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第106話 帰ってきなさい(挿絵有)

 アルフは、一命を取り留めた。


 クラリスの治療で命は繋いだ。

 だが、すぐに動ける状態ではない。


 眠るアルフの顔色は悪い。

 呼吸も浅い。

 それでも、胸は上下している。


 良樹は、しばらくその姿を見ていた。


 叱ることは山ほどある。


 使うなと言った。

 まだ使える段階ではないと言った。

 止め方を見ろと教えた。

 壊れ方を見ろと教えた。

 後を見るまでは、便利という言葉で走るなと教えた。


 それでも、アルフは使った。


 だが、止め方を入れていた。


 意識が落ちれば、術も落ちる。


 粗い。

 危ない。

 褒められたものではない。


 それでも、あの少年は、死なないために、そして暴走させないために、良樹の教えをひとつだけでも掴もうとしていた。


 なら、叱るのは後だ。


 生きて、起きてからでいい。


 アルフはまだ、後を見るために生かされている。


 良樹は、短く息を吐いた。


 その時、扉が開いた。


 ギルドの職員が、青い顔で立っていた。


「良樹さん」

「ガレスさんが、至急来てほしいと」


 良樹は顔を上げた。


「ガレスが?」


「はい」

「グレンが……」


 職員は、そこで言葉を詰まらせた。


 良樹の目が細くなる。


「戻ってきたのか」


 職員は、震えた声で頷いた。


   ◇


 少し前。


 グレンは、ギルドへ戻っていた。


 扉を開けた音は、軽かった。


 まるで、散歩から戻ってきた男のようだった。

 あるいは、酒場で飲み直すために顔を出しただけの男のようだった。


 だが、その姿を見た瞬間、ギルド内の空気が凍った。


 ガレスが立ち上がる。


「……グレン」


 その声は低かった。


 グレンは、軽く片手を上げる。


「おいおい、ガレス」

「そう怖い顔すんなぁ」


 ガレスの拳が鳴った。


「てめえ……」


「ああ」

「殺しちゃいねえよ」


 グレンは、悪びれもせずに言った。


「良樹に免じて」

「今日のところは、な」


 何人かの冒険者が息を呑んだ。


 人を殺しかけた後の声ではなかった。

 相手の命を握った男の声でもなかった。


 軽い。


 軽すぎる。


 何かの頼まれ事を済ませてきたような口調だった。


 ガレスは、奥歯を噛みしめた。


「何しに戻ってきやがった」


「ちょいと良樹を見定め直す必要があるなぁ」


「見定める?」


「ああ」


 グレンは肩をすくめた。


「ガレス」

「良樹に伝えておけ」


 まるで、明日の集合場所でも告げるように。


「明日の昼」

「旧採石場跡で待ってるってよぉ」

「男同士、サシの話だ」


 ガレスの目が細くなる。


「……良樹をどうするつもりだ」


「だからよぉ」

「見定めるって言ってんだろぉ?」


「見定めて……どうするつもりだ」


 グレンは、少しだけ不思議そうに首を傾げた。


 どうして、そんな分かりきったことを聞くのか。

 そういう顔だった。


「決まってんだろ」


 グレンは言った。


「悪なら、その場で裁く」


 その言葉には、怒りがなかった。

 憎しみもなかった。

 高揚すらなかった。


 ただの結論だった。


 ガレスは、動けなかった。


 ここで拳を振れば、ギルドが戦場になる。

 周囲の冒険者も、職員も、巻き込まれる。


 グレンはそれを分かっている。

 分かった上で、昔の仲間へ伝言を頼みに来ている。


 ガレスは、それが分かるからこそ動けなかった。


 グレンは軽く手を振った。


「じゃ、頼んだぜぇ、ガレス」


「待て、グレン」


「待つさ」

「明日の昼まではな」


 グレンは背を向ける。


 そのまま扉へ向かいかけて、ふと思い出したように足を止めた。


「ああ、そうだ」


 肩越しに笑う。


「逃げてもいいぜぇ」

「その時は」


 少しだけ声が低くなる。


「残った悪から裁くだけだ」


 扉が閉まった。


 ギルド内に、重い沈黙が落ちた。


 ガレスはしばらく扉を睨んでいた。


 それから、吐き捨てるように言った。


「……くそったれが」


   ◇


 良樹がギルドに着くと、奥部屋にはガレスとフィルがいた。


 ガレスは椅子に座っていなかった。

 立ったまま、腕を組んでいる。

 フィルも、いつもの豪快な笑みを消していた。


「聞いた」


 良樹は短く言った。


 ガレスは頷く。


「明日の昼」

「旧採石場跡だ」


「ああ」


「サシの話だとよ」


「だろうな」


 フィルが低く言う。


「婿殿」

「行くべきではない、と言うのは簡単じゃ」


 良樹はフィルを見る。


「フィルさん」


「じゃが、行かねば、あの男は別のものを裁きに行く」

「それも分かっておる」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「逃げたら、アルフ」

「それで済まなきゃ、亜人集落」

「それでも済まなきゃ、俺に関わった奴らだ」


 ガレスが低く言う。


「俺が行く」


「駄目だ」


 良樹は即答した。


 ガレスが睨む。


「何でだ」


「あいつは俺を呼んでる」

「ガレスが行けば、あいつは旧友として話すかもしれねえ」

「だが、結論は変わらねえ」

「邪魔をする悪、あるいは悪を庇う旧友になるだけだ」


 ガレスは、何も言い返せなかった。


 フィルが目を伏せる。


「おそらく、そうなるじゃろうな」


 良樹は拳を握った。


「行く」


「一人でか」


 ガレスの声に、良樹は短く答えた。


「ああ」


 その瞬間、扉の向こうで気配が揺れた。


 良樹が振り返る前に、扉が開く。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人が立っていた。


 誰も、驚いた顔をしていなかった。

 聞いていたのだろう。

 あるいは、聞こえていたのかもしれない。


 リシアの目が、真っ直ぐに良樹を射抜く。


「待ちなさい」


 良樹は、逃げずにその目を受けた。


「一人で行くって、どういう意味?」


「そのままの意味だ」


「私たちは?」


「連れていかない」


 リシアの顔が強張った。


「ふざけないで」


 静かな声だった。

 だからこそ、怒りが深かった。


「私たちはあなたの妻よ」

「あなたが死ぬかもしれない場所へ行くのに」

「置いていけると思っているの?」


 カレンも一歩前に出た。


 顔は青い。

 指は震えている。

 それでも、剣の柄に手を添えていた。


「わ、私も行きます」

「怖いです」

「でも」

「だからこそ、行きます」


 クラリスは静かに言った。


「良樹くん」

「私は、あなたの壊れ方を見ます」

「あなたが壊れそうなら、止めます」

「だから、同行します」


 良樹は、三人を見た。


 連れていきたい。


 その思いは、確かにあった。


 三人は弱くない。

 リシアの魔法は強い。

 カレンは怖い場所を見られる。

 クラリスは良樹の身体と壊れ方を見られる。


 三人がいれば、戦える。


 だからこそ、連れていけない。


「弱いからじゃねえ」


 良樹は言った。


 三人が動きを止める。


「戦力外にするわけでもねえ」

「危ないから、守りたいだけでもねえ」


 良樹は、言葉を選んだ。


「グレンは」

「戻り線を失った男だ」


 リシアの瞳が揺れる。


「サーシャさん……」


「ああ」

「その人を失って、あいつは変わった」

「止める線が切れた」

「帰る場所がなくなった」

「それで、悪を裁くことだけが残った」


 良樹は自分の胸に手を当てた。


「俺は違う」

「俺には、お前らがいる」


 カレンの唇が震える。


「だったら、なおさら……」


「違うんだ、カレン」


 良樹は首を振った。


「あいつの前に、俺の戻り線そのものを全部連れていく」

「それは駄目だ」


 リシアが息を呑む。


 良樹は続けた。


「俺はたぶん、戦えなくなる」

「お前らを守る方を優先する」

「それは間違いじゃねえ」

「だが、あいつの前では歪む」


 拳が、静かに握られる。


「あいつは、そこを見る」

「戻り線を断てば人は変わる」

「あいつは、それを知っている」


 部屋の空気が重くなった。


 良樹は、三人を見た。


「だから」

「ここにいてくれ」


 リシアの眉が歪む。


「ここに?」


「ああ」


 良樹は言った。


「俺が帰る場所でいてくれ」


 リシアは唇を噛んだ。


 怒りたい。

 怒鳴りたい。

 そんな理屈は知らないと叫びたい。


 だが、言えなかった。


 良樹は逃げていない。

 自分たちを遠ざけているのでもない。

 帰るために、残してほしいと言っている。


 それが分かってしまう。


 だから、余計に苦しかった。


「……いいわけないでしょ」


 リシアが低く言った。


「そんなの」

「いいわけ、ないでしょ」


「リシア」


「分かってるわよ」

「あなたが逃げてないことくらい」

「分かってる」

「分かってしまうから、腹が立つのよ」


 カレンは、涙を堪えていた。


「怖いです」


 小さな声だった。


「良樹さんが」

「帰ってこない場所が、見えます」

「嫌です」

「でも」

「良樹さんが逃げていないことも、分かります」


 クラリスは、静かに良樹を見ていた。


「良樹くん」


「何だ」


「それでも、行くのですね」


「ああ」


「……そうですか」


 沈黙が落ちた。


 止めたい。

 ついて行きたい。

 行かせたくない。


 だが、それが良樹を帰らせることにならないのなら。

 では、自分たちは何をするのか。


 最初に顔を上げたのは、クラリスだった。


「なら、せめて」


 良樹がクラリスを見る。


 クラリスは、良樹の前へ一歩進んだ。


「もう、私たちはあなたの妻です」


 声は静かだった。

 けれど、指先が震えていた。


「一緒に行けないなら、せめて」


 クラリスは、少しだけ唇を噛んだ。


「私たちの力と」

「想いだけでも」


 クラリスの瞳が、良樹を見上げる。


「一緒に、連れて行ってください」


 リシアが息を呑んだ。


 カレンが顔を上げた。


 良樹は、すぐには答えられなかった。


「クラリス」


「置いていかれるだけは、嫌です」


 その言葉に、リシアの目が揺れた。


 怒りの奥にあったものが、形を得る。


「……そうね」


 リシアは、良樹を睨むように見た。


「置いていくなら」

「ちゃんと連れて行きなさい」


 良樹の喉が鳴る。


「私たちを」

「あなたの中に」


 カレンは、胸元で両手を握りしめていた。


 怖い。

 怖いに決まっている。


 それでも、逃げなかった。


「良樹さん」


 声は震えていた。


「私も……」

「一緒に、連れて行ってください」


 涙がこぼれそうになる。

 それでも、カレンは言った。


「帰ってくる道を」

「私も、一緒に見ます」


 良樹は、三人を見た。


 三人とも、納得なんかしていなかった。

 怖がっていた。

 怒っていた。

 嫌がっていた。


 それでも、選んだ。


 良樹を止めるのではなく。

 良樹について行くのでもなく。


 良樹の中に入り、帰ってこさせることを。


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「……分かった」


 それだけ言うのに、喉がひどく重かった。


「読ませてくれ」


 三人の目が、良樹を見る。


「お前たちを、連れて行く」


 少しだけ間を置いて、良樹は言った。


「必ず、帰るために」


   ◇


 その夜。


 四人は、拠点の二階にいた。


 灯りは小さかった。


 外は静かだった。

 明日、旧採石場跡で何が起きるかなど、町はまだ知らない。


 良樹は、三人の前に立っていた。


 胸の奥に、魔導盤の気配がある。

 だが、いつもの試験とは違う。


 端子台。

 個別インバータ。

 三系統共通ブレーカー。


 それらはある。


 けれど、今夜繋ぐものは、魔力だけではなかった。


 クラリスが、最初に動いた。


「良樹くん」


「ああ」


 良樹が何かを言おうとする。


 だが、クラリスは首を振った。


「説明は、あとで聞きます」


「いや、今――」


 その言葉は、最後まで出なかった。


 クラリスが背伸びをした。


 唇が重なる。


 柔らかい。

 温かい。


 けれど、良樹が読んだのはそこではなかった。


 唇の震え。

 浅い呼吸。

 良樹の胸に置かれた手の力。

 怖いのに、逃げない意志。


 クラリスは、怖がっていた。


 良樹が壊れるかもしれない。

 帰ってこないかもしれない。

 自分の手が届かない場所で、良樹が自分を壊してしまうかもしれない。


 それが怖い。


 それでも、クラリスは逃げていなかった。


 壊れそうなら止める。

 焼き切れそうなら落とす。

 良樹が自分を犠牲にしてでも踏み越えようとするなら、胸の奥で非常停止を押す。


 その意志が、良樹の中に落ちた。


 魔導盤の奥に、一つの停止線が灯る。


 クラリスの線。


 非常停止。

 ただし、外から押すのではない。


 良樹の中にある、クラリスの手。


 唇が離れる。


 クラリスは、少しだけ息を乱していた。

 だが、言葉は少なかった。


「……読んでください」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「読んだ」


 クラリスは、静かに微笑んだ。


 次に、リシアが前に出た。


 リシアは何も言わず、良樹の胸倉を掴んだ。


「リシア」


「黙って」


 声が震えていた。


 怒っている。

 泣きそうだった。

 けれど、泣かなかった。


 リシアは、良樹を引き寄せた。


 キスは、クラリスより強かった。


 逃がさない。

 許さない。

 でも、行け。


 矛盾した感情が、そのまま良樹へ流れ込む。


 火。

 水。

 風。

 土。


 四つの流れ。


 立ち上がり。

 逃がし。

 締め。

 押し込まない制御。


 リシアの魔法は、良樹の魔力を受け取る形を知っていた。

 跳ねる前に逃がす。

 遅れる前に合わせる。

 強すぎる出力を、ただ抑えるのではなく、通る形へ整える。


 その奥に、命令があった。


 帰ってきなさい。


 それは言葉ではなかった。

 制御条件だった。


 勝つことより先に。

 殺すことより先に。

 怒りを通すことより先に。


 帰ってくる。


 良樹の中に、リシアの線が刻まれる。


 出力制御。

 立ち上がり補正。

 帰還条件。


 唇が離れた。


 リシアは、良樹を睨んでいた。


 目尻が赤い。


「帰ってきなさい」


 それだけ言った。


 良樹は、頷いた。


「ああ」


 リシアは、胸倉から手を離さなかった。


「違う」


「……」


「帰る、じゃない」

「帰ってくるの」


 良樹は、息を吐いた。


「ああ」

「帰ってくる」


 リシアは、ようやく手を離した。


 最後に、カレンが前へ出た。


 カレンは震えていた。


 隠しようもないほど、震えていた。


 それでも、良樹の手を取った。


 指が冷たい。

 けれど、離れない。


「良樹さん」


「ああ」


 カレンは、少し背伸びをした。


 不器用なキスだった。


 震えていた。

 怖がっていた。

 今にも泣きそうだった。


 それでも、自分から来た。


 良樹は、カレンを読む。


 怖い方向。

 刃が通る線。

 足を取られる場所。

 一歩遅れた時に死ぬ未来。


 グレンの刃。

 迷いのない直線。

 悪を裁くと決めた瞬間に、躊躇なく伸びる線。


 そこに良樹が立っている未来。


 良樹が帰ってこない未来。


 カレンは、それを見ていた。


 怖い。

 怖い。

 怖い。


 それでも、その全部の中から、カレンは一つの線を探していた。


 帰ってくる線。


 怖いから見える。

 怖いから、見落とさない。

 怖いから、良樹が踏んではいけない場所を先に見る。


 その意志が、良樹の中に入った。


 カレンの線。


 死線読み。

 危険方向検出。

 帰還線。


 キスが終わった時、カレンは良樹の手を握ったままだった。


「……待ってます」


 それだけだった。


 良樹は、手を握り返した。


「ああ」


 三人の線が、胸の奥で繋がった。


 クラリスの非常停止。

 リシアの出力制御。

 カレンの帰還線。


 三系統。


 それぞれ違う。

 役割も違う。

 立ち上がりも違う。

 受け方も違う。


 けれど、奥で一つの安全装置に繋がっている。


 三重安全回路。


 良樹は、その名前を口にしなかった。


 言葉にすれば、軽くなる気がした。


 だから、ただ三人を抱き寄せた。


 その時だった。


 クラリスの手が、良樹の胸に触れる。


「良樹くん」


「……何だ」


「今夜は」


 クラリスは、少しだけ声を震わせた。


「私たちの夫でいてください」


 良樹の中に残っていた、最後の停止条件が揺れた。


「待て」

「明日――」


「明日があるからよ」


 遮ったのは、リシアだった。


 リシアは、良樹の背に腕を回していた。


「明日、あなたが行くから」

「今夜まで、私たちを置いていかないで」


 カレンの指が、良樹の手を強く握った。


「怖いです」

「だから……」

「今夜だけは、離れたくないです」


 良樹は、何も言えなくなった。


 明日がある。

 危ない。

 休んだ方がいい。

 魔力を温存した方がいい。


 いくつもの言葉が浮かんだ。


 けれど、どれも口にはならなかった。


 三人とも、怖がっていた。


 怖がって。

 怒って。

 泣きそうで。


 それでも、逃げていなかった。


 良樹は、三人を抱き寄せた。


 明日、殺しに行くためではない。


 明日、帰ってくるために。


 その夜、良樹は三人を置いていかなかった。


   ◇


 翌朝。


 良樹は、ゆっくりと目を覚ました。


 最初に感じたのは、重さだった。


 腕が動かない。

 胸も、腹も、足も、どこかを誰かに押さえられている。


 痛みではない。

 拘束でもない。


 ぬくもりだった。


「……」


 目を開ける。


 傍には、三人がいた。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人とも、何も身につけていなかった。


 昨夜、自分にすべてを読ませた女たち。

 自分の妻たち。


 三人は、良樹に寄り添っていた。


 いや。


 寄り添う、というより。

 しがみついていた。


 リシアの腕は、良樹の胸に回っている。

 カレンは、良樹の手を両手で握りしめている。

 クラリスは、良樹の肩口に額を寄せたまま、指先を良樹の背に添えていた。


 離れないで。


 行かないで。


 声にはなっていない。


 それでも、分かった。


 三人の身体が。

 三人の寝息が。

 三人の指先が。


 全身で、良樹にそう伝えていた。


 昨夜、三人は言わなかった。


 行かないで、と。

 置いていかないで、と。

 死なないで、と。


 言えば、良樹を困らせると分かっていたからだ。


 だから、言葉ではなく。

 身体ごと、想いごと、良樹に預けた。


 良樹は、目を伏せた。


 胸の奥に、三本の線がある。


 クラリスの線。

 壊れそうになれば止める、非常停止の線。


 リシアの線。

 出力を跳ねさせず、帰ってこいと命じる制御の線。


 カレンの線。

 怖い未来を見た上で、それでも帰る道を探す線。


 三人は眠っている。

 けれど、良樹の中にいる。


「……すまねえ」


 良樹は、声にならないほど小さく呟いた。


 カレンの指が、眠ったまま少しだけ強くなった。


 良樹は、その手をそっと握り返す。


「必ず帰ってくる」


 そう言って、良樹は三人を見た。


 この三人を置いていく。


 だが、置き去りにはしない。


 この三人のもとへ帰るために、行く。


 良樹は、もう一度だけ目を閉じた。


 胸の奥で、盤が静かに灯っていた。


 主幹は直結しない。

 怒りでは動かさない。

 正義では殺さない。


 帰るために、動く。


 帰るために、止める。


 帰るために、殺す。


 良樹は、三人を起こさないように、ゆっくりと身体を起こした。


   ◇


 三人は、起きていた。


 いや。


 良樹が身体を起こした瞬間に、まずクラリスの目が開いた。


 次にリシア。

 最後にカレン。


 誰も、驚かなかった。


 最初から、眠りは浅かったのだろう。


 良樹は、三人を見る。


「起こしたか」


 クラリスは、首を振った。


「起きました」


「同じだろ」


「少し違います」


 リシアは身体を起こし、シーツを胸元へ寄せた。


 目元が赤い。


 それでも、声は強かった。


「行くのね」


「ああ」


 カレンは、良樹の手を握ったままだった。


 離さなかった。


 少しだけ沈黙が落ちる。


 誰も、行くなとは言わなかった。


 リシアが言った。


「帰ってきなさい」


「ああ」


「違う」


 リシアは、昨日と同じように言った。


「帰ってくるの」


 良樹は、頷いた。


「帰ってくる」


 カレンは、小さく息を吸った。


「待ってます」


 声は震えていた。


「怖くても」

「待ってます」


「ああ」


 クラリスは、良樹の胸に手を置いた。


「壊れそうになったら、止めます」


「頼む」


「はい」

「頼まれました」


 良樹は、三人を順に抱きしめた。


 クラリス。

 リシア。

 カレン。


 それから、立ち上がった。


 服を身につける。

 腰袋を締める。

 工具を確認する。

 靴を履く。


 いつもの作業前と同じ動作だった。


 だが、今日向かう先は現場ではない。


 元英雄が待つ、旧採石場跡。


 良樹は扉の前で振り返った。


「行ってくる」


 三人は、良樹を見た。


 泣きそうだった。

 怒っていた。

 怖がっていた。


 それでも、背を押した。


「行ってらっしゃい」


 リシアが言った。


「行ってらっしゃい、良樹さん」


 カレンが続けた。


「行ってらっしゃい、良樹くん」


 クラリスが最後に言った。


 良樹は、短く頷いた。


 そして、部屋を出た。


   ◇


 街の門には、ガレスとフィルがいた。


 二人とも、何かを言いたげだった。


 だが、言わない。


 その後ろに、リシア、カレン、クラリスがいた。


 良樹は門の前で足を止めた。


「ガレス」

「フィルさん」


 ガレスは短く息を吐いた。


「……本当に行くんだな」


「ああ」


 フィルは静かに言う。


「婿殿」

「ワシらが止められればよかったのじゃがな」


「フィルさん」


 良樹は首を振る。


「これは、俺が呼ばれた話だ」


 ガレスが拳を握る。


「無茶すんなよ」


「努力はする」


「そこは断言しろ」


「断言できる材料が少ねえ」


 ガレスは苦い顔をした。


 リシアが一歩前に出る。


 良樹を見る。


 そして、短く言った。


「帰ってきなさい」


「ああ」


 カレンも言う。


「待ってます」


「ああ」


 クラリスは微笑んだ。


「止めます」


「頼む」


 良樹は、三人をもう一度だけ見た。


 それから、門の外へ向き直る。


「行ってくる」


 良樹は街の門を出た。


   ◇


 旧採石場跡に着いたのは、正午の約束より二時間ほど前だった。


 早すぎる。


 普通なら、そう言われるかもしれない。


 だが、良樹にとっては普通だった。


 現場には早く入る。


 下見をする。

 足場を見る。

 危ない場所を見る。

 使っていい場所と、使ってはいけない場所を見る。


 工場でも、山の中でも、異世界でも、それは変わらない。


 灰色の岩肌が剥き出しになっている。

 古い切り出し跡。

 崩れた斜面。

 転がる石。

 雨水で削られた溝。

 足を置けば逃げそうな砂利。

 遮蔽物になりそうな大岩。

 逃げ道になりそうで、途中で行き止まりになる細い通路。


 良樹は、一つずつ見た。


 風向き。

 日差し。

 影。

 岩の反射。

 音の響き方。


 退避できる場所。

 退避できない場所。


 胸の奥で、カレンの線が小さく震える。


 そこは駄目。

 そこに足を置けば崩れる。

 あの影から刃が通る。

 その岩は逃げ場ではない。


 クラリスの線は、無理な姿勢を嫌った。


 その角度で受ければ肩が壊れる。

 膝が逃げる。

 腰が耐えない。


 リシアの線は、流れを見る。


 風は右から左。

 魔力の逃がしは上。

 出力を上げすぎれば岩肌で跳ねる。


 三人はここにいない。


 だが、いる。


 良樹は、崩れた石の上に腰を下ろさず、立ったまま待った。


 正午が近づく。


 グレンは来なかった。


 良樹は空を見る。

 太陽の高さを確認する。


 もう少し。


 やがて、足音が聞こえた。


「悪いなぁ、待たせたか」


 グレンだった。


 くたびれた外套を揺らし、軽い笑みを浮かべて歩いてくる。


「いや」


 良樹は答えた。


「まだ時間だ」


「そうかい」

「ならよかった」


 グレンは肩をすくめる。


「迷子のガキが泣いててよぉ」

「親探すのに手間取った」


 良樹は、少しだけ黙った。


「……そうか」


「泣いてるガキは放っとけねえだろ」

「そういうもんだ」


 グレンは、何でもないことのように言った。


 良樹は、グレンを見た。


 この男は、アルフを殺そうとした。

 自分を裁こうとしている。

 場合によっては、リシアたちまで悪と呼ぶだろう。


 だが、迷子の子供は見捨てない。


 そこが嘘ではないと、良樹には分かった。


 だから、厄介だった。


 最初から悪人でいてくれれば、どれほど楽だったか。


 グレンは、周囲を軽く見た。


「お前さんは早いなぁ」

「若えのに感心感心」


「ただの習慣だ」


「ほう」


「現場には早く入る」

「下見して、危ない場所を見ておく」

「それだけだ」


「はは」


 グレンは笑った。


「俺のも習慣だ」

「泣いてるガキと悪党は、放っとけねえ」


 良樹は返事をしなかった。


 泣いている子供。

 悪党。


 グレンの中では、その二つが同じ場所にある。


 助けるもの。

 裁くもの。


 どちらにも迷いがない。


 だから、恐ろしい。


 グレンは、軽く首を鳴らした。


「早速だが、良樹」

「お前さん、何であの小僧を庇う」

「今度はちっとはまともな答えを聞かせてもらおうか」


 良樹は、すぐには答えなかった。


 風が、岩場を抜ける。


「……あんたから見て」

「俺はどう見える」


 グレンは眉を上げた。


「あぁ?」


「答えてくれ」


 グレンは、少しだけ良樹を見た。


 それから、笑う。


「その若さにしちゃ立派なもんだと思うぜぇ」

「何せ英雄にまでなったんだ」

「大したもんだぁ」


 一拍。


「あの小僧を庇ってなけりゃな」


 良樹は目を伏せた。


「……俺は今まで何度も失敗してきた」


 グレンは黙る。


 良樹は続けた。


「親父に怒鳴られた」

「現場の職人達にも怒鳴られた」

「図面を見落とした」

「停止条件を甘く見た」

「動けばいいと思って、後から痛い目を見たこともある」


 胸の奥に、十鉄の声が浮かぶ。


 動かすだけなら猿でもできる。

 止められて初めて設計だ。


「こっちに来てからもそうだ」

「リシアに止められた」

「カレンに見てもらった」

「クラリスに診てもらった」

「ガレスにも」

「藤田の爺さんにも」

「世話をかけた」


 良樹は顔を上げる。


「俺は、失敗しなかった人間じゃねえ」

「失敗して」

「叱られて」

「教えられて」

「戻された側だ」


 グレンの笑みが少しだけ薄くなる。


「だから、今度は俺の番だ」


 良樹は言った。


「失敗はした」

「取り戻せねえかもしれねえ」

「だが、取り戻そうとしてる奴を切るような真似は出来ねえ」


 グレンは、しばらく良樹を見ていた。


「……それが悪だとしてもか、良樹」


「俺は、あんたみてえに善悪の区別は簡単につけられねえ」


「つけられねえ?」


「ああ」

「どんな奴にも、善も悪も両方ある」


 グレンの目が細くなる。


 良樹は続けた。


「俺は自分のことを正義なんて思っちゃいねえ」

「良いとこ独善だ」


 一拍。


「だから」

「あんたのことも、悪だと思っちゃいねえ」


 グレンは、楽しそうに笑った。


「当たり前だ」

「俺こそが正義だ」

「正義は悪を裁かなきゃならねぇからなぁ」


 良樹は、その笑いを聞いた。


 迷いがない。

 それが怖い。


「最後に一度だけ頼む」


 良樹は言った。


「アルフのこと」

「もう少し長い目で見てやってくれねえか」


 グレンは即答した。


「ダメだ」


 軽い。

 だが、揺らがない。


「あの小僧は罪を犯した」

「悪だ」

「俺が裁く」


「許すかどうかは、被害を受けた奴らが決める」


 良樹は静かに言った。


「俺じゃねえ」

「ガレスでもねえ」

「アルフ自身でもねえ」


 グレンは黙っている。


「だが」

「責任を取らせる前に殺したら」

「戻せるかもしれねえ道まで消える」

「謝る機会も」

「働いて償う機会も」

「自分のやったことを見続ける時間も」

「全部切れる」


 良樹は、グレンを見た。


「それを正義だとは、俺は思えねえ」


 グレンは、にやりと笑った。


「甘いなぁ」


「ああ」

「甘いかもしれねえ」


「その甘さで、また誰かが壊れたらどうする」


「俺が後を見る」


「見れば戻るのか」


「戻らねえこともある」


「なら意味がねえ」


「意味があるかどうかを」

「すぐに裁く奴が決めるな」


 グレンの笑みが、ほんの少しだけ消えた。


 良樹は続ける。


「俺は、アルフを許すとは言ってねえ」

「被害を受けた奴らに許せとも言わねえ」

「けど、今殺したら」

「あいつは責任を取る前に終わる」


「ほう」


「俺はもう、あいつの師匠になっちまった」


 風が吹いた。


 旧採石場跡の砂が、足元を流れる。


「師匠、ねぇ」


 グレンは、低く笑った。


「随分とまあ」

「若えくせに、背負い込むじゃねえか」


「背負い込むんじゃねえ」


 良樹は答えた。


「背負わせるために教えるんだ」

「あいつが自分で背負えるようになるまで」

「俺が見てる」

「だから、今は殺させねえ」


 グレンは、肩を揺らして笑った。


「やっぱり駄目だなぁ」


 良樹は黙っている。


「どうする良樹ぃ」


 グレンは剣の柄に手を置いたまま、軽く首を傾けた。


「俺ぁ、生きてる限り裁きを続けるぜぇ?」


 良樹は答えない。


「アルフだけじゃねえ」

「次に同じような悪が出りゃ裁く」

「悪を庇う奴が出りゃ、そいつも裁く」

「事情を見ようとする奴がいりゃ、悪を逃がす奴として裁く」


 グレンの声は軽かった。

 けれど、その中に迷いはなかった。


「師匠は俺を半殺しで止めた」

「英雄の称号も剥いだ」

「表舞台から追い出した」

「それで終わったと思ったんだろうなぁ」


 グレンは笑った。


「だが、今こうなってんだよ」


 良樹は、何も言えなかった。


 藤田はグレンを止めた。

 殺さなかった。


 その判断を、良樹は間違いだったとは言えない。


 殺さずに止められるなら、その方がいい。

 止めた後に戻れるなら、その方がいい。

 誰かが、誰かを殺さなくて済むなら、その方がいい。


 だが。


 グレンは止まっていない。


 半殺しでも。

 称号剥奪でも。

 追放でも。


 止まらなかった。


 良樹の胸の奥に、重い確認が一つ落ちた。


 止めるだけでは、足りない。


「そうだ、良樹」


 グレンが、ふと思い出したように言った。


「お前を裁いたら」

「お前の女達も裁いてやるよ」


 空気が変わった。


 良樹の目が、静かに細くなる。


 グレンは笑っていた。


「英雄の癖に悪を庇うお前に付き従う女達も、悪だからなぁ」


 一拍。


「リシア」

「カレン」

「クラリス」


 名前を呼んだ。


 その瞬間、良樹の中で何かが跳ねた。


 怒り。

 殺意。

 恐怖。


 それらが、一気に主幹へ流れ込もうとする。


 だが、落ちなかった。


 クラリスの線が、胸の奥で静かに触れる。


 壊れそうなら止める。


 リシアの線が、立ち上がりを抑える。


 跳ねさせるな。

 怒りで動かすな。


 カレンの線が、未来を見せる。


 ここで怒れば、帰れない。

 ここで焼けば、守れない。


 良樹は、息を吐いた。


 長く。

 細く。


「……そうか」


 声は、思ったより静かだった。


 グレンが笑う。


「怒らねえのか?」


「怒ってる」


「なら、斬りかかってこいよぉ」


「怒りで動いたら」

「俺は帰れねえ」


 グレンの笑みが、深くなった。


「それとも」

「お前より先に、女達から裁いてやろうかぁ?」


 空気が止まった。


「そうしたらお前も」

「俺と同じ正義の味方になれるかもしれねぇぞ」


 グレンは、楽しそうに笑った。


「そうだ」

「それがいい」

「そうしようぜ、良樹ぃ!」


 その瞬間、良樹は理解した。


 この男は、単に三人を殺すと言っているだけではない。


 良樹を、自分と同じ回路へ引きずり込もうとしている。


 大事な女を失えば、お前も俺と同じ正義に到達する。

 そう、本気で思っている。


 良樹の中に、最後の判定が下りた。


 停止不可。


 被害範囲拡大。


 妻たちへの直接脅威。


 良樹自身の破綻誘導。


 再発確定。


 殺すしかない。


「グレン」


「ああ?」


「最後に、一つだけ確認する」


「何だぁ?」


「ここで俺が退いたら」

「お前はアルフを殺すな」


「ああ」


「俺を殺したら」

「リシアたちも殺すな」


「ああ」


「その後も」

「お前が悪だと思った奴を裁き続けるな」


「当たり前だろ」


 グレンは笑った。


「俺は正義だからなぁ」


 良樹は目を伏せた。


 最後の確認は終わった。


 殺さない理由を探した。

 止める道を探した。

 見逃す道も、捕らえる道も、叩き伏せる道も考えた。


 だが、そのどれも、次の被害を止められない。


 良樹は目を開けた。


「……分かった」


 グレンの目が細くなる。


 良樹は言った。


「お前と同じにはならねえ」


「はぁ?」


「俺は正義の味方になんかならねえ」

「英雄にもならねえ」

「あんたの後継にもならねえ」


 胸の奥で、三本の線が灯っている。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人はここにいない。

 だが、いる。


「俺は、上村良樹だ」


 グレンの笑みが、すっと薄くなる。


 良樹は右手を開いた。


「俺は英雄として、あんたを裁くんじゃねえ」

「正義として、あんたを悪だと断じるんでもねえ」


 良樹の右腕に、打撃腕が顕現する。


 半透明の力が、腕の外側へ重なる。

 空気が震えた。


「俺の都合で」

「俺が後を見ると決めた奴らを守るために」

「俺が帰る場所を守るために」


 一拍。


「あんたを、殺す」


 それは怒りではなかった。


 怒りはある。

 殺意もある。

 恐怖もある。


 だが、それを電源にはしない。


 これは正義ではない。

 英雄の裁きではない。

 グレンへの救済でもない。


 良樹の独善。

 良樹の都合。

 良樹が後を見ると決めたものを守るための殺し。


 グレンは、じっと良樹を見ていた。


 先ほどまでの軽い笑みが、すっと消える。


「そうかよ」


 低い声だった。


「――なら、死ね」


 剣が抜かれた。


 旧採石場跡に、乾いた音が響いた。


挿絵(By みてみん)


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