第106話 帰ってきなさい(挿絵有)
アルフは、一命を取り留めた。
クラリスの治療で命は繋いだ。
だが、すぐに動ける状態ではない。
眠るアルフの顔色は悪い。
呼吸も浅い。
それでも、胸は上下している。
良樹は、しばらくその姿を見ていた。
叱ることは山ほどある。
使うなと言った。
まだ使える段階ではないと言った。
止め方を見ろと教えた。
壊れ方を見ろと教えた。
後を見るまでは、便利という言葉で走るなと教えた。
それでも、アルフは使った。
だが、止め方を入れていた。
意識が落ちれば、術も落ちる。
粗い。
危ない。
褒められたものではない。
それでも、あの少年は、死なないために、そして暴走させないために、良樹の教えをひとつだけでも掴もうとしていた。
なら、叱るのは後だ。
生きて、起きてからでいい。
アルフはまだ、後を見るために生かされている。
良樹は、短く息を吐いた。
その時、扉が開いた。
ギルドの職員が、青い顔で立っていた。
「良樹さん」
「ガレスさんが、至急来てほしいと」
良樹は顔を上げた。
「ガレスが?」
「はい」
「グレンが……」
職員は、そこで言葉を詰まらせた。
良樹の目が細くなる。
「戻ってきたのか」
職員は、震えた声で頷いた。
◇
少し前。
グレンは、ギルドへ戻っていた。
扉を開けた音は、軽かった。
まるで、散歩から戻ってきた男のようだった。
あるいは、酒場で飲み直すために顔を出しただけの男のようだった。
だが、その姿を見た瞬間、ギルド内の空気が凍った。
ガレスが立ち上がる。
「……グレン」
その声は低かった。
グレンは、軽く片手を上げる。
「おいおい、ガレス」
「そう怖い顔すんなぁ」
ガレスの拳が鳴った。
「てめえ……」
「ああ」
「殺しちゃいねえよ」
グレンは、悪びれもせずに言った。
「良樹に免じて」
「今日のところは、な」
何人かの冒険者が息を呑んだ。
人を殺しかけた後の声ではなかった。
相手の命を握った男の声でもなかった。
軽い。
軽すぎる。
何かの頼まれ事を済ませてきたような口調だった。
ガレスは、奥歯を噛みしめた。
「何しに戻ってきやがった」
「ちょいと良樹を見定め直す必要があるなぁ」
「見定める?」
「ああ」
グレンは肩をすくめた。
「ガレス」
「良樹に伝えておけ」
まるで、明日の集合場所でも告げるように。
「明日の昼」
「旧採石場跡で待ってるってよぉ」
「男同士、サシの話だ」
ガレスの目が細くなる。
「……良樹をどうするつもりだ」
「だからよぉ」
「見定めるって言ってんだろぉ?」
「見定めて……どうするつもりだ」
グレンは、少しだけ不思議そうに首を傾げた。
どうして、そんな分かりきったことを聞くのか。
そういう顔だった。
「決まってんだろ」
グレンは言った。
「悪なら、その場で裁く」
その言葉には、怒りがなかった。
憎しみもなかった。
高揚すらなかった。
ただの結論だった。
ガレスは、動けなかった。
ここで拳を振れば、ギルドが戦場になる。
周囲の冒険者も、職員も、巻き込まれる。
グレンはそれを分かっている。
分かった上で、昔の仲間へ伝言を頼みに来ている。
ガレスは、それが分かるからこそ動けなかった。
グレンは軽く手を振った。
「じゃ、頼んだぜぇ、ガレス」
「待て、グレン」
「待つさ」
「明日の昼まではな」
グレンは背を向ける。
そのまま扉へ向かいかけて、ふと思い出したように足を止めた。
「ああ、そうだ」
肩越しに笑う。
「逃げてもいいぜぇ」
「その時は」
少しだけ声が低くなる。
「残った悪から裁くだけだ」
扉が閉まった。
ギルド内に、重い沈黙が落ちた。
ガレスはしばらく扉を睨んでいた。
それから、吐き捨てるように言った。
「……くそったれが」
◇
良樹がギルドに着くと、奥部屋にはガレスとフィルがいた。
ガレスは椅子に座っていなかった。
立ったまま、腕を組んでいる。
フィルも、いつもの豪快な笑みを消していた。
「聞いた」
良樹は短く言った。
ガレスは頷く。
「明日の昼」
「旧採石場跡だ」
「ああ」
「サシの話だとよ」
「だろうな」
フィルが低く言う。
「婿殿」
「行くべきではない、と言うのは簡単じゃ」
良樹はフィルを見る。
「フィルさん」
「じゃが、行かねば、あの男は別のものを裁きに行く」
「それも分かっておる」
「ああ」
良樹は頷いた。
「逃げたら、アルフ」
「それで済まなきゃ、亜人集落」
「それでも済まなきゃ、俺に関わった奴らだ」
ガレスが低く言う。
「俺が行く」
「駄目だ」
良樹は即答した。
ガレスが睨む。
「何でだ」
「あいつは俺を呼んでる」
「ガレスが行けば、あいつは旧友として話すかもしれねえ」
「だが、結論は変わらねえ」
「邪魔をする悪、あるいは悪を庇う旧友になるだけだ」
ガレスは、何も言い返せなかった。
フィルが目を伏せる。
「おそらく、そうなるじゃろうな」
良樹は拳を握った。
「行く」
「一人でか」
ガレスの声に、良樹は短く答えた。
「ああ」
その瞬間、扉の向こうで気配が揺れた。
良樹が振り返る前に、扉が開く。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人が立っていた。
誰も、驚いた顔をしていなかった。
聞いていたのだろう。
あるいは、聞こえていたのかもしれない。
リシアの目が、真っ直ぐに良樹を射抜く。
「待ちなさい」
良樹は、逃げずにその目を受けた。
「一人で行くって、どういう意味?」
「そのままの意味だ」
「私たちは?」
「連れていかない」
リシアの顔が強張った。
「ふざけないで」
静かな声だった。
だからこそ、怒りが深かった。
「私たちはあなたの妻よ」
「あなたが死ぬかもしれない場所へ行くのに」
「置いていけると思っているの?」
カレンも一歩前に出た。
顔は青い。
指は震えている。
それでも、剣の柄に手を添えていた。
「わ、私も行きます」
「怖いです」
「でも」
「だからこそ、行きます」
クラリスは静かに言った。
「良樹くん」
「私は、あなたの壊れ方を見ます」
「あなたが壊れそうなら、止めます」
「だから、同行します」
良樹は、三人を見た。
連れていきたい。
その思いは、確かにあった。
三人は弱くない。
リシアの魔法は強い。
カレンは怖い場所を見られる。
クラリスは良樹の身体と壊れ方を見られる。
三人がいれば、戦える。
だからこそ、連れていけない。
「弱いからじゃねえ」
良樹は言った。
三人が動きを止める。
「戦力外にするわけでもねえ」
「危ないから、守りたいだけでもねえ」
良樹は、言葉を選んだ。
「グレンは」
「戻り線を失った男だ」
リシアの瞳が揺れる。
「サーシャさん……」
「ああ」
「その人を失って、あいつは変わった」
「止める線が切れた」
「帰る場所がなくなった」
「それで、悪を裁くことだけが残った」
良樹は自分の胸に手を当てた。
「俺は違う」
「俺には、お前らがいる」
カレンの唇が震える。
「だったら、なおさら……」
「違うんだ、カレン」
良樹は首を振った。
「あいつの前に、俺の戻り線そのものを全部連れていく」
「それは駄目だ」
リシアが息を呑む。
良樹は続けた。
「俺はたぶん、戦えなくなる」
「お前らを守る方を優先する」
「それは間違いじゃねえ」
「だが、あいつの前では歪む」
拳が、静かに握られる。
「あいつは、そこを見る」
「戻り線を断てば人は変わる」
「あいつは、それを知っている」
部屋の空気が重くなった。
良樹は、三人を見た。
「だから」
「ここにいてくれ」
リシアの眉が歪む。
「ここに?」
「ああ」
良樹は言った。
「俺が帰る場所でいてくれ」
リシアは唇を噛んだ。
怒りたい。
怒鳴りたい。
そんな理屈は知らないと叫びたい。
だが、言えなかった。
良樹は逃げていない。
自分たちを遠ざけているのでもない。
帰るために、残してほしいと言っている。
それが分かってしまう。
だから、余計に苦しかった。
「……いいわけないでしょ」
リシアが低く言った。
「そんなの」
「いいわけ、ないでしょ」
「リシア」
「分かってるわよ」
「あなたが逃げてないことくらい」
「分かってる」
「分かってしまうから、腹が立つのよ」
カレンは、涙を堪えていた。
「怖いです」
小さな声だった。
「良樹さんが」
「帰ってこない場所が、見えます」
「嫌です」
「でも」
「良樹さんが逃げていないことも、分かります」
クラリスは、静かに良樹を見ていた。
「良樹くん」
「何だ」
「それでも、行くのですね」
「ああ」
「……そうですか」
沈黙が落ちた。
止めたい。
ついて行きたい。
行かせたくない。
だが、それが良樹を帰らせることにならないのなら。
では、自分たちは何をするのか。
最初に顔を上げたのは、クラリスだった。
「なら、せめて」
良樹がクラリスを見る。
クラリスは、良樹の前へ一歩進んだ。
「もう、私たちはあなたの妻です」
声は静かだった。
けれど、指先が震えていた。
「一緒に行けないなら、せめて」
クラリスは、少しだけ唇を噛んだ。
「私たちの力と」
「想いだけでも」
クラリスの瞳が、良樹を見上げる。
「一緒に、連れて行ってください」
リシアが息を呑んだ。
カレンが顔を上げた。
良樹は、すぐには答えられなかった。
「クラリス」
「置いていかれるだけは、嫌です」
その言葉に、リシアの目が揺れた。
怒りの奥にあったものが、形を得る。
「……そうね」
リシアは、良樹を睨むように見た。
「置いていくなら」
「ちゃんと連れて行きなさい」
良樹の喉が鳴る。
「私たちを」
「あなたの中に」
カレンは、胸元で両手を握りしめていた。
怖い。
怖いに決まっている。
それでも、逃げなかった。
「良樹さん」
声は震えていた。
「私も……」
「一緒に、連れて行ってください」
涙がこぼれそうになる。
それでも、カレンは言った。
「帰ってくる道を」
「私も、一緒に見ます」
良樹は、三人を見た。
三人とも、納得なんかしていなかった。
怖がっていた。
怒っていた。
嫌がっていた。
それでも、選んだ。
良樹を止めるのではなく。
良樹について行くのでもなく。
良樹の中に入り、帰ってこさせることを。
良樹は、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
それだけ言うのに、喉がひどく重かった。
「読ませてくれ」
三人の目が、良樹を見る。
「お前たちを、連れて行く」
少しだけ間を置いて、良樹は言った。
「必ず、帰るために」
◇
その夜。
四人は、拠点の二階にいた。
灯りは小さかった。
外は静かだった。
明日、旧採石場跡で何が起きるかなど、町はまだ知らない。
良樹は、三人の前に立っていた。
胸の奥に、魔導盤の気配がある。
だが、いつもの試験とは違う。
端子台。
個別インバータ。
三系統共通ブレーカー。
それらはある。
けれど、今夜繋ぐものは、魔力だけではなかった。
クラリスが、最初に動いた。
「良樹くん」
「ああ」
良樹が何かを言おうとする。
だが、クラリスは首を振った。
「説明は、あとで聞きます」
「いや、今――」
その言葉は、最後まで出なかった。
クラリスが背伸びをした。
唇が重なる。
柔らかい。
温かい。
けれど、良樹が読んだのはそこではなかった。
唇の震え。
浅い呼吸。
良樹の胸に置かれた手の力。
怖いのに、逃げない意志。
クラリスは、怖がっていた。
良樹が壊れるかもしれない。
帰ってこないかもしれない。
自分の手が届かない場所で、良樹が自分を壊してしまうかもしれない。
それが怖い。
それでも、クラリスは逃げていなかった。
壊れそうなら止める。
焼き切れそうなら落とす。
良樹が自分を犠牲にしてでも踏み越えようとするなら、胸の奥で非常停止を押す。
その意志が、良樹の中に落ちた。
魔導盤の奥に、一つの停止線が灯る。
クラリスの線。
非常停止。
ただし、外から押すのではない。
良樹の中にある、クラリスの手。
唇が離れる。
クラリスは、少しだけ息を乱していた。
だが、言葉は少なかった。
「……読んでください」
「ああ」
良樹は頷いた。
「読んだ」
クラリスは、静かに微笑んだ。
次に、リシアが前に出た。
リシアは何も言わず、良樹の胸倉を掴んだ。
「リシア」
「黙って」
声が震えていた。
怒っている。
泣きそうだった。
けれど、泣かなかった。
リシアは、良樹を引き寄せた。
キスは、クラリスより強かった。
逃がさない。
許さない。
でも、行け。
矛盾した感情が、そのまま良樹へ流れ込む。
火。
水。
風。
土。
四つの流れ。
立ち上がり。
逃がし。
締め。
押し込まない制御。
リシアの魔法は、良樹の魔力を受け取る形を知っていた。
跳ねる前に逃がす。
遅れる前に合わせる。
強すぎる出力を、ただ抑えるのではなく、通る形へ整える。
その奥に、命令があった。
帰ってきなさい。
それは言葉ではなかった。
制御条件だった。
勝つことより先に。
殺すことより先に。
怒りを通すことより先に。
帰ってくる。
良樹の中に、リシアの線が刻まれる。
出力制御。
立ち上がり補正。
帰還条件。
唇が離れた。
リシアは、良樹を睨んでいた。
目尻が赤い。
「帰ってきなさい」
それだけ言った。
良樹は、頷いた。
「ああ」
リシアは、胸倉から手を離さなかった。
「違う」
「……」
「帰る、じゃない」
「帰ってくるの」
良樹は、息を吐いた。
「ああ」
「帰ってくる」
リシアは、ようやく手を離した。
最後に、カレンが前へ出た。
カレンは震えていた。
隠しようもないほど、震えていた。
それでも、良樹の手を取った。
指が冷たい。
けれど、離れない。
「良樹さん」
「ああ」
カレンは、少し背伸びをした。
不器用なキスだった。
震えていた。
怖がっていた。
今にも泣きそうだった。
それでも、自分から来た。
良樹は、カレンを読む。
怖い方向。
刃が通る線。
足を取られる場所。
一歩遅れた時に死ぬ未来。
グレンの刃。
迷いのない直線。
悪を裁くと決めた瞬間に、躊躇なく伸びる線。
そこに良樹が立っている未来。
良樹が帰ってこない未来。
カレンは、それを見ていた。
怖い。
怖い。
怖い。
それでも、その全部の中から、カレンは一つの線を探していた。
帰ってくる線。
怖いから見える。
怖いから、見落とさない。
怖いから、良樹が踏んではいけない場所を先に見る。
その意志が、良樹の中に入った。
カレンの線。
死線読み。
危険方向検出。
帰還線。
キスが終わった時、カレンは良樹の手を握ったままだった。
「……待ってます」
それだけだった。
良樹は、手を握り返した。
「ああ」
三人の線が、胸の奥で繋がった。
クラリスの非常停止。
リシアの出力制御。
カレンの帰還線。
三系統。
それぞれ違う。
役割も違う。
立ち上がりも違う。
受け方も違う。
けれど、奥で一つの安全装置に繋がっている。
三重安全回路。
良樹は、その名前を口にしなかった。
言葉にすれば、軽くなる気がした。
だから、ただ三人を抱き寄せた。
その時だった。
クラリスの手が、良樹の胸に触れる。
「良樹くん」
「……何だ」
「今夜は」
クラリスは、少しだけ声を震わせた。
「私たちの夫でいてください」
良樹の中に残っていた、最後の停止条件が揺れた。
「待て」
「明日――」
「明日があるからよ」
遮ったのは、リシアだった。
リシアは、良樹の背に腕を回していた。
「明日、あなたが行くから」
「今夜まで、私たちを置いていかないで」
カレンの指が、良樹の手を強く握った。
「怖いです」
「だから……」
「今夜だけは、離れたくないです」
良樹は、何も言えなくなった。
明日がある。
危ない。
休んだ方がいい。
魔力を温存した方がいい。
いくつもの言葉が浮かんだ。
けれど、どれも口にはならなかった。
三人とも、怖がっていた。
怖がって。
怒って。
泣きそうで。
それでも、逃げていなかった。
良樹は、三人を抱き寄せた。
明日、殺しに行くためではない。
明日、帰ってくるために。
その夜、良樹は三人を置いていかなかった。
◇
翌朝。
良樹は、ゆっくりと目を覚ました。
最初に感じたのは、重さだった。
腕が動かない。
胸も、腹も、足も、どこかを誰かに押さえられている。
痛みではない。
拘束でもない。
ぬくもりだった。
「……」
目を開ける。
傍には、三人がいた。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人とも、何も身につけていなかった。
昨夜、自分にすべてを読ませた女たち。
自分の妻たち。
三人は、良樹に寄り添っていた。
いや。
寄り添う、というより。
しがみついていた。
リシアの腕は、良樹の胸に回っている。
カレンは、良樹の手を両手で握りしめている。
クラリスは、良樹の肩口に額を寄せたまま、指先を良樹の背に添えていた。
離れないで。
行かないで。
声にはなっていない。
それでも、分かった。
三人の身体が。
三人の寝息が。
三人の指先が。
全身で、良樹にそう伝えていた。
昨夜、三人は言わなかった。
行かないで、と。
置いていかないで、と。
死なないで、と。
言えば、良樹を困らせると分かっていたからだ。
だから、言葉ではなく。
身体ごと、想いごと、良樹に預けた。
良樹は、目を伏せた。
胸の奥に、三本の線がある。
クラリスの線。
壊れそうになれば止める、非常停止の線。
リシアの線。
出力を跳ねさせず、帰ってこいと命じる制御の線。
カレンの線。
怖い未来を見た上で、それでも帰る道を探す線。
三人は眠っている。
けれど、良樹の中にいる。
「……すまねえ」
良樹は、声にならないほど小さく呟いた。
カレンの指が、眠ったまま少しだけ強くなった。
良樹は、その手をそっと握り返す。
「必ず帰ってくる」
そう言って、良樹は三人を見た。
この三人を置いていく。
だが、置き去りにはしない。
この三人のもとへ帰るために、行く。
良樹は、もう一度だけ目を閉じた。
胸の奥で、盤が静かに灯っていた。
主幹は直結しない。
怒りでは動かさない。
正義では殺さない。
帰るために、動く。
帰るために、止める。
帰るために、殺す。
良樹は、三人を起こさないように、ゆっくりと身体を起こした。
◇
三人は、起きていた。
いや。
良樹が身体を起こした瞬間に、まずクラリスの目が開いた。
次にリシア。
最後にカレン。
誰も、驚かなかった。
最初から、眠りは浅かったのだろう。
良樹は、三人を見る。
「起こしたか」
クラリスは、首を振った。
「起きました」
「同じだろ」
「少し違います」
リシアは身体を起こし、シーツを胸元へ寄せた。
目元が赤い。
それでも、声は強かった。
「行くのね」
「ああ」
カレンは、良樹の手を握ったままだった。
離さなかった。
少しだけ沈黙が落ちる。
誰も、行くなとは言わなかった。
リシアが言った。
「帰ってきなさい」
「ああ」
「違う」
リシアは、昨日と同じように言った。
「帰ってくるの」
良樹は、頷いた。
「帰ってくる」
カレンは、小さく息を吸った。
「待ってます」
声は震えていた。
「怖くても」
「待ってます」
「ああ」
クラリスは、良樹の胸に手を置いた。
「壊れそうになったら、止めます」
「頼む」
「はい」
「頼まれました」
良樹は、三人を順に抱きしめた。
クラリス。
リシア。
カレン。
それから、立ち上がった。
服を身につける。
腰袋を締める。
工具を確認する。
靴を履く。
いつもの作業前と同じ動作だった。
だが、今日向かう先は現場ではない。
元英雄が待つ、旧採石場跡。
良樹は扉の前で振り返った。
「行ってくる」
三人は、良樹を見た。
泣きそうだった。
怒っていた。
怖がっていた。
それでも、背を押した。
「行ってらっしゃい」
リシアが言った。
「行ってらっしゃい、良樹さん」
カレンが続けた。
「行ってらっしゃい、良樹くん」
クラリスが最後に言った。
良樹は、短く頷いた。
そして、部屋を出た。
◇
街の門には、ガレスとフィルがいた。
二人とも、何かを言いたげだった。
だが、言わない。
その後ろに、リシア、カレン、クラリスがいた。
良樹は門の前で足を止めた。
「ガレス」
「フィルさん」
ガレスは短く息を吐いた。
「……本当に行くんだな」
「ああ」
フィルは静かに言う。
「婿殿」
「ワシらが止められればよかったのじゃがな」
「フィルさん」
良樹は首を振る。
「これは、俺が呼ばれた話だ」
ガレスが拳を握る。
「無茶すんなよ」
「努力はする」
「そこは断言しろ」
「断言できる材料が少ねえ」
ガレスは苦い顔をした。
リシアが一歩前に出る。
良樹を見る。
そして、短く言った。
「帰ってきなさい」
「ああ」
カレンも言う。
「待ってます」
「ああ」
クラリスは微笑んだ。
「止めます」
「頼む」
良樹は、三人をもう一度だけ見た。
それから、門の外へ向き直る。
「行ってくる」
良樹は街の門を出た。
◇
旧採石場跡に着いたのは、正午の約束より二時間ほど前だった。
早すぎる。
普通なら、そう言われるかもしれない。
だが、良樹にとっては普通だった。
現場には早く入る。
下見をする。
足場を見る。
危ない場所を見る。
使っていい場所と、使ってはいけない場所を見る。
工場でも、山の中でも、異世界でも、それは変わらない。
灰色の岩肌が剥き出しになっている。
古い切り出し跡。
崩れた斜面。
転がる石。
雨水で削られた溝。
足を置けば逃げそうな砂利。
遮蔽物になりそうな大岩。
逃げ道になりそうで、途中で行き止まりになる細い通路。
良樹は、一つずつ見た。
風向き。
日差し。
影。
岩の反射。
音の響き方。
退避できる場所。
退避できない場所。
胸の奥で、カレンの線が小さく震える。
そこは駄目。
そこに足を置けば崩れる。
あの影から刃が通る。
その岩は逃げ場ではない。
クラリスの線は、無理な姿勢を嫌った。
その角度で受ければ肩が壊れる。
膝が逃げる。
腰が耐えない。
リシアの線は、流れを見る。
風は右から左。
魔力の逃がしは上。
出力を上げすぎれば岩肌で跳ねる。
三人はここにいない。
だが、いる。
良樹は、崩れた石の上に腰を下ろさず、立ったまま待った。
正午が近づく。
グレンは来なかった。
良樹は空を見る。
太陽の高さを確認する。
もう少し。
やがて、足音が聞こえた。
「悪いなぁ、待たせたか」
グレンだった。
くたびれた外套を揺らし、軽い笑みを浮かべて歩いてくる。
「いや」
良樹は答えた。
「まだ時間だ」
「そうかい」
「ならよかった」
グレンは肩をすくめる。
「迷子のガキが泣いててよぉ」
「親探すのに手間取った」
良樹は、少しだけ黙った。
「……そうか」
「泣いてるガキは放っとけねえだろ」
「そういうもんだ」
グレンは、何でもないことのように言った。
良樹は、グレンを見た。
この男は、アルフを殺そうとした。
自分を裁こうとしている。
場合によっては、リシアたちまで悪と呼ぶだろう。
だが、迷子の子供は見捨てない。
そこが嘘ではないと、良樹には分かった。
だから、厄介だった。
最初から悪人でいてくれれば、どれほど楽だったか。
グレンは、周囲を軽く見た。
「お前さんは早いなぁ」
「若えのに感心感心」
「ただの習慣だ」
「ほう」
「現場には早く入る」
「下見して、危ない場所を見ておく」
「それだけだ」
「はは」
グレンは笑った。
「俺のも習慣だ」
「泣いてるガキと悪党は、放っとけねえ」
良樹は返事をしなかった。
泣いている子供。
悪党。
グレンの中では、その二つが同じ場所にある。
助けるもの。
裁くもの。
どちらにも迷いがない。
だから、恐ろしい。
グレンは、軽く首を鳴らした。
「早速だが、良樹」
「お前さん、何であの小僧を庇う」
「今度はちっとはまともな答えを聞かせてもらおうか」
良樹は、すぐには答えなかった。
風が、岩場を抜ける。
「……あんたから見て」
「俺はどう見える」
グレンは眉を上げた。
「あぁ?」
「答えてくれ」
グレンは、少しだけ良樹を見た。
それから、笑う。
「その若さにしちゃ立派なもんだと思うぜぇ」
「何せ英雄にまでなったんだ」
「大したもんだぁ」
一拍。
「あの小僧を庇ってなけりゃな」
良樹は目を伏せた。
「……俺は今まで何度も失敗してきた」
グレンは黙る。
良樹は続けた。
「親父に怒鳴られた」
「現場の職人達にも怒鳴られた」
「図面を見落とした」
「停止条件を甘く見た」
「動けばいいと思って、後から痛い目を見たこともある」
胸の奥に、十鉄の声が浮かぶ。
動かすだけなら猿でもできる。
止められて初めて設計だ。
「こっちに来てからもそうだ」
「リシアに止められた」
「カレンに見てもらった」
「クラリスに診てもらった」
「ガレスにも」
「藤田の爺さんにも」
「世話をかけた」
良樹は顔を上げる。
「俺は、失敗しなかった人間じゃねえ」
「失敗して」
「叱られて」
「教えられて」
「戻された側だ」
グレンの笑みが少しだけ薄くなる。
「だから、今度は俺の番だ」
良樹は言った。
「失敗はした」
「取り戻せねえかもしれねえ」
「だが、取り戻そうとしてる奴を切るような真似は出来ねえ」
グレンは、しばらく良樹を見ていた。
「……それが悪だとしてもか、良樹」
「俺は、あんたみてえに善悪の区別は簡単につけられねえ」
「つけられねえ?」
「ああ」
「どんな奴にも、善も悪も両方ある」
グレンの目が細くなる。
良樹は続けた。
「俺は自分のことを正義なんて思っちゃいねえ」
「良いとこ独善だ」
一拍。
「だから」
「あんたのことも、悪だと思っちゃいねえ」
グレンは、楽しそうに笑った。
「当たり前だ」
「俺こそが正義だ」
「正義は悪を裁かなきゃならねぇからなぁ」
良樹は、その笑いを聞いた。
迷いがない。
それが怖い。
「最後に一度だけ頼む」
良樹は言った。
「アルフのこと」
「もう少し長い目で見てやってくれねえか」
グレンは即答した。
「ダメだ」
軽い。
だが、揺らがない。
「あの小僧は罪を犯した」
「悪だ」
「俺が裁く」
「許すかどうかは、被害を受けた奴らが決める」
良樹は静かに言った。
「俺じゃねえ」
「ガレスでもねえ」
「アルフ自身でもねえ」
グレンは黙っている。
「だが」
「責任を取らせる前に殺したら」
「戻せるかもしれねえ道まで消える」
「謝る機会も」
「働いて償う機会も」
「自分のやったことを見続ける時間も」
「全部切れる」
良樹は、グレンを見た。
「それを正義だとは、俺は思えねえ」
グレンは、にやりと笑った。
「甘いなぁ」
「ああ」
「甘いかもしれねえ」
「その甘さで、また誰かが壊れたらどうする」
「俺が後を見る」
「見れば戻るのか」
「戻らねえこともある」
「なら意味がねえ」
「意味があるかどうかを」
「すぐに裁く奴が決めるな」
グレンの笑みが、ほんの少しだけ消えた。
良樹は続ける。
「俺は、アルフを許すとは言ってねえ」
「被害を受けた奴らに許せとも言わねえ」
「けど、今殺したら」
「あいつは責任を取る前に終わる」
「ほう」
「俺はもう、あいつの師匠になっちまった」
風が吹いた。
旧採石場跡の砂が、足元を流れる。
「師匠、ねぇ」
グレンは、低く笑った。
「随分とまあ」
「若えくせに、背負い込むじゃねえか」
「背負い込むんじゃねえ」
良樹は答えた。
「背負わせるために教えるんだ」
「あいつが自分で背負えるようになるまで」
「俺が見てる」
「だから、今は殺させねえ」
グレンは、肩を揺らして笑った。
「やっぱり駄目だなぁ」
良樹は黙っている。
「どうする良樹ぃ」
グレンは剣の柄に手を置いたまま、軽く首を傾けた。
「俺ぁ、生きてる限り裁きを続けるぜぇ?」
良樹は答えない。
「アルフだけじゃねえ」
「次に同じような悪が出りゃ裁く」
「悪を庇う奴が出りゃ、そいつも裁く」
「事情を見ようとする奴がいりゃ、悪を逃がす奴として裁く」
グレンの声は軽かった。
けれど、その中に迷いはなかった。
「師匠は俺を半殺しで止めた」
「英雄の称号も剥いだ」
「表舞台から追い出した」
「それで終わったと思ったんだろうなぁ」
グレンは笑った。
「だが、今こうなってんだよ」
良樹は、何も言えなかった。
藤田はグレンを止めた。
殺さなかった。
その判断を、良樹は間違いだったとは言えない。
殺さずに止められるなら、その方がいい。
止めた後に戻れるなら、その方がいい。
誰かが、誰かを殺さなくて済むなら、その方がいい。
だが。
グレンは止まっていない。
半殺しでも。
称号剥奪でも。
追放でも。
止まらなかった。
良樹の胸の奥に、重い確認が一つ落ちた。
止めるだけでは、足りない。
「そうだ、良樹」
グレンが、ふと思い出したように言った。
「お前を裁いたら」
「お前の女達も裁いてやるよ」
空気が変わった。
良樹の目が、静かに細くなる。
グレンは笑っていた。
「英雄の癖に悪を庇うお前に付き従う女達も、悪だからなぁ」
一拍。
「リシア」
「カレン」
「クラリス」
名前を呼んだ。
その瞬間、良樹の中で何かが跳ねた。
怒り。
殺意。
恐怖。
それらが、一気に主幹へ流れ込もうとする。
だが、落ちなかった。
クラリスの線が、胸の奥で静かに触れる。
壊れそうなら止める。
リシアの線が、立ち上がりを抑える。
跳ねさせるな。
怒りで動かすな。
カレンの線が、未来を見せる。
ここで怒れば、帰れない。
ここで焼けば、守れない。
良樹は、息を吐いた。
長く。
細く。
「……そうか」
声は、思ったより静かだった。
グレンが笑う。
「怒らねえのか?」
「怒ってる」
「なら、斬りかかってこいよぉ」
「怒りで動いたら」
「俺は帰れねえ」
グレンの笑みが、深くなった。
「それとも」
「お前より先に、女達から裁いてやろうかぁ?」
空気が止まった。
「そうしたらお前も」
「俺と同じ正義の味方になれるかもしれねぇぞ」
グレンは、楽しそうに笑った。
「そうだ」
「それがいい」
「そうしようぜ、良樹ぃ!」
その瞬間、良樹は理解した。
この男は、単に三人を殺すと言っているだけではない。
良樹を、自分と同じ回路へ引きずり込もうとしている。
大事な女を失えば、お前も俺と同じ正義に到達する。
そう、本気で思っている。
良樹の中に、最後の判定が下りた。
停止不可。
被害範囲拡大。
妻たちへの直接脅威。
良樹自身の破綻誘導。
再発確定。
殺すしかない。
「グレン」
「ああ?」
「最後に、一つだけ確認する」
「何だぁ?」
「ここで俺が退いたら」
「お前はアルフを殺すな」
「ああ」
「俺を殺したら」
「リシアたちも殺すな」
「ああ」
「その後も」
「お前が悪だと思った奴を裁き続けるな」
「当たり前だろ」
グレンは笑った。
「俺は正義だからなぁ」
良樹は目を伏せた。
最後の確認は終わった。
殺さない理由を探した。
止める道を探した。
見逃す道も、捕らえる道も、叩き伏せる道も考えた。
だが、そのどれも、次の被害を止められない。
良樹は目を開けた。
「……分かった」
グレンの目が細くなる。
良樹は言った。
「お前と同じにはならねえ」
「はぁ?」
「俺は正義の味方になんかならねえ」
「英雄にもならねえ」
「あんたの後継にもならねえ」
胸の奥で、三本の線が灯っている。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人はここにいない。
だが、いる。
「俺は、上村良樹だ」
グレンの笑みが、すっと薄くなる。
良樹は右手を開いた。
「俺は英雄として、あんたを裁くんじゃねえ」
「正義として、あんたを悪だと断じるんでもねえ」
良樹の右腕に、打撃腕が顕現する。
半透明の力が、腕の外側へ重なる。
空気が震えた。
「俺の都合で」
「俺が後を見ると決めた奴らを守るために」
「俺が帰る場所を守るために」
一拍。
「あんたを、殺す」
それは怒りではなかった。
怒りはある。
殺意もある。
恐怖もある。
だが、それを電源にはしない。
これは正義ではない。
英雄の裁きではない。
グレンへの救済でもない。
良樹の独善。
良樹の都合。
良樹が後を見ると決めたものを守るための殺し。
グレンは、じっと良樹を見ていた。
先ほどまでの軽い笑みが、すっと消える。
「そうかよ」
低い声だった。
「――なら、死ね」
剣が抜かれた。
旧採石場跡に、乾いた音が響いた。




