自分の胸元を押さえた。
そうだ。
良樹は笑わない。
馬鹿にしない。
リシアが本気で言ったことを、雑に扱わない。
たぶん困る。
きっと照れる。
言い訳もする。
でも、受け止める。
リシアは、それを知っている。
「なら、この先はアタシの出る幕じゃないね」
ノーラは椅子から立ち上がった。
そして、作業場の入口の方を見た。
「そうだろう――良樹」
リシアの息が止まった。
ゆっくりと振り返る。
作業場の入口に、良樹が立っていた。
◇
良樹は、少し息を乱していた。
ツナギ姿。
顔色はまだ完全ではない。
片手を壁に添え、少しだけ肩を上下させている。
それでも、目はまっすぐリシアを見ていた。
「……良樹」
「悪い」
良樹は短く言った。
「探した」
リシアは立ち上がった。
「何してるのよ」
「まだ治ってないのに」
「走ってはいない」
良樹は即答した。
ノーラが半眼になる。
「本当かい?」
「……早歩きはした」
「駄目じゃないか」
「反省してる」
「してる顔じゃないね」
「してる」
ノーラは呆れたように笑った。
「まあ、いいさ」
「少なくとも、ここまで来た理由は分かる」
良樹はリシアへ視線を戻した。
「リシアが変だった」
「ほっとけるわけねえだろ」
胸が、跳ねた。
まただ。
また、何でもないような顔で、そんなことを言う。
リシアは唇を噛んだ。
「……そういうところよ」
「何がだ」
「そういうところが、危ないの」
「俺、何かしたか?」
「してないわよ」
「何もしてない」
リシアは、声を震わせながら言った。
「何もしてないのに、危ないの」
良樹は本気で分からない顔をした。
ノーラが横で笑いを堪えている。
「良樹」
「何だ」
「リシアちゃんを連れて帰りな」
「この先は、あんたら夫婦の話だ」
良樹は一度ノーラを見た。
それから、リシアを見る。
「ああ」
短い返事だった。
けれど、逃げていなかった。
◇
工房を出ると、外の空気は少し冷たかった。
夕方にはまだ早い。
けれど、陽の光は少し斜めになり始めていた。
リシアは良樹の横に並んだ。
並ぶだけで、落ち着かない。
さっきまでノーラに全部話した。
笑われた。
二回目の初恋だと言われた。
それで少しだけ楽になったはずなのに。
隣に良樹がいる。
それだけで、また胸がうるさい。
良樹はしばらく黙っていた。
それから、ふいに右手を差し出した。
何も言わない。
ただ、手を出す。
手を繋いで帰るぞ、というジェスチャーだった。
リシアは、その手を見た。
大きい手。
工具を握る手。
魔導盤を組む手。
何度も無茶をした手。
それでも、帰ってきた手。
取ればいい。
妻なのだから。
今さら手を繋ぐくらい、何でもないはずなのだから。
なのに。
指先が動かなかった。
心臓の音だけがうるさい。
耳の奥で、どくどくと鳴っている。
良樹の手が、そこにある。
リシアを待っている。
触れたい。
けれど、取れない。
良樹は、少しだけ待った。
そして、小さく息を吐いた。
「リシア」
名前を呼ばれた。
それだけで、また胸が跳ねた。
次の瞬間、良樹の手が伸びた。
強くはない。
けれど、迷う余地を残さない手だった。
リシアの指先が、良樹の手に包まれる。
「あ」
声が漏れた時には、もう手を繋いでいた。
良樹の手は温かかった。
それだけで、リシアは息の仕方を忘れそうになった。
「……歩くぞ」
良樹が言った。
「まだ完全に治ってねえから、ゆっくり歩く」
「お前も少し顔色が変だ」
「転ばれると困る」
「だから、これはその……確認だ」
いつものように、言い訳めいたことを並べている。
安全確認。
転倒防止。
歩調合わせ。
何かそんな、現場屋らしい理屈。
たぶん、良樹は本気でそう考えている。
たぶん、照れ隠しでもある。
リシアは、返事をしたかどうかも覚えていない。
そこから家までのことを、リシアはほとんど覚えていない。
良樹は何か言っていた気がする。
「道の端は少し石が多い」とか。
「歩幅を合わせる」とか。
「無理に早く歩くな」とか。
「俺も早く歩けねえ」とか。
いつものように、言い訳めいたことを並べていた気がする。
けれど、リシアの耳には半分も入ってこなかった。
隣を歩く男の横顔。
繋がれた手の温度。
歩幅を合わせてくれる足音。
時々こちらを見る、心配そうな目。
それだけで、胸がいっぱいだった。
リシアは、隣を歩く初恋の相手を見ていた。
夫なのに。
もう、自分の夫なのに。
それでも今、リシアは良樹に恋をしていた。
妻になってから始まった、二度目の初恋だった。
◇
拠点へ戻ると、カレンが最初に気づいた。
良樹とリシアが手を繋いだまま入ってきたからだ。
しかも、リシアは顔が赤い。
目元も少し潤んでいる。
そして、手を離していない。
良樹の方は、少し照れたように視線を逸らしている。
カレンは、両手を胸元で握った。
「リシア……可愛いです」
「カレン!?」
リシアが反射的に叫ぶ。
奥からクラリスが顔を出した。
その後ろにクリスもいる。
クラリスは二人を見るなり、柔らかく微笑んだ。
「これは、かなり重症ですね」
「何がよ!」
リシアは赤い顔で言い返す。
クリスは優雅に頷いた。
「なるほど」
「少し目を離した間に、初々しい空気になっているね」
「何もないわよ!」
「何もない時の女性は、だいたいそういう顔をしないものだよ」
「兄様、黙ってください」
クラリスが静かに言う。
クリスは肩をすくめた。
「僕は事実を述べただけだよ」
良樹は手を繋いだまま、少し困った顔をした。
「本当に何もしてねえぞ」
「手を繋いで帰っただけだ」
クリスは楽しそうに笑う。
「手を繋いだだけでその顔になるなら、なおさら素晴らしいね」
「医療判断みたいに言うな」
「恋の症状ですね」
クラリスが清楚に言った。
「クラリスまで乗るな」
カレンは赤くなりながらも、じっとリシアを見ていた。
「でも、本当に可愛いです」
「リシアが、そんな顔をするの……」
「もう全員黙って!」
リシアは叫んだ。
叫んだが、手は離さなかった。
そのことに気づいて、カレンがさらに頬を緩める。
クラリスも微笑む。
クリスは余計なことを言いかけ、クラリスに睨まれて黙った。
良樹は、繋いだ手を一度見た。
離すべきか。
このままでいいのか。
迷っている顔だった。
リシアは、その迷いに気づいた。
だから、ほんの少しだけ指に力を込めた。
離さないで。
言葉にはしなかった。
けれど、良樹には伝わったらしい。
良樹は、何も言わずに手を繋いだままでいた。
◇
夜。
リシアは三人部屋の窓際に立っていた。
外は静かだった。
昼間の工房の匂いも、ノーラの笑い声も、良樹の手の温度も、まだ身体の中に残っている。
二回目の初恋。
ノーラは、そう言った。
最初は、何を馬鹿なことをと思った。
でも、今なら分かる。
私は良樹を好きだ。
それはもう分かっている。
良樹の妻だ。
それも分かっている。
でも、それで終わりではなかった。
好きになったら終わりではない。
妻になったら終わりでもない。
抱かれたら終わりでもない。
また、好きになる。
何度でも。
リシアは、自分の手を見た。
今日、良樹に取られた手。
繋いで帰った手。
思い出すだけで、胸が熱くなる。
カレンやクラリスのように、良樹を好きになった特別な一つの出来事があったわけではない。
一緒にいた。
一緒に戦った。
一緒に考えた。
一緒に怒った。
一緒に失敗して、改善した。
無茶を叱った。
変な説明に突っ込んだ。
格好悪いところも見た。
面倒くさいところも見た。
それで、いつの間にか好きになっていた。
それでいいと思っていた。
でも、違った。
それで終わりではなかった。
隣にいた時間の全部が、理由だった。
そして今日も。
良樹が探しに来てくれたこと。
ほっとけないと言ったこと。
手を差し出したこと。
取れない自分の手を、迷わせずに取ってくれたこと。
それもまた、理由になる。
私は、良樹に何度でも恋をし直すのかもしれない。
リシアは小さく息を吐いた。
妻会議で決めた順番を思い出す。
一番手は自分。
良樹を甘やかしたい。
何も考えられないくらい甘えさせたい。
ここに戻ればいいと、何度でも思わせたい。
そう思っていた。
でも今日、自分も良樹に甘えたいのだと分かった。
包みたい。
包まれたい。
甘やかしたい。
甘えたい。
どちらも、自分だった。
「……覚悟してなさいよ、良樹」
小さな声で呟く。
以前のように、ただ良樹を落とす覚悟ではない。
自分も落ちる覚悟。
夫に、何度でも恋をする覚悟。
リシアは窓の外を見た。
胸はまだ少し苦しい。
けれど、もう怖くはなかった。
妻になってから始まった、二度目の初恋。
その火は、消えるどころか、ゆっくりと深く燃え始めていた。




