第110話 妻会議、そして戻ってきた朝(挿絵有)
良樹は眠っていた。
墓前から戻り、家へ帰り、寝台に横になった途端、糸が切れたように眠った。
いや、正確には眠らされた。
クラリスが治療者の顔で、きっぱりと言ったのだ。
「良樹くん、今から眠ってください」
「拒否権はありません」
良樹は何かを言おうとした。
だが、リシアが額を指で押した。
「寝なさい」
カレンが、良樹の手を両手で包んだ。
「良樹さん、お願いします」
「休んでください」
三方向から来た。
良樹はしばらく三人を見ていたが、やがて諦めたように目を閉じた。
「……三対一が早い」
そう言って、眠った。
寝息が落ち着くまで、三人は良樹のそばにいた。
クラリスは脈と呼吸を確かめた。
リシアは毛布を直した。
カレンは良樹の手を、最後まで離せずにいた。
やがて、クラリスが小さく頷いた。
「大丈夫です」
「眠っています」
リシアは、ほっと息を吐いた。
カレンも、ようやく良樹の手をそっと布団の中へ戻した。
三人は、良樹を起こさないように部屋を出た。
扉を静かに閉める。
その瞬間、三人は顔を見合わせた。
誰も何も言わなかった。
だが、三人とも分かっていた。
今、話さなければならない。
良樹が眠っている今しかない。
三人は無言のまま、三人部屋へ向かった。
◇
三人部屋には、小さな灯りがともっていた。
夜ではない。
まだ夕方に近い時間だった。
それでも、部屋の中は妙に静かだった。
窓の外では町の音がしている。
荷車の音。
誰かの話し声。
遠くで子供が笑う声。
だが、三人の間には、それとは別の熱があった。
墓前で聞いた言葉が、まだ消えていなかった。
グレンが、良樹に言った。
女達から裁いてやろうか。
良樹は、それを殺して止めた。
自分が殺されるわけにはいかなかった。
三人を殺させるわけにはいかなかった。
アルフも殺させるわけにはいかなかった。
全部、俺の都合だ。
そう言った。
正義ではなく。
英雄としてでもなく。
救済としてでもなく。
自分の都合で殺した。
その言葉が、三人の胸の奥に残っていた。
重く。
痛く。
そして、どうしようもなく熱かった。
リシアは椅子に座った。
クラリスも、静かに腰を下ろす。
カレンは少しだけ遅れて、胸元で両手を握りながら座った。
いつもの妻会議。
けれど、今回の議題は、いつものように軽くはなかった。
リシアは深く息を吸った。
「……では」
言いながら、頬が熱くなる。
それでも逃げなかった。
「妻会議を始めます」
カレンが小さく頷く。
「はい……」
クラリスも、真剣な顔で頷いた。
「はい」
リシアは一度目を閉じた。
良樹が逃げなかったのだ。
なら、自分たちも逃げるわけにはいかない。
「議題は」
リシアは言った。
「良樹が回復した後」
「一対一で」
「夫婦として受け止めてもらう順番について」
沈黙。
三人とも、顔が赤くなった。
誰も、議題そのものを否定しなかった。
否定できなかった。
墓前で。
良樹が、自分たちのためにも殺したと知った。
あの男が、どんな思いで帰ってきたのかを知った。
だから。
触れたい。
抱きしめたい。
口づけたい。
抱かれたい。
それは、もう三人とも同じだった。
違うのは、その奥にある願いだけだった。
「最初に、確認です」
クラリスが口を開いた。
声は落ち着いていた。
治療者の声だった。
「良樹くんが完全に回復するまでは、禁止です」
リシアは頷いた。
「当然ね」
カレンも真剣に頷く。
「はい」
「良樹さんの身体が一番です」
「傷口」
「筋肉」
「魔力回路」
「呼吸」
「右腕」
「左腕」
「腰」
クラリスが指を折っていく。
リシアは、最後の項目で目を細めた。
「クラリス」
「はい」
「最後の腰、今かなり具体的な意味で入れたわよね」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「必要な確認です」
「治療者として?」
「妻としてもです」
カレンの顔が、ぼっと赤くなった。
「く、クラリス……」
クラリス自身も耳まで赤かった。
それでも、引かなかった。
リシアは額に手を当てる。
「この会議、最初から強いわね」
「ですが、必要です」
クラリスは静かに言った。
「良樹くんを壊してはいけません」
「それは絶対」
リシアが頷く。
カレンも強く頷いた。
「壊したく、ありません」
そこで、また沈黙が落ちた。
良樹を壊したくない。
それは本心だった。
だが、それだけで自分たちの中の熱が消えるわけではなかった。
リシアは息を吐いた。
「じゃあ、順番の話に入る前に」
「それぞれ、ちゃんと言いましょう」
クラリスがリシアを見る。
「何を、ですか」
「自分が、良樹にどうしてほしいのか」
「どう抱かれたいのか」
カレンの肩が小さく跳ねた。
クラリスも、さすがに目を伏せた。
言葉にするには、あまりに生々しい。
けれど、リシアは逃げなかった。
「ここを曖昧にしたまま順番だけ決めたら、たぶん後でおかしくなるわ」
「だから、言う」
「私も言う」
リシアは、胸に手を当てた。
自分から言うしかない。
そう思った。
「私は、良樹を甘やかしたい」
カレンが顔を上げた。
クラリスも、静かにリシアを見る。
「良樹は、帰ってきた」
「殺して」
「傷だらけで」
「それでも、帰ってきた」
リシアの声が、少し低くなる。
「叱るのも、止めるのも、怒るのも」
「たぶん、私の役目よ」
それは今までの自分だった。
良樹が無理をするたびに怒った。
危ないことをすれば止めた。
自分を軽く扱えば叱った。
それはこれからも変わらない。
けれど。
「でも、今度は違う」
「何も考えられないくらい、甘えさせたい」
「ここに戻ればいいって」
「ここでは力を抜いていいって」
「何度でも、私のところに戻りたいって」
「そう思うくらい」
リシアの頬が赤くなる。
それでも、最後まで言った。
「全部、包んであげたいの」
言い終えた瞬間、リシアは視線を逸らした。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
だが、言った。
自分の欲は、そこにあった。
良樹を甘やかしたい。
良樹に甘えさせたい。
帰ってきた男を、全部受け止めたい。
それは正妻としての包容であり、女としての欲でもあった。
カレンは、胸元で両手を握った。
「リシア……」
クラリスは、静かに頷いた。
「分かります」
「分かるなら譲る?」
「譲りません」
「でしょうね」
リシアは苦笑した。
次に、クラリスが口を開いた。
「私は……」
いつもの清楚な表情ではなかった。
治療者の顔でもない。
ただ、良樹を思う女の顔だった。
「私は、癒したいです」
「良樹くんの身体も、心も、ちゃんと見たいです」
「傷も、痛みも、抱えたものも」
「少しでも軽くしたい」
そこまでは、クラリスらしい言葉だった。
けれど、クラリスはそこで止まらなかった。
「でも」
声が変わる。
「それだけではありません」
リシアは黙った。
カレンも息を呑む。
クラリスの頬が赤くなる。
耳まで赤くなる。
けれど、その目は逃げていなかった。
「今は、ただ」
「良樹くんに抱かれたいです」
部屋の空気が止まった。
リシアが目を見開く。
カレンは完全に固まった。
言ったクラリス自身も真っ赤だった。
だが、続けた。
「治療者としてではなく」
「僧侶としてでもなく」
「清楚な顔で、良樹くんを見守るのでもなく」
一拍。
「辛いことも」
「苦しいことも」
「全部、忘れて」
「良樹くんと」
「求め合いたいんです」
最後は消えそうな声だった。
だが、確かに聞こえた。
リシアは、しばらく言葉が出なかった。
クラリスがここまで真っ直ぐ言うとは思っていなかった。
普段は、良樹に触れる側。
身体を見る側。
安全を確認する側。
そのクラリスが。
ただ、良樹に抱かれたいと言った。
カレンが、小さく呟いた。
「クラリス……すごいです」
クラリスは首を振った。
「すごくありません」
「たぶん今の私は、とても弱いです」
「でも」
カレンは言った。
「逃げていません」
クラリスは、カレンを見る。
そして、少しだけ微笑んだ。
「はい」
「逃げたくありません」
誰も笑わなかった。
誰も茶化さなかった。
これは、三人がそれぞれの欲を認める会議だった。
軽く扱っていい話ではなかった。
最後に、カレンが口を開いた。
「あの」
声は震えていた。
けれど、目は逃げていない。
「私は」
「最後でいいです」
リシアとクラリスが、同時にカレンを見る。
「最後?」
リシアが聞く。
「はい」
カレンは小さく頷いた。
「今まで、こういう時は……」
「先にしてもらうことが多かったので」
カレンは、自分の胸元を押さえる。
怖がる自分。
自信のない自分。
先に安心させてもらった自分。
背中を押してもらった自分。
良樹にも。
リシアにも。
クラリスにも。
何度も、先に手を差し出してもらった。
「もちろん、嬉しかったです」
「助けてもらって、安心しました」
カレンは、ゆっくり息を吸った。
「でも、今回は待てます」
「最後でも、良樹さんは来てくれるって」
「分かっていますから」
リシアは、息を止めた。
カレンは変わった。
守られるだけの子ではない。
先に安心を貰わなければ立てない子でもない。
最後でも、良樹が来てくれると信じて待てる。
それは、カレンにとって大きな変化だった。
クラリスが柔らかく微笑む。
「カレン」
「とても強いですね」
「つ、強くは……」
「強いわよ」
リシアも言った。
「今のは、ちゃんと強い」
カレンは、真っ赤になりながらも頷いた。
「……はい」
そして、少しだけ目を伏せる。
「それで……」
「良樹さんに、ちゃんと受け取ってほしいです」
声が震える。
「守ってもらった女として」
「私の身も心も」
「全部、良樹さんに捧げて」
「受け取ってもらって」
一拍。
「俺の女だって」
「言われたいです」
部屋の空気が、熱を持った。
リシアは黙った。
クラリスも、静かにカレンを見る。
カレンは、言い切った。
それは弱さではなかった。
良樹に守られた女として。
良樹に奪わせなかった女として。
自分の全部を良樹に渡したい。
そして、良樹の言葉で確かめたい。
良樹さんの女だと。
良樹さんだけの女だと。
そう言われたい。
良樹を信じているからこそ言える願いだった。
リシアは、ゆっくり頷いた。
「分かった」
「カレンは最後」
クラリスも頷く。
「異議ありません」
カレンは、少しだけ安心したように目を伏せた。
「ありがとうございます」
「礼を言うところじゃないわよ」
リシアは苦笑する。
「これは順番の話であって、優劣じゃないんだから」
「はい」
「分かっています」
「だから、待てます」
リシアはそれ以上何も言わなかった。
言えば、泣きそうになる気がした。
◇
「さて」
リシアは、クラリスを見た。
「残るは、私とクラリスね」
「はい」
クラリスは、清楚に微笑んだ。
ただし、目がまったく笑っていなかった。
カレンは、二人の間の空気を見て少しだけ肩を縮めた。
「あ、あの」
「喧嘩は……」
「喧嘩じゃないわ」
リシアが即答した。
「はい」
「これは、正当な順番協議です」
クラリスも即答した。
「順番協議……」
カレンは小さく繰り返した。
言葉は穏やかだ。
だが、空気は一騎打ちだった。
「最初は私が行くわ」
リシアが言った。
「いいえ」
「最初は私です」
クラリスが返した。
「理由を聞いても?」
「良樹くんの身体を診ているのは私です」
「回復後、最初に無理をしていないか確認するのは、治療者として当然です」
「それは治療でしょ」
「はい」
「そのまま、妻としても確認します」
「最後に本音を足したわね」
「足しました」
クラリスは逃げなかった。
リシアは小さく笑う。
「私だって譲らないわよ」
「帰ってきた良樹を最初に甘やかすのは、私」
「私も譲りません」
「良樹くんに最初に求められたいです」
カレンは、二人を見比べた。
これは終わらない。
たぶん、朝まで話しても終わらない。
リシアも同じことを思ったのだろう。
深く息を吐いた。
「ジャンケンね」
クラリスは即答した。
「異議ありません」
「一発勝負」
「はい」
「勝った方が一番」
「負けた方が二番」
「カレンは三番」
「はい」
カレンは緊張した顔で頷いた。
妻会議。
議題は、良樹が回復した後に一対一で抱かれる順番。
決定方法は、ジャンケン。
良樹が聞いたら、きっと天井を見上げる。
リシアとクラリスは卓を挟んで向かい合った。
「いくわよ」
「はい」
カレンが息を呑む。
「最初は」
二人の声が重なる。
「「グー」」
一拍。
「「ジャンケン――」」
二人の手が出た。
リシアは、パー。
クラリスは、グー。
沈黙。
リシアが自分の手を見る。
クラリスも自分の手を見る。
カレンは目を丸くした。
「……勝ったわ」
リシアが言った。
クラリスは、ゆっくり手を下ろした。
「負けました」
「悪いわね、クラリス」
「いいえ」
「決めたことですから」
悔しそうではある。
だが、誤魔化しはなかった。
リシアは、少しだけ表情を引き締めた。
「じゃあ、決定ね」
三人が頷く。
「一番、私」
「二番、クラリス」
「三番、カレン」
口にした瞬間、三人ともまた顔が赤くなった。
決まってしまった。
良樹が回復した後。
一対一で。
夫婦として。
その順番が。
「最後に確認」
リシアが言った。
「この順番は優劣じゃない」
「はい」
クラリスが頷く。
「抜け駆けでもありません」
カレンも続ける。
「三人で、決めました」
「良樹の身体が完全に回復するまでは禁止」
「はい」
「私が確認します」
クラリスが言う。
リシアは目を細めた。
「ただし、クラリスが自分の番を早めるために甘い診断を出すのは禁止」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「そのようなことはしません」
「一拍遅れたわよ」
「しません」
「本当ね?」
「しません」
カレンが、少しだけ笑った。
リシアも、つられて笑う。
少しだけ空気が緩んだ。
だが、すぐにまた、静かな熱が戻る。
「良樹に逃げ道は?」
リシアが聞いた。
クラリスは答えた。
「必要な確認のための時間は渡します」
カレンも続ける。
「嫌なら、止めます」
リシアは頷いた。
「当然ね」
そして、少しだけ声を低くした。
「でも」
「なかったことにはさせない」
クラリスが頷く。
「はい」
カレンも、静かに頷いた。
「はい」
良樹は、きっと確認する。
本当にいいのか。
無理をしていないか。
勢いではないのか。
怖くないのか。
その確認は必要だ。
良樹が良樹であるために。
三人が安心して踏み込むために。
だが、その確認を理由に、良樹が逃げ切ることは許さない。
三人は、もう妻なのだから。
◇
妻会議から、数日が経った。
その間、良樹は徹底的に療養させられた。
クラリスが治療し、リシアとカレンが看病した。
フィルも何度か治療を兼ねて見舞いに来た。
ガレスも顔を出した。
アルフも何度も見舞いに来た。
アルフは、まだ本格的な修行には入っていない。
ただ、逃げなかった。
良樹の前に来て、ぎこちなく頭を下げ、短く言葉を交わして帰っていく。
それだけでも、今は十分だった。
良樹は少しずつ回復していった。
傷の痛みは残っている。
魔力回路の負荷も消えてはいない。
腕や肩の動きにも、まだ硬さがある。
それでも、寝台から起き上がれるようになった。
食事を自分で取れるようになった。
短い距離なら歩けるようになった。
そして、数日後の朝。
一階の居間には、リシア、クラリス、カレンがいた。
卓の上には朝食。
温かい茶。
クラリスが用意した薬湯。
良樹用に柔らかくしたパン。
リシアは窓を開け、朝の空気を入れていた。
クラリスは薬湯の温度を確かめている。
カレンは良樹の椅子と食器の位置を整えていた。
「そろそろ、様子を見に行った方がいいかしら」
リシアが言った。
「はい」
「良樹くん、目を覚ましているかもしれません」
クラリスが頷く。
「起きているだけならいいですが」
「無理に動いていた場合は、もう一度寝かせます」
リシアは苦笑した。
「良樹が聞いたら、また三対一が早いって言いそうね」
「言うと思います」
カレンが少しだけ笑う。
「言わせておけばいいです」
「それでも寝かせますので」
クラリスは微笑んだ。
その時だった。
二階から、床板の軋む音がした。
三人が同時に顔を上げる。
足音。
一歩。
もう一歩。
ゆっくりと、階段を降りてくる音。
リシアの手が止まった。
クラリスが薬湯の器を置く。
カレンが食器から手を離す。
階段の上に、良樹が現れた。
作業用のツナギを着ていた。
まだ腰袋は下げていない。
工具も持っていない。
身体の動きも万全ではない。
それでも。
良樹は、自分の足で立っていた。
いつものように、ツナギを着て。
現場へ戻る男の顔をして。
三人は、階段の下から良樹を見上げた。
良樹は三人の顔を見て、少しだけ口元を緩めた。
「おはよう」
「リシア、クラリス、カレン」
その声を聞いた瞬間。
三人の胸の奥が、同時に跳ねた。
良樹は続けた。
「迷惑かけちまった」
言葉は短かった。
いつもの良樹だった。
飾らない。
格好つけない。
自分の怪我を大げさに語らない。
けれど、ちゃんと三人を見る。
三人は、何も言えなかった。
良樹は今までも格好良かった。
もちろん、格好悪かったこともある。
むしろ、かなりあった。
流されてきた時。
空を見て誤魔化した時。
説明が長すぎて止められた時。
妙な道具に目を輝かせていた時。
不用意な言葉で三人の心臓を跳ねさせた時。
格好良いだけの男ではなかった。
けれど。
今日の良樹は、三人には今までで一番格好良く見えてしまった。
殺して帰ってきた男。
傷ついて帰ってきた男。
それでも、自分たちの家で目を覚まし、ツナギに袖を通し、自分の足で階段を降りてきた男。
ただの朝の挨拶が。
ただの「迷惑をかけた」が。
三人の中に、この数日間で積み上がった熱へ、真っ直ぐ落ちた。
リシアは、何とか平静を保とうとした。
「お、おはよ……」
「もう、動けるの?」
声が少しだけ揺れた。
自分で分かった。
分かったが、止められなかった。
良樹は階段を降りながら頷く。
「ああ」
「お前らの看病のおかげだ」
「ありがとうな」
リシアの顔が熱くなった。
駄目だった。
その言い方は駄目だった。
墓前で、良樹を甘やかしたいと思った。
何度でも戻りたいと思わせたいと思った。
その男が、今、自分たちの看病のおかげだと言っている。
戻ってきた男が、礼を言っている。
リシアは口を開きかけて、閉じた。
怒る言葉が出ない。
からかう言葉も出ない。
クラリスは、完全に見とれていた。
治療者としてなら、言うべきことは山ほどある。
まだ階段は早いです。
右腕を庇っています。
呼吸が少し浅いです。
ツナギに着替えるのはまだ早いです。
薬湯を飲んでください。
座ってください。
全部、分かっている。
分かっているのに。
良樹くんが、立っている。
自分の足で。
自分たちの前に。
帰ってきた男として。
それだけで、クラリスの中の治療者が、一瞬だけ沈黙した。
カレンは、小さく呟いた。
「格好良い……です」
自分で言ったことに気づいて、すぐに顔を赤くした。
「あっ」
けれど、もう遅かった。
良樹が一瞬だけ目を瞬かせる。
「……何か言ったか?」
「い、いえ」
「言いましたけど」
「言ってません……」
「どっちだ」
良樹が少し困った顔をする。
その顔すら、今の三人には危なかった。
この数日間で。
三人の中の女は、極大化されていたのである。
良樹は、その異様な沈黙に気づいた。
「……どうした?」
リシアは、慌てて顔を逸らした。
「な、何でもないわよ」
「とりあえず座りなさい」
「まだ完全に治ったわけじゃないんだから」
「ああ」
良樹は素直に頷いた。
その素直さも、今は妙に刺さる。
クラリスがようやく動いた。
「良樹くん」
「まず薬湯です」
「それから、身体確認をします」
「分かった」
「あと」
クラリスは一拍置いた。
「ツナギに着替えるのは、まだ少し早いです」
「寝間着のまま一階に降りるよりはいいだろ」
「そういう問題ではありません」
いつものやり取り。
けれど、クラリスの声は少しだけ甘かった。
カレンは椅子を引いた。
「良樹さん」
「こちらへ」
「助かる」
良樹は椅子に座る。
三人は、それぞれ良樹の周りに立った。
リシアは茶を置く。
クラリスは薬湯を差し出す。
カレンはパンの皿を近づける。
良樹は、それを見て少しだけ苦笑した。
「本当に、迷惑かけたな」
リシアは、今度は少しだけ強く言えた。
「迷惑じゃないわよ」
「妻なんだから」
良樹の動きが止まる。
カレンの顔が赤くなる。
クラリスも、わずかに目を伏せた。
リシア自身も赤かった。
だが、引かなかった。
「だから」
「ちゃんと食べて」
「ちゃんと治して」
「ちゃんと、回復しなさい」
良樹は三人を見た。
そして、短く頷いた。
「ああ」
「そうする」
その返事に、三人の胸がまた熱くなる。
良樹は、まだ知らない。
自分が眠っている間に、妻会議で何が決まったのかを。
◇
朝食を終えると、良樹はギルドへ行きたいと言った。
当然、三人は止めた。
「まだ完全じゃないわよ」
「長時間の外出は許可できません」
「良樹さん、無理は駄目です」
三方向から来た。
良樹は、茶を置いて息を吐く。
「ガレスに顔を見せておきたい」
「フィルさんにも状態を見てもらえる」
「アルフやロブの様子も気になる」
「理由は分かるわ」
リシアは腕を組んだ。
「でも、条件付き」
クラリスが続ける。
「短時間です」
「走らない」
「戦わない」
「作業しない」
「長く立たない」
「痛みが出たら即帰宅」
「私たちの指示に従うこと」
カレンも、真剣な顔で言った。
「お願いします、良樹さん」
良樹は三人を見た。
「三対一が早い」
「早くて結構」
「病み上がりですので」
「お願いします」
良樹は、降参したように頷いた。
「……分かった」
◇
ギルドへ向かう道中、良樹は妙に歩きにくかった。
リシアが隣。
クラリスはすぐ支えられる位置。
カレンは少し後ろから、良樹の足元と顔色を見ている。
「……近くねえか」
良樹が言った。
「近いわよ」
リシアが即答する。
「倒れた時に支えるためです」
クラリスも当然のように言う。
「病み上がりですから」
カレンも真面目に続ける。
「全方位から来るな」
「全方位で済んでいるだけ感謝しなさい」
「それもそうか」
「納得するのね」
「反論材料がねえ」
そんなやり取りをしながら、四人はギルドへ入った。
昼前のギルドは、少し落ち着いていた。
依頼を受けた冒険者たちはすでに出払っており、集会所には何人かが残っている程度だった。
受付横の扉が開く。
ガレスが顔を出した。
「良樹!」
声が大きい。
ギルド中の視線が一斉に向く。
「お前、動いて大丈夫なのか!」
良樹は片手を上げようとして、途中でやめた。
まだ肩が少し痛む。
「大声出すな」
「傷に響く」
「なら来るな!」
「言われると思った」
ガレスは大股で近づいてきた。
怒っている。
心配している。
そして、安心している。
その全部が顔に出ていた。
その後ろから、フィルがゆっくり歩いてくる。
「ふむ」
「どれ」
フィルは良樹の前に立つと、遠慮なく肩、腕、胸、腹の動きを見た。
続いて、呼吸。
顔色。
足の置き方。
魔力の流れ。
クラリスと同じ種類の視線だった。
「……うむ」
「完治ではないが、もう大丈夫じゃな」
クラリスが眉を寄せる。
「父様」
「大丈夫、の範囲を明確にしてください」
「日常歩行と短時間の会話は可」
「戦闘、作業、長時間の立位、重いものを持つこと、走ることは不可」
「妻たちの制止を無視することも不可」
「最後の一つは医療判断なのか?」
良樹が聞く。
「婿殿の場合は医療判断じゃ」
フィルは即答した。
「嘘つけ」
「違いねえ」
ガレスが笑った。
良樹は短く息を吐いた。
「すまねえ」
「二人にも心配かけちまった」
ガレスの顔から、少しだけ笑みが消える。
フィルも、穏やかな目で良樹を見た。
その時だった。
集会所の一角から、ぱたり、と本を閉じる音がした。
良樹はそちらを見る。
ロブがいた。
テーブルの端に座り、分厚い本を読んでいたらしい。
耳が少しだけ動いている。
顔は相変わらず不機嫌そうだった。
だが、以前のような刺々しさだけではなかった。
ロブは読んでいた本から目を上げ、良樹を見た。
「おう」
「動けるようになったのか」
良樹は、少しだけ驚いた。
ロブがここにいることに。
そして、その声があまりに普通だったことに。
「ああ」
「まだあちこち痛えけどな」
「何とか、な」
ロブは眉を寄せた。
「病み上がりが、無理してんじゃねえ」
言い方は雑だった。
だが、言葉の中身は完全に見舞いだった。
良樹は苦笑した。
「お前にまで言われるとはな」
「言われるような顔してるんだよ」
「そんなにか」
「そんなにだ」
ロブは、閉じた本を軽く叩いた。
「顔色悪い」
「肩の動き硬い」
「歩き方も庇ってる」
「それで普通に出歩いてる時点で馬鹿だろ」
良樹は、少し黙った。
「……お前」
「見てるな」
「耳だけじゃねえよ」
「目もついてる」
「それはそうだ」
ガレスが笑う。
「良樹」
「お前、ロブにも説教されるようになったか」
「笑うな」
「地味に効く」
ロブは鼻を鳴らした。
「効くなら少しは休め」
良樹は、ロブの前の本を見る。
「お前、それ何読んでるんだ」
「これか」
ロブは表紙を見た。
「魔力波動理論」
良樹の動きが止まった。
「……は?」
「魔力波動理論だ」
「ギルドの資料室にあった」
良樹は、ゆっくりとロブを見る。
「お前」
「それ、読めるのか」
「読めるから読んでんだろ」
「いや」
「そういう意味じゃねえ」
リシアも横から覗き込んだ。
「……これ、専門書じゃない?」
クラリスが静かに頷く。
「はい」
「施療院でも、魔力診断や魔力流の解析を専門にする方が読む類のものです」
「少なくとも、読み書きを覚えたばかりの方が読む本ではありません」
フィルも、顎に手を当てた。
「うむ」
「魔力波の伝播、反射、共鳴……」
「基礎を終えた者が読む本じゃな」
良樹は、ロブを見る。
「お前、街に来たの」
「十日くらい前だよな」
「ああ」
「勉強始めたのも、その時からか」
「そうだな」
ロブは、何でもないことのように言った。
「お前が言ったんだろ」
「勉強してくれって」
良樹は黙った。
言った。
確かに、言った。
魔石通信の改良を手伝ってくれ。
今から勉強してくれ。
文字。
計算。
符号。
魔石の扱い。
分からないところは俺が教える。
足りない資料は作る。
施療院やギルドにも協力させる。
そう言った。
だが、その直後にグレンの件が起きた。
良樹は倒れた。
何日も眠った。
起きても動けなかった。
ロブの勉強を見るどころではなかった。
「……悪い」
良樹は低く言った。
「俺が頼んだのに」
「ほとんど見られてなかった」
ロブは眉を寄せた。
「何で謝るんだよ」
「俺が頼んだことだからだ」
「頼まれた」
「街にも来た」
「教師も付いた」
「本もあった」
「なら、やるだろ」
ロブは本を指で叩いた。
「別に、お前が隣にいねえと字が読めねえわけじゃねえ」
良樹は、しばらく黙った。
その言葉は、妙に効いた。
自分がいなくても、ロブは進んでいた。
待っていなかった。
拗ねてもいなかった。
放り出されたとも言わなかった。
ただ、前へ進んでいた。
ガレスが腕を組んだ。
「良樹」
「お前に頼まれてたからな」
「教師は付けた」
「ああ」
「最初は読み書きと計算からだ」
「だが、三日目には普通の帳簿を読んでた」
「五日目には割合と比を理解した」
「八日目には、教師が頭を抱えた」
「何で」
「教える内容が、街で暮らすための範囲を超えた」
ガレスは、ロブの前の本を指した。
「それで、資料室から専門書を持ってきた」
「今はそれを読んでる」
良樹は額に手を当てた。
「八日目で専門書かよ……」
ロブが耳を動かす。
「何だよ」
「読めって言われたから読んでるだけだろ」
「いや」
「普通はそこまで行かねえんだよ」
「知らねえよ」
「行けたんだから行くだろ」
フィルが、ロブの前の本をじっと見た。
その目は、治療者のものだった。
そして、亜人たちの集落に何度も足を運び、ロブという青年を前から知っている者の目だった。
「婿殿」
「あ?」
「こりゃあ、えらいもんを見つけてしまったのう」
良樹は、少しだけ顔をしかめた。
「……俺がか」
「他に誰がおる」
フィルは穏やかに笑った。
「ワシはこの小僧を前から知っとる」
「耳の良い、口の悪い、少々ひねくれた若造じゃと思っとった」
「じゃが、まさか十日足らずでここまで来るとはのう」
ロブは、露骨に嫌そうな顔をした。
「んだよ、フィルさんまで」
「人をバケモンみたいに言うなよ」
その場にいた全員が、一瞬だけ黙った。
良樹。
リシア。
カレン。
クラリス。
ガレス。
フィル。
視線が、自然とロブに集まる。
そして。
「いや、実際にバケモンだから」
ほぼ全員の声が重なった。
ロブの耳が、ぴんと立つ。
「おい」
「全員で言うな」
ガレスが腹を抱えて笑った。
「いや、無理だろ」
「これは満場一致する」
フィルも楽しそうに頷く。
「小僧」
「安心せい」
「悪い意味ではない」
「良い意味でもバケモンは嫌だろ」
リシアが小さく肩を震わせた。
「そこは同意するわ」
カレンも困ったように笑う。
「でも、本当にすごいです」
クラリスは本へ視線を落とした。
「少なくとも、常識外れです」
「どいつもこいつも……」
ロブは不機嫌そうに耳を動かした。
それから、ため息をひとつ吐く。
「まあ」
「俺は、お前が治るまではここで大人しく“勉強”しといてやるよ」
良樹は、少しだけ目を細めた。
「……助かる」
「勘違いすんな」
「お前のためだけじゃねえ」
ロブは、手元の本に視線を落とした。
「……それに」
「分からなかったことが分かるようになるのは」
「悪い気分じゃねえしな」
良樹は、黙った。
その言葉は、妙に胸に残った。
便利なものを、分からないまま信じたくない。
使われるだけではいたくない。
仕組みを知りたい。
止め方を知りたい。
そのために始めた勉強だった。
けれど、ロブはもう、その先を少しだけ見始めている。
知らなかったことを知る。
できなかったことができるようになる。
見えなかったものが見えるようになる。
それ自体の面白さを。
良樹は、少しだけ笑った。
「そうか」
ロブは顔をしかめる。
「気持ち悪い顔すんな」
「病み上がりだろ」
「寝てろ」
「お前、俺への評価だいたいそれだな」
「病み上がりが変な顔してるからだろ」
良樹は言葉に詰まった。
ガレスがまた笑う。
リシアも、カレンも、クラリスも、少しだけ表情を緩めた。
良樹は、まだ完全には治っていない。
だが、少しずつ戻り始めている。
そしてロブもまた、良樹が倒れていた間に、前へ進んでいた。
◇
用件が一段落したところで、フィルがガレスを見た。
「ガレス」
「なんだよ、生臭坊主」
「この前クリスに言付けた伝言じゃが」
「ああ、酒の話か」
ガレスの声が、少しだけ低くなる。
フィルも、穏やかな顔のまま頷いた。
「あれは今は無しじゃ」
「そうだな……」
ガレスは、少しだけ黙った。
グレンのことを考えているのだと、良樹にも分かった。
本来なら、昔馴染みの話を肴に飲む酒だったのかもしれない。
藤田のこと。
グレンのこと。
フィルのこと。
ガレス自身のこと。
だが、今飲む酒ではない。
グレンは弔われた。
けれど、まだ軽く笑って飲むには早い。
フィルも、それを分かっている。
少しの沈黙の後、フィルが笑った。
「代わりに」
「ワシに初孫が出来た時の祝いに取っておくとするかの!」
空気が一瞬で変わった。
リシアの顔が赤くなる。
「フィルさん!?」
クラリスが椅子から立ち上がりかける。
「父様!?」
カレンは、両手を胸元で握りしめた。
「は、初孫……」
良樹は額を押さえた。
「お前ら、またこの流れかよ……」
ガレスは一拍置いて、笑った。
「……そうだな」
「そっちの方が、美味い酒になりそうだ」
「ガレスまで乗るな」
良樹が低く言う。
ガレスはニヤリと笑った。
「良樹」
「責任が増えたな」
「今のは完全にお前らが増やしてる責任だろ」
フィルは当然のように頷いた。
「何を言う、婿殿」
「夫婦になったなら自然な話じゃ」
「自然を盾にするな」
場が笑いに戻る。
だが、その笑いの奥には、少しだけ違うものがあった。
過去の酒は、今は飲まない。
その代わり、未来の祝いに取っておく。
グレンの死で止まるのではなく、これからの命へ繋げる。
フィルは、そう言っているのだ。
やがて、フィルは改めてガレスを見た。
「ワシの代わりにクリスを寄越す」
「婿殿の治療を手伝わせてやってくれ」
「宿の手配は任せる」
「ああ、任せとけ」
ガレスは頷いた。
クラリスが少し驚いた顔をする。
「兄様が……」
良樹は頷いた。
「クリスか」
「助かるな」
リシアは少しだけ苦笑した。
「助かるけど、また濃い人が来るわね」
カレンも頷く。
「でも、クリスは頼りになります」
「まあ、あのキザ男なら腕は確かだ」
ガレスが言う。
「宿はこっちで取っとく」
「頼んだぞ」
フィルは頷き、良樹を見た。
「婿殿」
「無理はするな、と言っても無駄じゃろうが」
「せめて、妻たちとクリスの言うことは聞け」
良樹は少しだけ目を逸らした。
「……努力する」
クラリスがすぐに言った。
「努力ではなく、約束してください」
良樹はクラリスを見た。
リシアも、カレンも、同じ目で見ていた。
良樹は息を吐く。
「分かった」
「約束する」
フィルは満足そうに頷いた。
「うむ」
「では、ワシは一度戻る」
「ああ」
「こっちは任せとけ」
ガレスが言う。
「頼むぞ、ガレス」
「任せろ、生臭坊主」
「相変わらず口の悪い男じゃ」
「お互い様だろ」
二人は短く笑った。
フィルは背を向ける。
ガレスは、その背を見送った。
良樹は椅子に座ったまま、三人妻に囲まれている。
ロブはまた本を開いた。
グレンの件は終わった。
だが、終わったからといって、何もかもが元に戻るわけではない。
それでも。
フィルは過去の酒を、未来の祝い酒へ回した。
ロブは本を開いた。
アルフは逃げなかった。
三人妻は、良樹を待っている。
良樹が撒いた種は、良樹の知らないところでも、少しずつ芽を出していた。
そして良樹は、まだ知らない。
自分の全快後に。
三人妻が何を。
どんな順番で。
どれほど真剣に待っているのかを。
その意味では。
良樹の本当の後始末は、まだ始まったばかりだった。




