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第104話 爺さんのいない街(挿絵有)

 藤田の爺さんが、亡くなった。


 ガレスの口からその言葉を聞いた時、良樹はすぐには何も言えなかった。


 悲しい。

 寂しい。

 悔しい。


 そういう言葉なら、いくつもあるはずだった。


 だが、どれも少し違った。


 胸の奥に落ちてきたのは、もっと単純で、もっと重い事実だった。


 藤田の爺さんは、もういない。


 それだけだった。


「……そうか」


 良樹は、それだけ言った。


 自分の声なのに、少し遠く聞こえた。


 ギルドの奥部屋。

 いつもの机。

 いつもの椅子。

 いつものガレス。


 けれど、いつもの雑な笑みはなかった。


 リシアが隣で息を呑む。

 カレンが胸元で両手を握る。

 クラリスが、良樹の横へ一歩寄った。


「良樹」


 リシアの声が、静かに届く。


「……ああ」


 返事をした。

 したつもりだった。


 ちゃんと声になっていたかは分からなかった。


 藤田。


 爺さん。


 英雄だった男。

 良樹に問いを投げた男。

 自分の隣に立てと言った男。

 この世界のことを頼んだぞ、と言った男。


 やります。

 やれます。

 やってみせます。


 そう返した。


 その返事を、確かにした。


 なのに。


 もう、報告できない。


 良樹は、ゆっくりと息を吸った。


 だが、胸の奥まで空気が入ってこない。


「良樹さん……」


 カレンの声が震えていた。


 クラリスが静かに言う。


「良樹くん」

「座りましょう」


 良樹は、クラリスを見た。


 その顔はいつも通り穏やかだった。

 けれど、目の奥は少し揺れていた。


 クラリスも、藤田を知っている。

 直接の時間は長くない。

 それでも、藤田が良樹へ何を渡したのかは見ていた。


 だから、その声はただの治療者の声ではなかった。


 妻の声だった。


「……悪い」


 良樹は椅子へ腰を下ろした。


「謝るところじゃないわ」


 リシアが言う。


「今は、無理に整理しなくていい」

「でも、一人で抱えるのはなし」


「一人でって……」


「駄目よ」


 リシアは短く言い切った。


 カレンも小さく頷く。


「良樹さんが歩くなら、私も歩きます」

「止まるなら、隣にいます」

「でも……一人でどこかへ行くのは、駄目です」


 クラリスは、良樹の前に水の入った杯を置いた。


「悲しい時に、身体まで壊す必要はありません」

「飲んでください」

「食べてください」

「眠ってください」

「それも、今の良樹くんの仕事です」


 良樹は杯を見た。


「仕事かよ」


「はい」


 クラリスは、はっきり頷いた。


「生きて続きをする人の仕事です」


 続き。


 その言葉が、良樹の胸へ刺さった。


 藤田の続き。

 英雄の続き。

 この世界の続き。

 自分の仕事の続き。


 全部が重い。


「……置いていくもんが、重すぎるだろ」


 良樹は小さく呟いた。


 ガレスは、それを聞いていた。


 いつものように茶化すことはしなかった。


 ただ、低く言う。


「護衛の報告は後でいい」

「今は、こっちだ」


 荷馬車護衛。

 道中で出会った旅の剣士。

 グレン。


 その名は、良樹の頭の中をかすめもしなかった。


 今はただ。


 藤田の爺さんが死んだ。


 その事実だけが、胸の奥に落ちていた。


   ◇


 その日の夜、良樹はあまり眠れなかった。


 目を閉じれば、藤田の声が聞こえる気がした。


 のう、良樹。

 ワシの隣に立ちなさい。


 あれが、英雄が見ている景色じゃ。


 この世界のことを頼んだぞ。


 良樹は布団の中で、何度も寝返りを打った。


 隣の部屋には三人がいる。

 気配は分かる。

 完全に眠っていないのも、分かる。


 リシアも、カレンも、クラリスも、こちらを気にしている。


 ありがたい。


 ありがたいのに、申し訳ない。


 その二つが混ざって、余計に眠れなかった。


 朝になった。


 街は、普通に動き始めた。


 店が開く。

 荷馬車が通る。

 ギルドには依頼が貼られる。

 施療院からは報告が届く。

 子供が走り、誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かが飯を食う。


 世界は止まらない。


 藤田の爺さんが死んでも、世界は止まらない。


 止まってくれない。


 それが、少し腹立たしかった。


 良樹は作業台の前に座っていた。


 机の上には、藤田から受け取った手記がある。

 工具がある。

 魔導盤のメモがある。

 書きかけの図がある。


 開こうと思えば開ける。

 書こうと思えば書ける。

 作ろうと思えば、たぶん手は動く。


 けれど、手が止まっていた。


「……何だよ」


 良樹は、手記を見たまま呟いた。


「やれって言ったのは、爺さんだろ」

「だったら、もう少し横で見てから行けよ」


 返事はない。


 当たり前だ。


 返事は、もうない。


 良樹は額を押さえた。


 その時、一階の扉が静かに開いた。


 リシアだった。


「起きてたのね」


「寝てた」


「嘘」


「少しは寝た」


「少し、ね」


 リシアは近づいて、机の上を見る。


 手記。

 工具。

 メモ。


 それから、良樹の止まった手。


「無理に前を向かなくていいわ」


 リシアは言った。


「でも、下を向きっぱなしにはさせない」


「厳しいな」


「妻だから」


 良樹は少しだけ笑った。


 笑えた、というほどではない。

 口元がわずかに動いただけだった。


 それでも、リシアはその小さな変化を見落とさなかった。


「朝ごはん」


「今は――」


「食べるの」


 言い切られた。


 カレンが扉のところから顔を出す。


「良樹さん」

「私も、食べた方がいいと思います」


 クラリスも、その後ろで静かに頷いた。


「空腹と睡眠不足は、判断を悪くします」

「良樹くんがいつも言っていることです」


「俺、そんなこと言ったか」


「似たようなことは何度も」


 クラリスは、にこりと微笑んだ。


「ですから、良樹くんの仕様に従ってください」


「仕様って言うな」


 言い返した声は、少しだけいつもの調子に近かった。


 三人は、それ以上何も言わなかった。


 ただ、良樹を食卓へ連れていった。


   ◇


 藤田の訃報から、三日が経った。


 良樹は最低限のことはしていた。


 飯は食べた。

 眠れる時は眠った。

 ガレスへの確認もした。

 荷馬車護衛の簡単な報告も済ませた。


 ただし、細かい報告まではまだ整理できていなかった。


 道中で助けてくれた旅の剣士のことも、まだ詳しく話していない。


 言うべきだったのかもしれない。


 だが、藤田の訃報の前では、あまりにも遠い話になっていた。


 その日、良樹はギルドの奥部屋でガレスと向かい合っていた。


 ガレスは、いつものように雑に椅子へ座っていた。

 だが、目の下には少し疲れが見える。


「爺さんはな」


 ガレスが言った。


「死ぬ前まで、たぶんお前のことを考えてた」


 良樹は眉を寄せた。


「重いこと言うなよ」


「重いんだよ」


 ガレスは短く返す。


「継ぐってのは、軽くねえ」


 良樹は、机の木目を見た。


「……継ぐつもりで、返事はした」


「ああ」


 ガレスは頷く。


「だから今さら逃がさねえ」


「逃げねえよ」


「なら飯食え」


「食ってる」


「なら寝ろ」


「少しは寝てる」


「“少し”じゃ足りねえんだよ」


 ガレスは鼻を鳴らした。


「逃げねえ奴ほど、飯を抜いて倒れやがる」

「倒れたら、そいつは逃げたのと同じだ」


「……厳しいな」


「爺さんならもっと厳しい」


 良樹は何も言えなかった。


 それは、たぶんそうだ。


 藤田なら、もっと静かに、もっと重い言葉で刺してくる。


 ガレスは、そんな良樹をしばらく見ていた。


 それから、扉の方を顎で示した。


「少し歩いてこい」


「歩く?」


「ああ」

「ここに座ってても、爺さんの言葉ばっかり頭ん中で回るだけだ」


「……分かるのかよ」


「分かる歳なんだよ、こっちは」


 ガレスは、そこで少しだけ苦く笑った。


「リシアたちも連れてけ」

「一人で歩かせると、また変なもんを背負い込む」


「俺を何だと思ってる」


「面倒くせえ若造」


「雑だな」


「事実だ」


 良樹は短く息を吐いた。


「……分かった」


   ◇


 街は、今日も普通だった。


 普通に見えた。


 店先では野菜が並ぶ。

 鍛冶屋の方から金属を打つ音が聞こえる。

 通りの端では子供が走り、親に怒られていた。

 冒険者が依頼の話をしながらギルドへ向かう。

 パンを焼く匂いが、路地の奥から流れてきた。


 全部、普通だった。


 藤田の爺さんがいないこと以外は。


 良樹は通りを歩いていた。


 リシアは少し横。

 カレンは後ろ寄りで周囲を見ている。

 クラリスは良樹の歩き方を見ていた。


「良樹」


 リシアが言う。


「何だ」


「顔が固い」


「そうか」


「ええ」


 カレンも小さく頷いた。


「良樹さん、少し足が速いです」


 クラリスが続ける。


「呼吸も浅いです」


「監視か」


「見守りです」


 クラリスは即答した。


 良樹は少しだけ肩の力を抜いた。


「……悪い」


「謝らなくていいわよ」


 リシアが軽く言った。


「ただ、気づいたら言う」


「はい」


 カレンも頷く。


「良樹さんが、気づかないところは……私たちが見ます」


 良樹は、三人を見る。


 何か言おうとして、やめた。


 言葉にすると、たぶん重くなる。


 だから、短く返した。


「頼む」


 三人は、それぞれに頷いた。


 その時だった。


「おう、良樹」


 聞き覚えのある軽い声がした。


 良樹が顔を上げる。


 通りの角に、旅装の男が立っていた。


 無精髭。

 日に焼けた顔。

 使い込まれた外套。

 背中には剣。


 昨日ではない。

 数日前、荷馬車護衛の道中で出会った男。


「グレン」


 良樹はその名を呼んだ。


 グレンは片手を上げる。


「なんだ、お前さんもこの街にいたのか」


「あんたこそ、この街に来てたのか」


「まぁよ」


 グレンは笑った。


「ちっとヤボ用があってなぁ」

「昔の知り合いにも、声をかけておこうと思ってよぉ」


「そうなのか」


 良樹は少しだけ間を置いてから言った。


「この前の礼くらいさせてくれ」

「メシでも奢る」


「おうおう、そりゃありがてえ」


 グレンは笑いかけて、ふと良樹の顔を見た。


 その目が、ほんの少しだけ細くなる。


「なんだぁ、良樹」

「シケたツラしてねえかぁ?」


 リシアが少しだけグレンを見る。

 カレンも息を止める。

 クラリスは、良樹の横顔を見た。


 良樹は、隠さなかった。


「世話になった人が死んだ報せが来た」


 グレンの笑みが、少しだけ静かになった。


「そうかい」


 軽い声ではあった。

 だが、茶化してはいなかった。


「そいつぁ不躾なことを聞いちまったな」

「すまん」


「いや、構わねえ」


 良樹は首を振る。


「あんたには知る由もねえことだ」


「若いのに大したもんだ」


 グレンは、少しだけ良樹を見る。


「そういう時に、ちゃんとそう言える奴は案外少ねえ」


「大したもんじゃねえよ」


「そうかい」


 グレンは通りの飯屋の方へ目を向けた。


「でもな、飯は食っとけ」

「腹が空いてると、悲しいもんは余計に重くなる」


 良樹は、少しだけ黙った。


 ガレスにも似たようなことを言われた。

 クラリスにも言われた。


 どうやら、この世界の年長者と妻たちは、悲しみに対してまず飯を食わせようとするらしい。


 合理的ではある。


 少し腹立たしいほどに。


「……ああ」


 良樹は頷いた。


 グレンはまた、いつもの調子に戻ったように笑った。


「そういやよ、良樹」

「若いと言えば、最近この街で若いのに英雄になったやつがいるそうじゃねえか」

「お前、知ってるか?」


 良樹は目を細めた。


「……俺だ」


「お前さんが?」


「ああ」


 良樹は少しだけ顔をしかめる。


「英雄なんて、大したもんじゃねえけどな」


 グレンは、目を丸くした。


 それから、からからと笑う。


「おいおい」

「お前さんがそうなのか」

「こりゃますます大したもんだ」


「大したもんじゃねえって言ってるだろ」


「はっはっは」


 グレンは楽しそうに笑った。


「そう言う奴ほど、案外大したもんだったりするんだよ」


「英雄って呼ぶなよ」


「まだ呼んでねえだろ」


「呼ぶ顔をしてた」


「顔で分かるのかぁ?」


「分かる」


「はっはっは」

「良い目してるじゃねえか」


 リシアが横から小さく言った。


「良樹は、本当に英雄呼ばわりを嫌がるから」


 グレンはリシアを見る。


「そうらしいなぁ」

「ま、嫌がるくらいでちょうどいいのかもしれねえ」


 その言葉は軽かった。


 だが、良樹は少しだけ引っかかった。


 嫌がるくらいでちょうどいい。


 妙に実感がある言い方だった。


 ただ、それ以上聞くほどのことでもないと思った。


「そういや、あんたの知り合いにはもう会えたのか?」


 良樹が話題を変える。


 グレンは肩をすくめた。


「いや、これがまだでよぉ」

「多分ギルドにいると思うんだが、場所が分からなくてな」


「何だ」


 良樹はすぐに言った。


「なら俺が案内する」


「おぉ、そりゃあ助かるぜ」


 グレンは大げさに両手を合わせた。


「さすが英雄様だな」


「英雄って言うな」


「そうささくれ立つなって」


 グレンは笑う。


「んじゃあまぁ、一つ道案内を頼むわ」


 良樹は小さく息を吐いた。


 疑う理由はなかった。


 数日前、荷馬車を助けてくれた。

 人を見て、状況を見て、正面に立ってくれた。

 今も、良樹の沈んだ顔に気づき、謝り、飯を食えと言った。


 悪い男には見えない。


 少なくとも、今の良樹にはそう見えた。


「こっちだ」


 良樹はギルドの方へ歩き出した。


 リシア、カレン、クラリスも続く。


 グレンは軽い足取りで、良樹の隣へ並んだ。


「それにしても、英雄になったばかりの若造に道案内してもらうとはなぁ」


「英雄って言うなって言っただろ」


「じゃあ、英雄じゃない良樹」


「余計に腹立つな」


「難しいな、お前さん」


「難しくしてるのはあんただ」


 グレンは楽しそうに笑った。


 その笑い声は、街のざわめきに混ざった。


 良樹は、その時まだ知らなかった。


 自分が連れて歩いているこの男が、ガレスの古い傷を開くことになるなど。


   ◇


 ギルドの扉を開けた。


「ガレス」


 良樹は声をかけようとした。


 だが、ガレスの視線は良樹ではなく、その隣に向いていた。


 旅装。

 無精髭。

 日に焼けた顔。

 背中の剣。


 グレン。


 ガレスの顔から、血の気が引いた。


 良樹は、その変化を見逃さなかった。


 いつものガレスではない。


 怒りだけではない。

 驚きだけでもない。

 恐怖とも違う。


 もっと古いものを見てしまった顔だった。


「……良樹」


 ガレスの声が低い。


「なんでそいつと、お前が一緒にいる」


 良樹は眉を寄せた。


「ガレス?」


 グレンは、いつものように片手を上げた。


「おいおい、ガレス」

「そりゃあ、ちぃとばかり俺でも傷つくぜぇ」


 ガレスは笑わなかった。


「……グレン」


 その名を呼ぶ声に、良樹は初めて違和感を覚えた。


 旧友を呼ぶ声ではない。

 敵を呼ぶ声でもない。


 もっと古くて。

 もっと重くて。

 捨てきれないものを噛み潰したような声だった。


 リシアが杖を持つ手に、わずかに力を入れる。

 カレンは良樹とグレンの間ではなく、ガレスの顔を見た。

 クラリスは、一歩だけ良樹の近くへ寄った。


 ギルドの中の空気が、静かに冷えていく。


 ガレスは、グレンから目を逸らさなかった。


「何しに来やがった」


 挿絵(By みてみん)


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