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第107話 これは英雄の物語ではない

 次の瞬間、グレンが消えた。


 そう見えた。


 だが、本当に消えたわけではない。


 良樹の胸の奥で、リシアの読みが跳ねた。


 魔力が、脚へ落ちる。


 踏み込み。


 次いで、腰。

 肩。

 腕。


 斬撃。


「っ――!」


 良樹は右腕を前へ出した。


 打撃腕が顕現する。

 だが、構え終わるより早く、グレンの剣がそこへ届いていた。


 がぎん、と。


 金属とも、魔力ともつかない音が旧採石場跡に響いた。


 重い。


 良樹の足が砂利を噛む。

 踏ん張ったはずの足元が、ずるりと後ろへ逃げた。


 速いだけではない。

 重いだけでもない。


 カレンの読みが、良樹の中で悲鳴を上げる。


 剣先の置き方。

 踏み込みの深さ。

 肩の入り。

 腰の残し方。

 次に斬れる線。


 全部が、ちゃんとしている。


 ただ速いだけの素人ではない。

 力任せの怪物でもない。


 一流の剣士が、英雄の身体で斬ってきている。


「どうした」


 グレンの声が近い。


「随分と硬え腕だが」

「受け方が甘えなぁ」


 剣が滑る。


 受けたはずだった。

 だが、グレンの刃は打撃腕の表面を削りながら、良樹の肩へ流れてくる。


 クラリスの感覚が入った。


 受けるな。

 正面で止めるな。

 角度を逃がせ。


 良樹は身体を沈めた。

 肩を引く。

 肘を逃がす。

 足の位置を半歩ずらす。


 それでも、刃の先がツナギを裂いた。


 肩口に熱が走る。


「ぐっ……!」


 血が散った。


 浅くはない。

 だが、致命傷ではない。


 致命傷ではない場所へ、ずらされた。


 ずらしたのではない。

 ずらしてもらった。


 良樹は歯を食いしばる。


「……助かる」


 誰に言ったのかは分からなかった。


 グレンは剣を返す。


 速い。


 一撃目を受けた余韻が残っているうちに、二撃目が来る。


 良樹は後ろへ跳んだ。


 砂利を蹴る。

 昨日見ておいた溝の手前へ足を置く。

 そのまま、崩れた岩片を背にしない位置へ逃げる。


 グレンは追ってくる。


 無理に跳び込まない。

 足場を確かめるような慎重さはある。

 だが、遅くはない。


 判断が速い。


 危ない場所を見てから避けているのではない。

 最初から、危なくない踏み込みを選んでいる。


 良樹は右腕を前へ向けた。


 打撃腕が変形する。

 装甲が開き、内側で魔力線が組み替わる。

 掌から先が、銃身めいた形を取った。


 ガンアームド形態。


 リシアから読んだ四属性の流れを、魔導盤へ通す。


 火。

 風。

 水。

 土。


 細く。

 速く。

 連続で。


「エレメンタルストライク」


 良樹は撃った。


 一発目。


 グレンは横へ大きく跳ばなかった。

 ほんの半歩、身体をずらしただけだった。


 二発目。


 剣の腹が、弾道を撫でる。

 軌道が逸れる。

 岩肌に当たり、白い煙が上がった。


 三発目。

 四発目。

 五発目。


 挿絵(By みてみん)


 良樹は角度を変えた。

 足元を狙った。

 肩を狙った。

 避けた先へ置いた。


 だが、グレンはそこにいない。


 避けている。


 いや、違う。


 避けながら、近づいている。


 弾幕の隙間を、歩くように詰めてくる。


 良樹の背筋が冷えた。


 撃つ前に、見られている。


 腕の向き。

 肩の入り。

 魔力の立ち上がり。

 射線。


 撃った後に避けているのではない。

 撃つ前に、そこから外れている。


「悪くねえなぁ」


 グレンは笑った。


「だが」

「撃つ奴が遅え」


 次の瞬間、グレンが弾幕の内側へ入った。


 近い。


 良樹はガンアームドを解除する。

 形が潰れ、右腕の装甲が圧縮された。


 今度は、肘から先に杭打ち機のような構造が立ち上がる。


 パイルバンカー形態。


 当てる。

 当てられれば、抜ける。


 良樹は足を踏み込ませた。


 だが、構えた瞬間。


 グレンの口元が歪んだ。


「そいつは怖えなぁ」


 良樹の腰が沈む。

 肩が入る。

 杭を撃ち出すための線が決まる。


 カレンの感覚が、逆に教えてくる。


 見えている。

 今の構えは、見えている。


「当たれば、だが」


 良樹は撃った。


 杭が空気を叩く。


 だが、そこにグレンはいなかった。


挿絵(By みてみん)


 ほんのわずかに外側。

 剣が返ってくる。


 良樹は身体をひねった。

 クラリスの体術感覚で、刃の線から内臓を逃がす。


 だが、全部は逃げ切れない。


 脇腹が裂けた。


「っ、あ……!」


 息が詰まる。


 踏み込んだ姿勢のまま、良樹は膝を折りかける。


 その頭上へ、グレンの剣が落ちてきた。


 カレンの怖さが、頭の中で真っ赤に灯る。


 首。

 肩。

 背骨。


 このままなら、終わる。


 良樹はパイルバンカーを捨てた。


 右腕が伸びる。

 装甲が薄く開き、刃の形へ変わる。


 ブレード形態。


 ぎりぎりで、グレンの剣を受けた。


 火花が散る。


 いや、火花ではない。

 魔力の欠片だった。


 良樹は奥歯を噛む。


 ここで初めて、噛み合った。


 ガンアームドは避けられた。

 パイルバンカーは見切られた。


 だが、ブレードだけは違う。


 グレンの剣へ、直接触れられる。

 刃の線へ、刃を置ける。


 それは、良樹自身の技術ではなかった。


 間合い。

 剣先。

 踏み込み。

 受けてはいけない角度。

 怖い場所。


 カレンが持っているもの。

 カレンが良樹に預けた線。


 良樹はそれを使って、グレンの剣へ合わせた。


「へえ」


 グレンの目が細くなる。


「ようやく剣になったか」


 斬撃が来る。


 良樹は受けた。

 流した。

 返した。


 グレンの剣が重い。


 ブレードが軋む。

 右腕の関節部が鳴る。

 足元の砂利が砕ける。


 良樹はインバータを上げた。


 出力を上げる。

 立ち上がりを整える。

 跳ねるな。

 暴れるな。

 押し込むな。


 リシアの制御が、良樹の中で流れを抑える。


 まだ足りない。


 さらに上げる。


 打撃腕の魔力が濃くなる。

 ブレードの輪郭が太くなる。


 それでも、押し込まれる。


「く、そ……っ」


「いい線だ」


 グレンが言った。


 剣を押し込みながら。

 余裕のある声で。


「だが」

「借り物の剣じゃあ」

「俺には届かねえよ」


 借り物。


 その通りだった。


 良樹は剣士ではない。

 剣の道を歩いてきたわけではない。

 カレンの感覚を読んだから、辛うじてここに立てている。


 だが。


 これは、盗んだものではない。


 預けられたものだ。


 良樹は息を吐いた。


 右腕のブレードを、さらに押し込む。


 グレンの剣と、良樹の刃が噛み合う。


 一瞬だけ、止まった。


 だが、次の瞬間。


 ぱき、と。


 小さな音がした。


 ブレードの根元に、亀裂が入る。


 良樹の目が、それを捉えた。


 駄目だ。


 保たない。


 リシアの制御でも。

 カレンの読みでも。

 クラリスのいなしでも。


 この出力差は、埋まらない。


 グレンが踏み込んだ。


 魔力が脚へ落ちる。

 腰が乗る。

 肩が入る。


 剣へ、全てが集まる。


 良樹のブレードが悲鳴を上げた。


 割れる。


 そう判断した瞬間、良樹は自分からブレードを捨てた。


 刃の形を解く。

 素の打撃腕へ戻す。


 グレンの剣が、解けたブレードの隙間を抜けてくる。


 良樹は右手を開いた。


 逃げない。


 掴む。


 がぎ、と。


 素の打撃腕の五指が、グレンの剣を掴んだ。


 刃が手の中へ食い込む。

 装甲が削れる。

 指の関節に亀裂が走る。


 それでも、良樹は離さなかった。


 止めたわけではない。


 止まらない。


 グレンの剣は、良樹の右手ごと押し込んでくる。


挿絵(By みてみん)


 肩へ。


 肩口へ。


 剣先が、良樹の身体へめり込み始めた。


「ぐ、う……っ!」


 血が滲む。


 打撃腕の表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が広がる。


 右肘が沈む。

 肩が軋む。

 足が砂利を削る。


 グレンの膂力は、まだ上だった。


 速さも。

 重さも。

 剣も。


 全部、上。


 リシアの読みがあっても。

 カレンの怖さがあっても。

 クラリスの体術があっても。


 グレンは、その上から押してくる。


 良樹は、剣を掴んだまま歯を食いしばった。


 右腕は、もう勝つための腕ではなかった。


 この剣の線を、固定するための腕だった。


 グレンの剣がどこにあるか。

 グレンの重心がどこへ乗っているか。

 グレンの魔力がどの方向へ流れているか。


 壊れながら、掴む。


 逃げれば死ぬ。

 受けても死ぬ。

 押し返しても勝てない。


 だが、初めて。


 グレンの動きが、止まっていた。


 速すぎる男が。

 重すぎる剣が。

 良樹を押し潰すために、その場へ留まっていた。


 良樹は血の味を噛みしめた。


 右の打撃腕に、また一本、深い亀裂が走った。


 グレンの口が開く。


「これで終わりだなぁ、良樹ィ!」


 剣が、さらに押し込まれた。


 肩口の肉が裂ける。

 骨に嫌な圧がかかる。

 打撃腕の指が、一本、限界音を鳴らした。


 良樹は押し返せない。


 ブレードは折られた。

 ガンアームドは躱された。

 パイルバンカーは見切られた。


 右腕は砕けかけている。

 剣は肩に入っている。

 良樹はもう、逃げることもできない。


 グレンは勝利を確信していた。


 この男を殺す。


 その後で、アルフを裁く。

 悪を庇った女達も裁く。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 その名を、グレンが胸の内でなぞった。


 その矢先だった。


 良樹の胸の奥で、何かが外れた。


 理屈ではなかった。


 このままだと、死ぬ。


 負ける、ではない。

 倒れる、でもない。


 死ぬ。


 嫌だった。


 死ねない、ではなかった。

 死にたくない。


 帰ると、言った。

 帰ってくると、言った。


 リシアがいる。

 カレンがいる。

 クラリスがいる。


 あいつらのところに、帰りたい。


 ただ、それだけだった。


 左腕に、二枚目の打撃盤が立ち上がった。


 良樹自身にも、何が起きたのか分からなかった。


 ただ、左腕に打撃腕が顕現し。

 それが迷わず、杭打ち機の形を取った。


 パイルバンカー形態。


「左腕だとぉ!?」


 グレンの声が、初めて乱れた。


 良樹は答えなかった。

 答える余裕などなかった。


 右腕はまだ、グレンの剣を掴んでいる。

 肩は裂けている。

 血は流れている。


 視界が揺れる。

 息が詰まる。

 意識が遠い。


 それでも、左腕だけが動いた。


 大きく構えたわけではない。

 踏み込んだわけでもない。

 狙いを定めたわけでもない。


 ただ、そこにあった杭が。


 グレンの腹へ、叩き込まれていた。


 どん、と。


 鈍い音がした。


 外へ撃ち出せば砲撃になるはずの力が、逃げず、散らず、グレンの腹の奥へ入った。


「が、っ……」


 グレンの身体が折れた。


 剣から力が抜ける。

 良樹の肩に食い込んでいた刃が、ずるりと下がった。


 グレンが、一歩後ろへよろめく。


 それから、仰向けに倒れた。


 砂利が跳ねた。


 グレンは空を見上げていた。

 口元から、血が溢れる。


「……土壇場まで」

「隠してたのか」


 良樹は答えられなかった。


 息ができない。

 右腕も左腕も、もう動かない。

 肩から流れる血が、ツナギを濡らしている。


 グレンは、血を吐きながら笑った。


「俺が」

「正義だ」


 その声は、もう掠れていた。


「そうじゃなきゃ」

「なん、で」


 喉が鳴る。


「サーシャは……」


 そこで、言葉は途切れた。


 グレンの目から、力が消えた。


 旧採石場跡に、風が通った。


 良樹は、しばらく動けなかった。


 倒れたグレンを見下ろす。


 悪人だけの死体ではなかった。

 救われた男の死体でもなかった。


 良樹が殺した男が、そこにいた。


 それだけだった。


「――あんたの正義も」


 良樹は、かすれた声で言った。


「否定はしねえ」


 喉が痛い。

 血の味がする。


「俺には俺の都合がある」

「ただの独善だ」


 良樹は息を吐いた。


「俺は」

「悪でも構わねえ」


 両腕の打撃盤が崩れた。


 右腕も。

 左腕も。


 形を保てず、光の欠片になって消えていく。


 残ったのは、動かない両腕だった。


 肩が熱い。

 脇腹が痛い。

 身体中の切り傷から血が流れている。

 意識は、もう半分ほど霞んでいた。


 それでも。


 帰る。


 帰りたい。


 あいつらのところへ、帰りたい。


 三人の妻に、会いたい。


 良樹は足を動かした。


 一歩。


 ーリシア


 砂利が鳴る。


 ーカレン


 もう一歩。


 ークラリス


 膝が笑う。


 ー俺は、お前たちの所へ帰りたい。


 倒れそうになる。

 だが、倒れない。


 両腕は動かない。

 身体は重い。

 視界はぼやけている。


 それでも脚だけは、三人の妻が待つ街へ、良樹の身体を運んでいた。


 良樹は振り返らなかった。


 帰ると、言ったからだ。


 挿絵(By みてみん)


   ◇


 街の門が見えた。


 良樹は、それを見てようやく、自分がまだ歩いていることに気づいた。


 足が動いている。


 右足。

 左足。

 また、右足。


 それだけだった。


 腕はもう動かなかった。


 右腕は、グレンの剣を掴んだ時の感覚を最後に、ほとんど自分のものではなくなっている。

 左腕も、二枚目の打撃盤を具現化した反動で、肩から先が鉛の塊みたいに重かった。


 肩口からは血が流れている。

 脇腹も裂けている。

 身体のあちこちに、浅いとは言えない切り傷がある。


 痛い。


 痛いはずだった。


 だが、痛みはもう遠かった。


 それよりも、寒い。

 それよりも、眠い。

 それよりも、視界が揺れる。


 門の輪郭が、ぼやけて見えた。


   ◇


 その門の前で。


 ガレスとフィルの少し後ろに、三人の妻が立っていた。


 リシアは、何度目かも分からないほど街道の先を見つめた。


 ――遅い。


 ――遅いわ、良樹。


 ――何やってるの。


 ――早く帰ってきなさいよ。


 帰ってくると言った。


 自分で言ったのだ。


 なら、守りなさい。


 いつものように面倒そうな顔をして。

 いつものように憎まれ口を叩いて。


 帰ってくればいい。


 それだけでいい。


 ――帰ってきてよ。


 リシアの指が、服の裾を強く握った。


 ――お願い。


 ――帰ってきて。


 ――あなたが帰ってくる場所は、ここなの。


 ――だから。


 ――これ以上、心配させないで……。


 その隣で、カレンは震える両手を胸元で握りしめていた。


 ――怖い。


 ――怖い、怖い。


 街道の先に人影が見えたような気がして、何度も顔を上げた。


 けれど、誰もいない。


 風で草が揺れただけだった。


 ――もしも。


 考えてはいけない。


 そう思うほど、頭の中へ浮かんでしまう。


 ――もしも、良樹さんが帰ってきてくれなかったら。


 胸の奥が、潰れそうになった。


 ――嫌です。


 ――そんな怖いことに、私はきっと耐えられません。


 怖くても待つと言った。


 帰ってくる良樹を、自分が見落としてはいけない。


 カレンは滲みかけた涙を拭い、もう一度街道を見た。


 ――良樹さん。


 ――良樹さん。


 ――帰ってきてください。


 クラリスは、頭の中で何度も治療の手順を繰り返していた。


 出血。


 骨折。


 内臓の損傷。


 魔力回路の焼損。


 どんな状態で帰ってきても、すぐに治療できるように。


 帰ってきた良樹を、必ずこちら側へ引き戻せるように。


 けれど。


 ――帰って、こない?


 思考が、そこで止まった。


 ――良樹くんが。


 ――わたしの良樹くんが。


 ――いなくなる?


 胸の奥へ、冷たいものが広がっていく。


 ――駄目です。


 ――それだけは、駄目です。


 良樹がいなくなった後の自分を、想像しようとした。


 できなかった。


 良樹を好きになる前の自分へ戻ることも。


 良樹のいない明日を、何事もなかったように生きることも。


 ――もしも、良樹くんがいなくなるなんてことがあれば……。


 その先は、考えてはいけなかった。


 考えれば、自分の中の何かが壊れてしまう。


 ――嫌です。


 ――私を、良樹くんのいない私にしないでください。


 ――帰ってきてください。


 ――お願いです、良樹くん。


「……帰ってきますよね」


 カレンが、小さく言った。


 その声は、今にも消えてしまいそうだった。


「良樹さん、帰ってきてくれますよね」


 リシアは、すぐには答えられなかった。


 自分も怖かった。


 良樹が帰ってこない未来など、考えたくもなかった。


 それでも。


 リシアは街道の先を睨んだまま、言った。


「帰ってくるわ」


 カレンが顔を上げる。


「あいつが、そう言ったもの」


 リシアは、握りしめていた手を開いた。


 その手で、カレンの震える手を握る。


「帰ってくるって、私たちに約束したのよ」

「良樹が、自分で決めたの」

「なら、帰ってくるわ」


「はい」


 クラリスも、二人の手へ自分の手を重ねた。


「三本の戻り線は、まだ切れていません」


 声は静かだった。


 けれど、その指も微かに震えていた。


「良樹くんは、私たちを連れていってくださいました」

「ですから、必ず戻ってきます」


「そうよ」


 リシアは言った。


「だから、私たちはここにいるの」

「帰る場所が勝手に動いたら、あいつが迷うでしょ」


 カレンは、二人の手を握り返した。


「……はい」


 涙を拭う。


 そして、もう一度街道を見る。


「怖くても、待ちます」

「良樹さんが帰ってくるまで、待ちます」


「ええ」


「はい」


 三人は、街道の先を見つめた。


 良樹が帰ってくる場所として。


 そこから、動かなかった。


   ◇


 良樹は、門の向こうで三人が待っていることを知らなかった。


 それでも。


 あそこに、いる。


 そう思った。


 リシアがいる。

 カレンがいる。

 クラリスがいる。


 帰ると、言った。


 帰ってくると、言った。


 だから、あと少しだけ歩けばいい。


 良樹は足を出した。


 一歩。


 地面が、妙に柔らかく感じた。


 もう一歩。


 膝が、笑った。


 それでも、倒れなかった。


 倒れるのは、まだ早い。


 門の前に、人影が見えた。


 ガレス。


 フィル。


 そして、その後ろに三人。


 最初に気づいたのは、カレンだった。


「――良樹さん?」


 震えた声。


 いた。


 見間違いではない。


 風に揺れた草でもない。

 恐怖が見せた幻でもない。


 良樹がいる。


 傷だらけで。


 両腕を力なく垂らして。


 今にも倒れそうな足取りで。


 それでも、自分たちの方へ歩いている。


 ――帰ってきてくれた。


 ――良樹さんが、本当に帰ってきてくれた。


 胸の奥へ押し込めていた恐怖が、一気に崩れた。


 早く触れたい。


 良樹に触れて、本当にここにいるのだと確かめたい。


 次に、リシアが目を見開いた。


「良樹!」


 帰ってきた。


 帰ってくると言った男が、本当に約束を守った。


 ――良樹。


 ――良かった。


 ――本当に、良かった……。


 怒らなければならない。


 どうして、こんなになるまで一人で戦ったのか。


 どうして、こんなになるまで一人で歩いてきたのか。


 言いたいことはいくらでもあった。


 けれど今は、そんなものは何一つ出てこなかった。


 ただ早く、良樹へ触れたかった。


 帰ってきた夫へ縋って、生きていることを確かめたかった。


 クラリスの顔から、血の気が引いた。


「良樹くん!」


 血を流している。


 両腕が動いていない。


 歩き方も、呼吸も、意識も危うい。


 それでも。


 ――生きています。


 ――良樹くんが、生きて帰ってきてくださいました。


 涙で視界が滲んだ。


 触れたい。


 この手で触れて、その温かさを確かめたい。


 良樹のいない自分にならずに済んだのだと、確かめたかった。


 三人が走り出す。


 リシアの髪が揺れる。

 カレンの足がもつれかける。

 クラリスの法衣の裾が跳ねる。


 良樹は、それを見て、少しだけ安心した。


 ああ。


 帰ってきた。


 挿絵(By みてみん)


 そう思った瞬間、身体から力が抜けた。


 足が止まる。


 膝が折れる。


 前へ倒れかけた良樹の身体を、三人が受け止めた。


「良樹!」


「良樹さん!」


「良樹くん!」


 声が重なる。


 リシアの腕が、良樹の胸を支える。

 カレンが、動かない右腕に触れようとして、傷を見て息を呑む。

 クラリスはすぐに肩口へ手を当てた。


「動かないでください」

「今、治します」

「大丈夫です」

「大丈夫にします」


 クラリスの声は、震えていた。


 それでも、手は止まらなかった。


 白い光が、良樹の肩口に灯る。


 温かい。


 その温かさで、かえって痛みが戻ってきた。


「っ……」


「良樹、喋らないで」


 リシアが言った。


 怒っている声だった。


 泣きそうな声だった。


「今は、喋らないでいいから」


 カレンは、良樹の左手を両手で握っていた。


 力が入っていない指を、必死に包み込んでいる。


「帰って」

「帰ってきて、くれました……」


 言葉の途中で、声が崩れた。


 良樹は三人を見た。


 視界が滲む。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人とも、泣きそうだった。

 いや、もう泣いていたのかもしれない。


 良樹は口を開いた。


 声が出るか分からなかった。


 それでも、言わなければならない言葉があった。


「――ただいま」


 三人の動きが止まった。


 ほんの一瞬。


 それから、リシアの顔が歪んだ。


「……おかえり」


 カレンが何度も頷く。


「おかえりなさい」

「良樹さん」

「おかえりなさい……」


 クラリスは治療の手を止めなかった。


 止めなかったまま、涙を落とした。


「はい」

「おかえりなさい」

「良樹くん」


 良樹は、それを聞いて、ようやく少しだけ息を吐いた。


 帰ってきた。


 本当に。


 帰ってきた。


 英雄としてではない。


 正義として勝ってきたのでもない。


 人を殺した男として。


 三人の夫として。


 良樹は、帰ってきた。

グレンとの戦いは、ひとまず決着となりました。

良樹たちに残ったものについては、次話以降でもう少し描いていきます。

重い話となりましたが、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


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