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第103話 ただの旅人(挿絵有)

 翌朝。


 ギルドの奥部屋の扉が開き、ロブがふらふらと出てきた。


 比喩ではなく、頭からブスブスと煙が出ているような顔だった。


「……文字が多い」

「人間は何であんなに何でもかんでも紙にしたがるんだ」


 ロブは椅子に崩れるように座り、耳を机の上へ投げ出すように伏せた。


 少し遅れて、ロブの教師役を任されたグレッグが部屋から出てくる。


 こちらは逆に、妙に晴れやかな顔をしていた。


「どうだった」


 良樹が尋ねると、グレッグは感心したように息を吐いた。


「いるところには、いるものですな」

「天才という者が」


 ロブの耳がぴくりと動いた。


「……誰が天才だ」


「あなたです」


「馬鹿にしてんのか」


「しておりません」


 グレッグは、むしろ真面目に首を振った。


「文字や体系で覚えることには、まだ慣れていないのでしょう」

「基礎も抜けています」

「読み書きも、計算も、これからです」


「ほら見ろ」


 ロブが不機嫌そうに言う。


 だが、グレッグは続けた。


「ですが、一度感覚として捉えてからの理解が異常に早い」


 良樹の目が少し細くなる。


「異常に?」


「ええ」

「こちらが符号の意味を説明する前に、使う側がどこで迷うかを指摘しました」

「緊急時に似た合図を置くな」

「間違えた時の合図は、普段と明確に違う形にしろ」

「戻りが来なかった時に、誰が確認へ走るのか決めておけ」

「……そういう話を、自分の森の感覚に置き換えて理解しております」


 ロブは顔を背けた。


「当たり前だろ」

「危ない時に紛らわしい合図なんざ使えねえ」


「その“当たり前”を、普通は学んでからようやく言えるのです」


 グレッグは、少しだけ笑った。


「彼が我々の知識を吸収したらと思うと――」

「今から震えが止まりませんな」


 ロブはますます顔をしかめた。


「気持ち悪いこと言うな」


 良樹は短く笑った。


「褒められてんだよ」


「褒め方が気持ち悪いんだよ」


「慣れろ」

「勉強ってのは、そういう気持ち悪い目にも遭う」


「最悪だな」


「最悪じゃねえ」

「始まりだ」


 良樹は机の上の紙を一枚引き寄せた。


 そこに、大きく書く。


 全部聞くな。


 ロブは、その文字を見て露骨に顔をしかめた。


「……喧嘩売ってんのか」


「売ってねえよ」


 良樹は短く答えた。


「今日の続きだ」

「符号も音も同じだ」

「全部拾おうとするな」

「必要なものを選べ」


 机を挟んで、良樹の正面にロブが座っている。

 その隣にはアルフ。

 リシア、カレン、クラリスは、少し後ろで見守るように立っていた。


 ロブは耳をぴくりと動かした。


 相変わらず、ひと目で亜人と分かる姿だった。

 長い耳。

 顔や首筋に残る兎系亜人の毛並み。

 人間とは違う鼻口まわり。

 擦れた服。

 まだ完全には解けていない警戒心。


 だが昨日、ロブは人間の子供を助けた。


 ケーンとノーラの息子、カイル。


 良樹の魔導スキャナーでも拾えなかった小さな息。

 三人妻の捜索でも届かなかった布の擦れる音。


 それを聞き取ったのは、ロブだった。


 人間を信じたからではない。

 アルフを許したからでもない。

 ただ、聞こえてしまった。


 助けを求める小さな音が。


 だからロブは、一人で探し出した。


 良樹はそのことを、ただの感動話で終わらせるつもりはなかった。


「昨日、お前はカイルを見つけた」


「……ああ」


「耳が良かったからだ」


「だったら何だよ」


「けど、耳が良いだけじゃ見つからなかった」


 ロブの眉が動いた。


「何が言いてえ」


「お前は、聞こえた音の中から、拾うべき音を選んだ」


 ロブは黙った。


 良樹は机の上の紙を指で叩いた。


「お前の耳はすげえ」

「けど、すげえ耳があるだけじゃ、人は助けられねえ」

「何を聞くか」

「何を捨てるか」

「聞こえた後、誰にどう渡すか」

「そこまで決めて、初めて使える」


 ロブは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。


「耳までお前の道具にする気かよ」


 空気が少しだけ張った。


 アルフが肩を震わせる。

 カレンも不安そうに良樹とロブを見た。


 だが良樹は、すぐに首を振った。


「違う」

「お前を道具にする気なら、昨日の時点で捜索役として使い倒してる」


「……」


「そうじゃねえ」

「お前の耳を、お前が守りたいものを守るために使える形にする」


 ロブは、答えなかった。


 ただ、耳の先だけがわずかに揺れた。


 良樹は紙に書いた丸を指す。


「聞こえるものは入力だ」

「入力が多いのは、悪いことじゃねえ」

「でも全部そのまま入れると、人間も盤も死ぬ」


「盤?」


「俺の世界の制御盤だ」

「スイッチ、センサー、異常信号、モータの状態、温度、圧力」

「全部見ようとすれば、見えなくなる」

「だから分ける」


 良樹は新しい紙に線を引いた。


「無視していい音」

「気にした方がいい音」

「すぐ動く音」

「誰かに知らせる音」

「自分だけで動いちゃいけない音」


 アルフが、少し不思議そうに手を上げた。


「あの……でも」

「聞こえるなら、全部聞けばいいんじゃないんですか」


 ロブが即座にアルフを見た。


「無理だ」


「え?」


「全部聞こうとしたら、逆に何も拾えねえ」

「森で全部の音を追ったら死ぬ」


 ロブの声には、実感があった。


「枝の音」

「鳥の声」

「虫の音」

「風」

「足音」

「呼吸」

「服が擦れる音」

「石が転がる音」

「遠くの水の音」

「全部同じに聞いてたら、危ない音が埋もれる」


 良樹は頷いた。


「それだ」


 ロブが良樹を見る。


「入力を全部見るな」

「必要な異常だけ拾えるようにする」

「全部の入力をそのまま盤に入れると、盤が死ぬ」

「人間も同じだ」

「全部聞こうとすると、頭が死ぬ」

「だから絞る」


 リシアが小さく頷いた。


「魔法も似ているわ」

「全部の魔力の流れを同じ重さで見ようとすると、逆に崩れる」


 クラリスも静かに続ける。


「身体を見る時も同じです」

「痛みがある場所すべてを同じ優先度で見ると、危険な兆候を見落とします」


 カレンは少し考えてから言った。


「怖い場所も……全部を同時に見ると、動けなくなります」

「一番近い危険と、一番守らなければいけないものを、先に見ます」


 良樹は三人を見てから、ロブへ視線を戻した。


「な?」

「みんな似たようなことをやってる」

「ただ、お前はそれを耳でやってる」


 ロブは、面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「……別に、考えてやってるわけじゃねえ」


「考えずにやれてるなら、なおさらすげえよ」

「ただし、人に渡すには言葉にしないと駄目だ」


「人に渡す?」


「ああ」

「お前が聞こえたとしても、周りが分からなきゃ動けねえ」

「昨日はお前が一人で走った」

「それで間に合った」

「でも毎回それでいいとは限らねえ」


 ロブは少しだけ目を伏せた。


 昨日、ロブは一人で探した。

 それは正しかった。

 少なくとも、あの時は。


 だが、もし魔物がいたら。

 もし崩れた場所がもっと深かったら。

 もしロブ一人では引き上げられなかったら。


 音を聞いた後の戻り線がない。


 良樹はそこを言っている。


「たとえば」


 良樹は紙に森の絵を描いた。

 相変わらず、絵は上手くない。


 リシアが小さく眉を寄せる。


「……木?」


「木だ」


「そう」


 良樹は無視して続けた。


「風で揺れる葉の音は?」


 ロブは即答した。


「捨てる」


「風と逆に動く草の音は?」


「拾う」


「鳥が一斉に止まったら?」


「見る」


「小さい息は?」


「場所と時間で変わる」

「昼間の集落なら子供かもしれねえ」

「夜の森なら獣かもしれねえ」

「息が浅いなら怪我人かもしれねえ」

「息を殺してるなら、隠れてるやつかもしれねえ」


 良樹は、少しだけ目を細めた。


「お前、やっぱり頭いいな」


 ロブは顔をしかめた。


「馬鹿にしてんのか」


「してねえ」

「今のは、かなり高度な判断だ」


「……」


「音を聞いただけじゃない」

「状況と合わせて判断してる」

「それは技術だ」


 ロブは黙った。


 耳が良い。

 それはロブにとって、ずっと当たり前で、厄介で、時には嫌なものだったのだろう。


 聞こえすぎる。

 人間の声も。

 悪意も。

 恐れも。

 遠くの嘲笑も。

 聞きたくないものまで聞こえる。


 だが良樹は、それをただの能力として褒めていない。


 扱い方を見ている。


 ロブは、それが少しだけ腹立たしかった。

 そして、少しだけ分からなかった。


 アルフが小さく呟いた。


「聞こえるだけじゃ、駄目なんですね」


「駄目というより、危ない」


 良樹はアルフを見る。


「アルフ」

「便利な道具を作る時も同じだ」

「全部できるようにするな」


「全部できるようにするな……」


「ああ」

「誰が、いつ、何のために使うか」

「それを決めないと、使う奴が迷う」

「迷う道具は、危ない」


 アルフは唇を噛んだ。


 人間になれる魔石。


 あれは、便利だった。

 救いに見えた。

 願いを叶える石に見えた。


 だが、戻り方がなかった。

 止め方がなかった。

 使った後の負荷を見ていなかった。


 良樹は続ける。


「昨日のロブの耳も同じだ」

「音が聞こえた」

「じゃあ、どうする」

「一人で走るのか」

「誰かに伝えるのか」

「場所だけ教えるのか」

「救助道具を持っていくのか」

「危険ならどう戻るのか」

「そこまで決めておく」


 ロブがぽつりと言った。


「……俺の耳は、厄介なだけだと思ってた」


 良樹は即答した。


「厄介だろ」


「否定しねえのかよ」


「厄介じゃねえ力なんてねえよ」

「強い力は大体厄介だ」

「だから使い方を決める」

「止め方を決める」

「使った後を見る」


 ロブは良樹を見た。


 呆れたような顔だった。


「……お前、何でもそれだな」


「ああ」

「それで飯食ってきたからな」


 リシアが少しだけ笑った。


「本当に何でもそれよね」


「大事だろ」


「ええ」

「大事だから困るのよ」


 カレンも小さく頷く。


「良樹さんらしいです」


 クラリスは穏やかに微笑んだ。


「良樹くんの仕様ですね」


「仕様って言うな」


 その時、奥部屋の扉が雑に開いた。


 ガレスだった。


「おう」

「勉強会は終わったか」


 良樹は紙をまとめながら答える。


「一区切りだ」


「ならちょうどいい」

「良樹、仕事だ」


「仕事?」


 ガレスは一枚の依頼書を机に置いた。


「荷馬車護衛」

「施療院方面へ薬草と布、修理材を運ぶ」

「大した依頼じゃねえ」

「ただ最近、あの辺りの街道で魔物の目撃が増えてる」

「ついでに道と中継候補地も見てこい」


 良樹は依頼書を見た。


 目的地。

 荷物。

 街道。

 危険情報。

 護衛対象。


「荷馬車一台か」


「ああ」

「御者と商人」

「あと見習いの子供が一人乗る」


 カレンの表情がわずかに引き締まった。


 子供。

 それだけで、見る場所が増える。


「分かった」

「受ける」


 アルフが少し身を乗り出した。


「あの、僕も――」


「留守番だ」


 良樹は即答した。


 アルフの肩が少し落ちる。


「今日は謝りに行く日じゃねえ」

「護衛と道を見る日だ」

「お前は戻し方と止め方を続けろ」


「……はい」


 ロブも良樹を見た。


「俺は行かねえのか」


 良樹はロブの耳をちらりと見た。


「今日は耳を使う依頼じゃねえ」

「さっきの整理をやっとけ」


「……」


「聞こえるものを増やす前に、聞いた後を決めろ」


 ロブは不満そうに口を曲げた。


「……分かったよ」


 ガレスがロブを見て、少しだけ口元を緩めた。


「いい返事じゃねえか」


「うるせえ」


「おう、その調子で勉強しとけ」


 良樹は立ち上がった。


「リシア、カレン、クラリス」

「行くぞ」


「ええ」


「はい」


「はい、良樹くん」


 三人はすぐに支度を整えた。


   ◇


 街道は、思っていたより静かだった。


 荷馬車の車輪が、乾いた土の上をゆっくりと進む。


 馬は一頭。

 荷台には薬草の束、布の包み、木材、簡単な修理道具。

 御者台には中年の御者。

 荷台の隅には、商家の見習いらしい少年が座っていた。


 少年は最初、良樹たちをじろじろ見ていた。

 特にリシア、カレン、クラリスを見て、何度か御者に小突かれていた。


 良樹は、それには触れなかった。


 触れたら負けのやつだ。


 リシアは隣を歩きながら、周囲の魔力の流れを見ている。

 カレンは少し前寄り。

 森側と荷馬車の後方を何度も見ている。

 クラリスは御者と馬、荷台の揺れを見ていた。


 良樹は荷馬車の横を歩きながら、道を見た。


 道幅。

 森の近さ。

 轍。

 逃げ道。

 馬が暴れた時の退避方向。

 荷を捨てるならどちら側か。

 リシアの射線。

 カレンが踏み込める位置。

 クラリスが怪我人へ寄れる位置。


 全部を見ることはできない。


 だから、順番を決める。


 最初に人。

 次に馬。

 次に逃げ道。

 その次に荷。


 荷は最後でいい。

 荷は捨てられる。

 人は捨てられない。


 良樹は小さく息を吐いた。


「良樹」


 リシアが声をかける。


「何だ」


「考えてる顔」


「仕事中だ」


「知ってるわよ」

「でも、少しだけ顔が硬い」


 良樹は荷馬車の車輪を見た。


「荷馬車は面倒だ」

「人だけなら逃げられる」

「馬だけなら放せる」

「荷だけなら捨てられる」

「でも全部一緒に動いてる」


「だから見る場所が多いのね」


「ああ」

「こういう時に、欲張ると遅れる」


 カレンが前方を見たまま小さく頷いた。


「怖い場所も多いです」

「森側だけじゃなくて、道の先と後ろも気になります」


「合ってる」

「前だけ見るな」


「はい」


 クラリスが御者の腕の動きを見ながら言った。


「馬も、少し緊張しています」

「道の匂いか、森の気配かは分かりませんが」


 良樹は馬の耳を見る。


 時々、森側へ動いている。


「分かった」


 御者が不安そうに振り返った。


「何かいますかね」


「まだ分からない」

「でも馬が少し気にしてる」

「速度を上げすぎないでくれ」


「分かりました」


 少年が荷台から身を乗り出した。


「魔物ですか?」


「分からねえって言っただろ」

「座ってろ」

「荷台から落ちたら、お前が一番危ねえ」


「は、はい」


 少年は慌てて座り直した。


 しばらくは何も起きなかった。


 車輪の音。

 馬の息。

 布の擦れる音。

 薬草の匂い。

 森の葉が揺れる音。


 平穏。


 平穏に見える。


 だからこそ、良樹は嫌だった。


   ◇


 最初に動いたのは、馬だった。


 耳が立つ。

 首がわずかに上がる。

 足取りが乱れる。


 次の瞬間、森側の茂みが割れた。


 魔物が一匹、飛び出してくる。


 狼に似ている。

 だが、体が大きい。

 肩の位置が妙に高く、口元から黒い涎が垂れていた。


「リシア!」


「分かってる!」


 リシアが杖を構える。


 風が走る。

 魔物の足元が崩れ、踏み込みが鈍る。


 カレンが前へ出る。


 剣が抜かれた。


「カレン、前だけ見るな!」


「はい!」


 良樹は魔導盤を展開した。


 胸の前に半透明の盤。

 入力。

 位置。

 距離。

 馬。

 荷馬車。

 御者。

 少年。


 魔物は一匹。


 そう見えた。


 だが、すぐに違った。


 道の前方。

 倒木の影から一匹。


 後方。

 荷馬車の通ってきた道に一匹。


 そして森の奥から、さらに二匹。


「囲まれてる!」


 リシアが叫ぶ。


 馬が大きく嘶いた。


 御者が手綱を引く。

 だが、引いた拍子に馬車が斜めを向いた。

 車輪が轍を外れ、荷台が揺れる。


「うわっ!」


 荷台の少年が転がりかけた。


 カレンが振り向く。


「荷台!」


「カレン、後ろだ!」


 良樹は叫ぶ。


 前の魔物。

 森側の魔物。

 後ろの魔物。

 馬。

 御者。

 少年。

 荷。

 射線。

 逃げ道。


 多い。


 リシアは撃てる。

 だがこの角度で撃てば、馬を巻き込む。

 荷台にも当たる。


 カレンは前に出られる。

 だが後ろの荷台が空く。


 クラリスは御者へ行ける。

 だが前線が抜かれれば、治療どころではない。


 良樹は盤を組み替える。


 まず人。

 馬。

 逃げ道。

 荷は捨てる。


「荷は捨てろ!」

「馬を潰すな!」

「リシア、撃つな、馬が巻き込まれる!」

「カレン、荷台後方!」

「クラリス、御者の腕を――」


 言葉が重なる。


 一瞬、判断が詰まった。


 その瞬間だった。


「おいおい」


 軽い声がした。


「荷馬車相手に、ずいぶん大所帯じゃねえか」


 森の横手から、男が飛び込んできた。


 旅装の男だった。


 年の頃は四十を少し越えたあたり。

 無精髭。

 日に焼けた顔。

 使い込まれた外套。

 背に一本の剣。


 その剣が、飛び込みざまに抜かれていた。


 挿絵(By みてみん)


 男は横から迫っていた魔物の首筋へ剣を入れた。


 派手な一撃ではない。


 だが、無駄がなかった。


 魔物が横へ崩れる。


「兄ちゃん、左を止めろ」

「魔法の嬢ちゃん、馬の足元を巻き込むな」

「剣士の嬢ちゃん、荷台の後ろだ」

「白い嬢ちゃん、怪我人を見るなら今だ」


 男は笑っていた。


 だが、指示は速かった。


「荷は捨てろ」

「命が先だ」


 良樹は一瞬だけ眉を寄せた。


 誰だ。


 そう思った。


 だが、言っていることは正しい。


「リシア、右を止めろ!」

「カレン、荷台後方!」

「クラリス、御者と子供!」

「俺は左を止める!」


「ええ!」


「はい!」


「承知しました!」


 良樹は左の魔物へ打撃腕の出力を向けた。


 止めるだけ。

 低出力で横から押さえる。


「止まれ!」


 魔導盤から伸びた半透明の力が、魔物の肩を押した。

 魔物の進路がずれる。


 リシアは馬を巻き込まない角度で風を走らせた。

 足元だけを崩す。

 魔物の前足が土を滑る。


 カレンは荷台の後方へ回った。

 少年へ向かっていた魔物の進路に、剣を置く。


「こっちには行かせません!」


 剣が光を引く。

 魔物の鼻先が斬られ、後退する。


 クラリスは御者台へ駆け上がった。

 御者の腕を一瞬で見る。


「腕を痛めています」

「手綱はこちらへ」


「え、あ、はい!」


 クラリスは御者から手綱を受け取りながら、荷台の少年へ声をかける。


「伏せてください」

「顔を上げないで」


「は、はい!」


 その横で、旅の男は正面を受けた。


 正面の魔物が跳ぶ。

 男は半歩だけ下がった。

 避けたのではない。

 跳ぶ方向を誘った。


 剣が下から入る。

 魔物の前足が弾かれる。

 体勢が崩れたところへ、柄頭が顎へ入った。


「良樹!」


 男が叫んだ。


 いきなり呼び捨てか。


 良樹はそう思ったが、返事の方が先だった。


「何だ!」


「左、止められるか!」


「止めるだけなら!」


「上等!」


 男は笑った。


 その笑い方に余裕がある。


 だが、目は笑っているだけではなかった。

 見ている。

 荷馬車。

 馬。

 子供。

 御者。

 良樹たちの位置。

 魔物の足。


 全部を、必要な順に見ている。


「魔法の嬢ちゃん!」

「撃つなら足だ!」

「馬を飛ばすなよ!」


「分かってるわ!」


「いい返事だ!」


「剣士の嬢ちゃん!」

「前に出るな!」

「後ろの荷台だ!」

「あそこに子供がいる!」


「……っ、はい!」


「白い嬢ちゃん!」

「怪我人は任せた!」

「ただし、近づいた奴は殴っていい!」


「承知しました」


 良樹は思わず言った。


「殴っていいって言ったな、あんた」


 男は正面の魔物を受けながら笑う。


「治療役が殴れねえとは限らねえだろ」


「分かってるならいい」


 クラリスは御者の腕を支えながら、近づいてきた小型の魔物へ視線だけを向けた。


 次の瞬間、法衣の裾が揺れる。


 踏み込み。

 捻り。

 僧侶用とは思えない静かな体重移動。


 拳ではなく、杖の端で魔物の顎を跳ね上げた。


 魔物が転がる。


 旅の男が、ちらりと見た。


「はっはっは」

「便利な治療役だな」


 良樹は短く返す。


「護身術らしい」


「そりゃあいい」


 男は最後の一匹へ踏み込んだ。


 良樹が左を止める。

 リシアが足を崩す。

 カレンが荷台へ近づけさせない。

 クラリスが御者と子供を守る。


 そして男が正面を切る。


 魔物の包囲は、崩れた。


   ◇


 最後の魔物が地面へ転がった。


 リシアの魔法で足を止められ、カレンの剣で進路を断たれ、良樹の魔導盤で横から押さえられた魔物だった。


 旅の男は、その首筋へ剣を入れる。


 派手な一撃ではなかった。


 だが、やはり無駄がなかった。


 魔物が動かなくなったのを確認してから、男は剣を軽く振り、血を払った。


「よし」

「怪我人は?」


「クラリスが見てる」


 良樹は魔導盤を閉じながら答えた。


 荷馬車の脇では、クラリスが御者の腕を見ていた。

 カレンは荷台の後ろで、泣きじゃくる少年を守るように立っている。

 リシアは馬を落ち着かせながら、周囲の魔力の乱れを確認していた。


 男はそれを見て、満足そうに笑った。


「いい動きするな、お前さんら」

「若いのに大したもんだ」


「それはこっちの台詞だ」


 良樹は男を見た。


「あんた、何者だ」


 男は一瞬きょとんとした。


 それから、自分の旅装と背負った剣を見下ろす。


「何者って」

「ただの旅の剣士だ」


 そこで男は、自分で言ってから、からからと笑った。


「って、そりゃ見れば分かるかぁ? はっはっは」


 軽い笑いだった。


 だが、良樹は笑えなかった。


 見れば分かる。


 確かに、旅装。

 剣。

 使い込まれた外套。

 無精髭。

 日に焼けた顔。


 どこからどう見ても、旅の剣士だった。


 だが、あの判断の速さは違う。


 あの一歩は違う。


 魔物に囲まれた荷馬車。

 暴れかけた馬。

 荷台に残った子供。

 悪い射線。

 逃げ道を塞ぐ倒木。


 それらを見た瞬間、男は迷わなかった。


 まず人を降ろす。

 馬を潰させない。

 荷は捨てる。

 正面を受ける。

 後ろを守らせる。

 怪我人を任せる。


 全部が早かった。


 ただ強い剣士、というだけではなかった。


「そっちは?」


 男が聞いた。


 良樹は少しだけ間を置いてから答えた。


「上村良樹だ」

「助かった」

「あんたが居なけりゃ危なかった」


 男は目を丸くした。


「おう」


 それから、少し嬉しそうに笑う。


「そう真っ直ぐ礼を言われると、おっさん照れるな」


「茶化すな」

「事実だ」


「ははっ」

「ますます照れるじゃねえか」


 男は剣を鞘へ戻した。


「グレンだ」


「グレン」


「ああ」

「ただの旅の剣士、グレン」

「まあ、見れば分かるやつだ」


 また笑う。


 良樹は、その笑い方を見て、少しだけ肩の力を抜いた。


 悪い男には見えなかった。


 少なくとも、今ここで荷馬車を助け、子供を守り、手柄を取ろうともしない男だった。


 グレンは御者の方へ歩いた。


「腕は?」


 クラリスが答える。


「骨は無事です」

「ただ、強く捻っています」

「しばらく無理はしない方がよいかと」


「だとよ」

「今日はゆっくり帰れ」


 御者は何度も頭を下げた。


「ありがとうございます」

「本当に、助かりました」


「礼ならこっちの兄ちゃんたちにも言っとけ」

「俺は途中から混ざっただけだ」


 グレンはそう言って、荷台の少年の前にしゃがんだ。


 少年はまだ泣いていた。


「怖かったな」


 グレンは乱暴ではあるが、不思議と優しい手つきで少年の頭を撫でた。


「けど、よく声を出した」

「助けを呼べる奴は強いんだぞ」


 少年は頬に涙の跡を残したまま、ぱっと顔を輝かせ、グレンへ満面の笑みを返した。


挿絵(By みてみん)


 良樹はその様子を見ていた。


 演技には見えなかった。

 少なくとも、今ここでこの男は、本当に人を助けている。


 商人が荷台の崩れた荷を見て、青い顔をしていた。


「あ、あの、荷が……」


「命がありゃ、荷はまた積める」


 グレンは軽く言った。


「死んじまったら、空の荷台も引けねえよ」


 商人は、はっとしたように口を閉じた。


 良樹は短く頷く。


「その通りだ」


 グレンは良樹を見て、にやりと笑った。


「話が分かるじゃねえか」


「荷は最後だ」

「人と馬が先」


「いいねえ」

「若いのに、ちゃんと見てる」


「若い若い言うな」


「おっさんから見りゃ若いんだよ」


 リシアが馬を落ち着かせ終えて戻ってきた。


 グレンはリシアを見る。


「魔法の嬢ちゃんも、よく馬を巻き込まなかったな」

「あの位置で撃つと、普通は焦って足元ごと吹っ飛ばす」


「私は、そんな雑な撃ち方はしないわ」


「おう」

「いい返事だ」


 リシアは少しだけ眉を上げた。


 嫌味ではない。

 本当に楽しそうに言っている。


 次にグレンはカレンを見た。


「そこの剣士の嬢ちゃん」


「は、はい」


「荷台の後ろを見てたな」

「いい目だ」

「前に出たい場面で後ろを見られる奴は、案外少ねえ」


 カレンは少し驚いたように目を見開いた。


「……ありがとうございます」


「褒められ慣れてねえ顔だな」


「えっ」


「ははっ、悪い悪い」

「今のは余計だった」


 グレンは軽く手を振った。


 最後にクラリスを見る。


「白い嬢ちゃんは、治療役かと思ったが」

「足運びが妙に静かだな」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「護身術です」


「はっはっは」

「そうかい」

「世の中、便利な護身術もあるもんだ」


 良樹は横からぼそりと言った。


「護身の出力じゃねえんだよ」


「何か知ってる顔だな、良樹」


「いろいろあった」


「そりゃ結構」


 グレンはまた笑った。


「若い連中にいろいろあるのは、いいことだ」

「何もねえより、よっぽどいい」


 その言葉は軽かった。


 だが、妙に懐が深かった。


   ◇


 荷馬車は、しばらく休ませることになった。


 馬を落ち着かせ、荷を積み直し、御者の腕をクラリスが簡単に処置する。

 壊れた木箱は、良樹が応急で縛った。


「本当に何でもやるな、お前さん」


 グレンが横から覗き込む。


「何でもじゃねえ」

「できることだけだ」


「そのできることが多いんだよ」


「紐で縛ってるだけだろ」


「その“だけ”を、ちゃんとやれる奴は案外少ねえ」


 良樹は木箱を固定しながら、グレンを見た。


「グレンはどこまで行くんだ」


「んー」


 グレンは空を見る。


「決めてねえな」


「決めてない?」


「ああ」

「旅ってのは、決めすぎるとつまらねえ」

「飯がうまそうな方へ行く」

「酒が飲めそうな方へ行く」

「困ってる奴がいりゃ、少し寄り道する」

「まあ、そんなもんだ」


「適当だな」


「適当なくらいでちょうどいいんだよ」

「真面目すぎると、人生は肩が凝る」


 良樹は少しだけ黙った。


 その言葉は軽い。

 軽いはずなのに、どこか実感があった。


「良樹」


「何だ」


「お前さんは、真面目そうだな」


「そうでもねえ」


「真面目な奴ほど、そう言う」


「さっき会ったばかりで分かったようなこと言うな」


「はっはっは」

「悪い悪い」

「おっさんは若い奴を見ると、つい余計なことを言いたくなるんだ」


「ガレスみたいなこと言いやがる」


「誰だそりゃ」


「知り合いの頼れるおっさんだ」


「そいつはいい」

「頼れるおっさんは、多い方がいいからな」


 グレンはそう言って、軽く手を振った。


 荷馬車の準備が整った。


 道は途中で分かれている。

 荷馬車は街へ戻る。

 グレンは別の道へ向かうらしい。


「じゃあな、良樹」

「英雄じゃない兄ちゃん」


「英雄じゃねえ」


「分かってる分かってる」


 グレンは笑いながら、街道の分かれ道へ歩いていった。


 その背中を、良樹たちは見送った。


 リシアが小さく呟く。


「変な人だったわね」


 カレンも頷いた。


「でも……悪い人では、なさそうでした」


 クラリスは少しだけ考えてから言った。


「強い方でした」

「それに、人を助けることに慣れている方でした」


 良樹は短く頷いた。


「ああ」

「頼れるおっさん、ってやつだな」


 そう言って、良樹は荷馬車の方へ戻った。


   ◇


 街へ戻った時、良樹は最初に違和感を覚えた。


 門番の声が、いつもより低い。


 通りの人間も、どこか足早だった。


 祭りでもない。

 騒ぎでもない。

 だが、街全体が何かを飲み込んだように静かだった。


「……何かあったな」


 良樹が呟く。


 リシアが、そっと杖を握り直した。

 カレンは通りの奥を見た。

 クラリスは、良樹の横顔を見ていた。


 荷馬車をギルド前で止める。


 御者と商人が礼を言おうとしたが、良樹は片手で制した。


「報告は後だ」

「先に確認する」


 ギルドの扉が開いた。


 ガレスが立っていた。


 いつもの雑な笑みはなかった。


「良樹」


 その声は、低かった。


 ただ低いだけではない。


 何かを押し殺した声だった。


 良樹の胸の奥が、冷えた。


「何があった」


 ガレスは一度だけ目を伏せた。


「落ち着いて聞け」


 良樹は何も言わなかった。


 リシアが息を呑む。

 カレンが胸元で手を握る。

 クラリスが、良樹のすぐ横へ一歩寄った。


 ガレスは、静かに言った。


「藤田の爺さんが、亡くなった」


 音が、消えた。


 さっきまで荷馬車の車輪の音が耳に残っていた。

 馬の息も。

 少年の泣き声も。

 グレンの笑い声も。

 街道の風も。


 全部が、遠くなった。


 藤田。


 爺さん。


 英雄だった男。

 良樹に問いを投げた男。

 自分の隣に立てと言った男。

 この世界を頼んだぞ、と言った男。


 やります。

 やれます。

 やってみせます。


 そう書いた相手。


 その男が。


「……そうか」


 良樹の声は、自分のものではないように聞こえた。


 ガレスは、荷馬車の方をちらりと見た。


「護衛の報告は後でいい」

「今は、こっちだ」


 良樹は頷いた。


 頷いたつもりだった。


 実際に首が動いたかどうかは、分からなかった。


 リシアが良樹の腕にそっと触れた。


「良樹」


 カレンが震える声で呼ぶ。


「良樹さん……」


 クラリスが静かに言った。


「良樹くん」

「座りましょう」


 良樹は、少しだけ目を閉じた。


 さっきまで、旅の剣士グレンのことを考えていた。


 ただの旅の剣士。

 頼れるおっさん。

 荷馬車を助けてくれた男。


 だが、そのことはもう頭から消えていた。


 今はただ。


 藤田の爺さんが死んだ。


 その事実だけが、胸の奥に落ちていた。

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