第102話 聞こえてしまった声
ロブが街へ来た。
それは、良樹が連れてきたわけではなかった。
リシアが説得したわけでも、カレンが頭を下げたわけでも、クラリスが施療院経由で頼んだわけでもない。
ガレスが呼んだ。
ギルドの奥部屋で、良樹はその話を聞いた時、少しだけ顔をしかめた。
「ロブを、街に?」
「ああ」
ガレスはいつものように椅子へ雑に腰を下ろしていた。
だが、声は軽くない。
「あいつは、お前が天才とまで言った男だ」
「なら、一度街へ来て、見てほしい」
「天才とまで言った覚えは――」
良樹は言いかけて、止まった。
言った。
たぶん言った。
魔石通信を説明した時、ロブはあれを「鳴き声みてえなもん」と受け取った。
そして、危険時に細かい合図は駄目だと、こちらが説明する前に見抜いた。
あの理解力は、ただ耳が良いだけではなかった。
「……言ったな」
「だろ」
ガレスは、にやりとも笑わなかった。
「亜人集落で学ぶか」
「街でやってみるか」
「それを決めるのは、あいつでいい」
「ただ、判断材料は出してやりてえ」
「強制はしないんだな」
「するかよ」
「この件で一番やっちゃいけねえのは、街側が勝手に決めることだろ」
良樹は黙った。
そうだった。
人間化魔石の一件は、誰かが勝手に善いものだと決めた。
差し出した。
使った。
広めようとした。
そして、後が残った。
ロブにまで同じことをしてはならない。
ガレスは腕を組んだ。
「だから、ラブコールだ」
「言い方」
「人材勧誘なんざ、大体重いんだよ」
「それは否定しねえが」
良樹は息を吐いた。
「分かった」
「ロブが来るなら、俺も見る」
「頼む」
「お前が最初に拾ったんだ」
「面倒見ろ」
「拾った犬猫みたいに言うな」
「違うのか?」
「違う」
良樹は即答した。
「ロブは人だ」
「それも、自分で考える奴だ」
ガレスは、そこで少しだけ口元を緩めた。
「なら、なおさらだ」
「道だけ出す」
「歩くかどうかは、あいつに決めさせる」
◇
ロブは、不機嫌そうな顔で街へ来た。
兎系亜人の耳は、いつもより少し伏せ気味だった。
ロブの服装は集落にいた時と大きくは変わらない。
動きやすい粗い服。
薄い外套。
腰には小さな袋。
だが、その顔には明らかに疲れが出ていた。
「……うるせえ街だな」
第一声がそれだった。
良樹は苦笑した。
「耳が良いと大変だな」
「他人事みてえに言うな」
「他人事じゃねえよ」
「だから見に来たんだろ」
ロブは舌打ちした。
街には音があった。
荷車の車輪。
露店の呼び声。
鍛冶場の金属音。
人の足音。
子供の笑い声。
どこかで鳴る魔石。
魔導空調服の小さな羽音。
革袋の擦れる音。
金具が触れ合う音。
良樹たちには雑多な街の音でも、ロブには一つ一つが別々に刺さっているらしい。
リシアが少しだけ目を細めた。
「私たちには、そこまで分からないわね」
「分からなくていい」
「こんなの全部聞こえてたら、頭がおかしくなる」
「今、おかしくなっていないのなら、相当すごいと思います」
カレンが小さく言った。
ロブはカレンを見て、少しだけ耳を動かした。
「褒めるな」
「気持ち悪い」
「す、すみません」
「謝るな」
「余計気持ち悪い」
カレンが困った顔になる。
クラリスは柔らかく微笑んで、ロブの耳を見た。
「かなり疲れているようですね」
「水を飲みますか?」
「いらねえ」
「では、後で置いておきます」
「いらねえって言っただろ」
「後で、です」
ロブは何か言い返そうとして、やめた。
良樹はそれを見て、少しだけ肩をすくめる。
「今日は、無理に何か決めなくていい」
「見て、聞いて、合わねえと思ったら帰ればいい」
「偉そうに」
「師匠面されるよりマシだろ」
ロブは一瞬黙った。
「……それはそうだな」
そこで、良樹はギルドの裏手にある訓練場へ視線を向けた。
「ちょうどいい」
「今日はアルフに教えることがある」
「見たいなら見ていけ」
「俺に聞かせる話か?」
「聞くかどうかはお前が決めろ」
「ただ、止め方の話だ」
ロブの耳が、ぴくりと動いた。
「止め方?」
「ああ」
「動かす前に、止め方を見る話だ」
◇
ギルド裏手の訓練場。
良樹は、地面に膝をついて炭筆を持っていた。
その前にはアルフがいる。
アルフは背筋を伸ばして座っていた。
顔には緊張がある。
けれど、逃げる気配はなかった。
少し離れたところに、ロブが腕を組んで立っている。
そのさらに後ろ。
リシア、カレン、クラリスの三人は、そっと様子を見ていた。
良樹が炭筆で地面に線を引く。
アルフが必死にそれを追う。
ロブは不機嫌そうに見えて、耳だけが時々小さく動く。
リシアは、しばらく黙っていた。
良樹の声は、いつもより低い。
怒鳴ってはいない。
だが、軽くもない。
あれは、良樹が本気で誰かに技術を渡している時の声だった。
カレンもそれを感じていた。
良樹が、師匠の顔をしている。
アルフは怖がりながらも逃げていない。
ロブは不機嫌そうに見えて、ちゃんと聞いている。
クラリスは、二人の表情を見ていた。
アルフの唇は少し硬い。
けれど、下は向いていない。
ロブの耳は、興味のない者の動きではなかった。
リシアは、小さく息を吐いた。
「……これは、私たちが入るところじゃないわね」
カレンが頷いた。
「はい」
「良樹さんも、アルフも、ロブも……真剣です」
クラリスは柔らかく微笑んだ。
「では、私たちは私たちにできることをしましょうか」
リシアが振り返る。
「お昼ご飯ね」
カレンの顔が、少しだけ明るくなった。
「はい」
「考えた後は、お腹が空くと思います」
「良樹くんも、放っておくと昼食を後回しにしますから」
「でしょうね」
リシアは苦笑した。
「じゃあ、終わる場所を用意しましょう」
三人は、そっとその場を離れた。
良樹は気づいていたかもしれない。
けれど、振り返らなかった。
今は、良樹が師匠として立つ時間だった。
◇
「アルフ」
良樹は地面に一本の線を引いた。
「まずは止め方の基本だ」
「これは俺の魔導盤では、リレーシーケンスと呼ばれてる概念だ」
「りれーしーけんす?」
アルフが聞き慣れない言葉をそのまま繰り返す。
「ああ」
「名前は今、覚えなくていい」
「考え方を覚えろ」
良樹は地面に簡単な図を描いた。
左に小さな印。
そこから線を伸ばし、右に丸を描く。
「このスイッチを押せば、魔力石に魔力が流れる」
「これは分かるか」
「はい」
「それくらいなら」
「よし」
良樹は頷く。
「ただ、これだとスイッチを押してる間しか、魔力石に魔力は流れねえ」
アルフは図を見つめた。
「……そうなると思います」
「それだと不便だ」
「だから、こうする」
良樹は魔力石から伸びる線をもう一本書き足した。
「魔力石に魔力が流れたら、魔力石自身にスイッチを押させる」
「これが自己保持だ」
アルフは瞬きをした。
「自分で、自分を動かし続ける……」
「ああ」
「一度動けば、押し続けなくても動く」
「便利だ」
良樹はそこで、アルフを見た。
「だが、これは危ねえ」
「なんでか分かるか」
アルフは少し考えた。
線を追う。
スイッチ。
魔力石。
自分自身を動かし続ける流れ。
そして、顔を上げた。
「……止める方法がありません」
「そうだ」
良樹の声が少し低くなる。
「止める方法がねえのが、一番良くねえ」
「だから、ここに止めるスイッチを噛ませる」
良樹は自己保持の流れを切る位置に、もう一つ印を付けた。
アルフは、その印を見た。
「……そのスイッチを押すと」
「魔力石への魔力の流れそのものが止まります」
「よし」
「それでいい」
「これが基本中の基本だ」
ロブも、それを聞いていた。
難しい名前は分からない。
リレーシーケンスだの、自己保持だの、良樹の言葉はいちいち馴染みがない。
だが、言っていることは分かる。
一度動いたものが、勝手に動き続ける。
それは便利だ。
けれど、止める手段がなければ危ない。
罠でも同じだ。
一度仕掛けたら、誰が近づいても噛みつく罠など、危なくて使えない。
獲物にだけ動き、仲間が触れた時には止まる仕掛けでなければ、森では使えない。
なるほどな、とロブは思った。
確かにこれは、良樹の考え方の基本になっている。
「だが」
良樹は、回路図から目を上げた。
「これでも、まだ足りねえ」
「――え?」
アルフが顔を上げる。
「スイッチを押したら止まるんですよね、師匠」
ロブは、横で耳を動かした。
そうだ。
そのままだと、まだ危ない。
多分――。
「じゃあ聞く」
良樹は言った。
「止めるスイッチが壊れてたら、どうなる」
アルフは息を呑んだ。
そんなことまで考えるのか。
止めるためのスイッチを付けた。
それで終わりではないのか。
そのスイッチが壊れることまで、師匠は当たり前のように考えるのか。
その瞬間、アルフは亜人集落で良樹に叱られた時のことを思い出した。
後を見ろ。
戻し方を見ろ。
使った後に何が残るかを見ろ。
あの時は、痛かった。
胸の奥を掴まれたようだった。
けれど、今なら少し分かる。
こんなことまで当たり前に考える人が、あの時の僕を叱らないはずがなかった。
僕は、そこを見ていなかった。
止め方を見ていなかった。
戻し方を作っていなかった。
壊れた時に、どう見るかを決めていなかった。
叱られて当然だった。
アルフは、下を向きかけた。
けれど、向かなかった。
今、下を向くためにここにいるのではない。
「どうすればいいんですか、師匠」
良樹は、わずかに目を細めた。
「……止めるスイッチの故障を見る」
「具体的には、二重化と、戻り信号を見る」
「二重化……」
「ああ」
良樹は地面に描いた回路図の横へ、もう一本線を書き足した。
「二重化は、簡単に言えば、止める回路を二つにすることだ」
「もし片方が壊れても、もう片方で止められる」
アルフは、図を見つめたまま頷いた。
「はい……それは分かります」
少しだけ、アルフの目に光が戻った。
「なら、もっと数を増やせば、より安全になるっていうことですね」
良樹は、すぐには否定しなかった。
「理屈ではそうだ」
アルフの顔が明るくなりかける。
だが、良樹は続けた。
「ただ、増やせば増やすほど、魔法でも回路でも複雑になりすぎる」
「それも良くねえ」
「実用性が落ちる」
「……はい」
アルフの肩が、少しだけ落ちた。
また浅かった。
そう思ったのだろう。
だが、良樹は地面の図から目を離さずに言った。
「考え方は間違いじゃねえ」
「気にすんな」
アルフは、はっと顔を上げた。
良樹は、さらに別の線を描き込む。
「だから、数を増やす代わりに――戻り線を見る」
「戻り線……」
「別の回路に、“止めるスイッチが押されていない時”の魔力の流れを見させる」
「正常なら、こう返ってくる」
「だが、線が切れていたり、接点がくっついていたり、戻るべきものが戻っていなければ、そこで故障として見る」
アルフは、図を見た。
止める回路。
二つの停止経路。
それとは別に描かれた戻り線。
押した時。
押していない時。
流れる時。
流れない時。
戻るべきもの。
戻ってこない時。
しばらく、アルフは黙っていた。
そして、正直に言った。
「……すみません、師匠」
「分からないです」
良樹は頷いた。
「今は、そういう考え方があることを知るだけで構わねえ」
「この話はかなり難しいからな」
それは慰めではなかった。
良樹自身、このSafetyの考え方を理解するまでに、かなり時間が掛かった。
止める。
壊れにくくする。
壊れたら止まる。
壊れたことを見る。
壊れたまま次を動かさない。
言葉にすれば短い。
だが、それを実際の回路に落とし込み、現場で使える形にし、過剰にも不足にもならないよう考えるのは、簡単なことではなかった。
アルフは、もう一度、地面の図を見た。
完全には分からない。
線の意味も、戻り信号の意味も、まだ頭の中で繋がりきっていない。
けれど。
「でも」
アルフは、小さく言った。
「何が分からないのかは、分かりました」
良樹の目が、少しだけ細くなった。
「それでいい」
アルフは顔を上げた。
良樹は、地面の図を指で叩く。
「半端に分かったフリはするな」
「分からないことが分からねえと、何をするべきなのか決められねえからな」
「はい」
「分かったフリは、しません」
「よし」
良樹は炭筆をしまった。
「今日の授業はここまでだ」
◇
授業が終わっても、ロブはしばらく地面の図を見ていた。
自己保持。
停止スイッチ。
二重化。
戻り線。
名前は分からない。
だが、考え方は耳に残っている。
「さっきの話」
ロブが言った。
良樹は顔を上げる。
「どれだ」
「二本で止めるってやつと、戻り線ってやつだ」
「ああ」
「二本の縄で止めるのは分かる」
「片方が切れても、もう片方で止めるってことだろ」
「ああ」
ロブは少しだけ耳を動かした。
「でも、戻り線ってのは」
「縄を引いたかを見るんじゃなくて」
「止めた後、罠の爪が本当に開いたかを見るってことか」
良樹は動きを止めた。
ロブは続ける。
「爪が戻った時だけ鳴る鈴を付ける」
「鈴が鳴らなきゃ、爪は戻ってねえ」
「なら、罠はまだ生きてる」
「そう判断して、次に使わせない」
良樹は、数秒だけロブを見た。
「――そういうことだ」
隠せなかった。
こいつは、やっぱり凄え。
リレーシーケンスも知らない。
自己保持も知らない。
Safety Categoryも知らない。
それでも、ロブは良樹の説明の芯を、自分の知っている森の罠に置き換えて掴んだ。
耳が良いだけではない。
聞いたものを分ける。
意味を抜く。
抜いた意味を、別の具体へ置き換える。
抽象と具体の往復が異常に速い。
「お前、やっぱり凄えな」
良樹が言うと、ロブは露骨に顔をしかめた。
「何がだよ」
「今ので分かる奴は、そういねえ」
「俺の知ってるもんに置き換えただけだ」
「それができる奴は、そんなにいねえんだよ」
「……そういう褒め方、気持ち悪いな」
「褒めてねえ」
「評価だ」
「もっと気持ち悪い」
その時、リシアの声が飛んだ。
「そこまで」
「続きは食べてからにしなさい」
良樹が振り返る。
「いや、まだ――」
「まだ、じゃないわ」
リシアは鍋を持ったまま言った。
「考える頭にも燃料は要るの」
「あなた、自分でそれを忘れるんだから」
カレンが皿を置きながら、小さく笑った。
「アルフも、ロブも、食べてください」
「難しい話の後は、たぶん疲れていると思います」
「俺までかよ」
ロブが顔をしかめる。
クラリスが水を置いた。
「はい」
「聞いているだけでも、かなり疲れる内容でしたから」
「……余計なお世話だ」
「余計でも、水は置いておきますね」
ロブは何も言い返せず、置かれた水を見る。
良樹は少しだけ笑った。
「助かる」
「助けてるのよ」
「だから座りなさい、師匠さん」
「その呼び方はやめろ」
アルフが、小さく笑いかけて、すぐに口を押さえた。
ロブがそれを見る。
「笑っていいぞ」
「今のは少し間抜けだった」
「おい」
良樹が低く言う。
リシアが肩をすくめた。
「事実確認よ」
「俺の台詞を取るな」
昼食は、簡単なものだった。
肉と野菜を煮込んだもの。
焼いたパン。
水。
少しの果物。
けれど、温かかった。
アルフとロブは、同じ卓についた。
近くはない。
向かいでもない。
けれど、同じ鍋の飯を食べている。
それだけのことが、アルフには妙に重かった。
ロブはアルフを許していない。
アルフも、許されるつもりでここにいるわけではない。
けれど、逃げなかった。
席を外さなかった。
リシアたちは、それをことさら言葉にはしなかった。
ただ、温かいものをよそった。
水を置いた。
パンを分けた。
それだけだった。
◇
昼食の後、良樹たちはロブを街へ案内した。
目的は、ロブが街で学ぶかどうかを判断するためだ。
ギルドの表口。
依頼板。
受付。
倉庫。
施療院への連絡経路。
市場。
荷置き場。
工房通り。
魔導空調服を着た作業員たち。
ロブは、ずっと耳を伏せ気味だった。
「……やっぱりうるせえ」
「だろうな」
良樹は頷く。
「荷車の音」
「露店の声」
「金具の擦れる音」
「魔石の鳴り」
「空調服の羽音」
「全部混ざってやがる」
リシアは市場を見回した。
「私たちには、ただ賑やかな街にしか聞こえないわね」
「羨ましいな」
ロブがぼそりと言う。
カレンは、少し心配そうにロブを見た。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃねえって言ったら帰してくれるのか」
「えっと……」
「無理に返すつもりはねえよ」
良樹が言った。
「ただ、見て判断しろ」
「ここでやれるか」
「ここで学ぶ意味があるか」
「それはお前が決めることだ」
ロブは何も言わなかった。
ただ、聞いていた。
街の音を。
人の声を。
必要な音と、捨てる音を、無意識に分け始めていた。
その時だった。
市場の向こうで、声が乱れた。
「――おい」
最初に反応したのはロブだった。
続いて、良樹。
リシア。
カレン。
クラリス。
ノーラの声だった。
いつもの豪快な声ではない。
人を叱り飛ばす声でもない。
笑い飛ばす声でもない。
名前を呼ぶ声だった。
短く。
何度も。
少しずつ、崩れていく声だった。
ケーンの顔からも、いつもの笑みが消えていた。
「カイルがいない」
誰かが言った。
市場の端。
荷車の列。
木箱。
布のかかった露店。
人の流れ。
ほんの少し目を離した。
その一瞬で、ケーンとノーラの息子、カイルの姿が消えたらしい。
良樹はすぐに動いた。
「リシア、周囲の魔力の流れ」
「カレン、怖がった子供が入りそうな場所」
「クラリス、怪我しそうな場所と落ちそうな場所」
「俺はスキャナーを見る」
「ええ」
「はい」
「分かりました」
良樹は魔導スキャナーを展開した。
半透明の盤が胸元に浮かぶ。
距離を拾うための光が、街中へ走る。
だが、返りが荒い。
木箱。
石壁。
荷車の金具。
市場に置かれた魔石。
魔導空調服の羽音。
人の密集。
動く影。
「……拾えねえ」
良樹の声が低くなった。
「くそ」
スキャナーが使えないわけではない。
だが、使う場所が違う。
街中では返りが多すぎる。
これは道具の問題でもあり、運用の問題でもある。
リシアは魔力の流れを見る。
カレンは、子供が怖がって入り込みそうな場所を見る。
クラリスは、落ちたら怪我をしそうな場所、動けなくなりそうな場所を見る。
それでも、見つからない。
ノーラの声が、また響いた。
名前を呼ぶ声。
さっきより少し、震えていた。
ロブは、耳を伏せた。
うるさい。
名前を呼ぶ声。
走る足音。
荷車の軋み。
露店の布が風に鳴る音。
魔導空調服の羽音。
誰かが転ぶ音。
誰かが泣き出す音。
全部が混ざる。
その中で。
ひっ、と。
小さく息が詰まる音がした。
泣き声ではない。
助けを呼ぶ声でもない。
木が擦れる音。
布が引っかかる音。
小さな爪が、硬いものを掻く音。
怖くて、声を出せない子供の音。
ロブの耳が動いた。
方向は、皆が探している表通りではない。
古い荷置き場の裏。
壊れた木箱と壁の間。
昔の排水溝へ続くような細い隙間の方。
ロブは一瞬、誰かに知らせるか考えた。
だが、説明している時間が惜しい。
子供が動けば、もっと奥に落ちるかもしれない。
人間の子供だ。
人間の街で。
人間の親が探している。
けれど、子供に罪はない。
聞こえてしまった。
なら、放っておけない。
「……くそ」
ロブは一人で走った。
◇
古い荷置き場の裏は、普通なら人が入らない場所だった。
壊れた木箱。
壁との細い隙間。
捨てられた板。
湿った土。
奥に、古い排水溝のような空洞がある。
ロブはしゃがみ込み、耳を寄せた。
息が聞こえる。
震えが聞こえる。
布が擦れる音が聞こえる。
「おい」
返事はない。
「聞こえてる」
「そこにいるな」
奥で、小さく息を呑む音がした。
「動くな」
「動いたら、もっと挟まる」
しばらくして、細い声がした。
「……だれ?」
ロブは、一瞬だけ口を閉じた。
頼まれて来た、とは言わなかった。
頼まれていない。
それに、今の子供に必要なのは、自分が誰に頼まれたかではない。
外に、心配している親がいることだ。
「お前の父ちゃんと母ちゃんが心配してる」
「だから探しに来た」
奥で、息が震えた。
「……おかあ、さん」
「ああ」
「だから動くな」
「今、出してやる」
ロブは木箱を動かした。
引っかかった布を外した。
爪を立て、板をずらす。
指先に木片が刺さる。
服が汚れる。
膝が土に沈む。
それでも、子供の腕が見えた。
「掴め」
小さな手が、震えながらロブの手を掴んだ。
「痛かったら言え」
「怖くても動くな」
ロブは、ゆっくり引き出した。
子供の身体が、隙間から出てくる。
服は汚れていた。
頬に擦り傷がある。
だが、大きな怪我はなさそうだった。
カイルは、出てきた瞬間、ロブにしがみついた。
泣いた。
今度は、声を出して泣いた。
ロブは困った顔をした。
「……泣けるなら、最初から泣けよ」
けれど、その手はカイルを突き放さなかった。
◇
ロブがカイルを連れて戻った時、最初に反応したのはノーラだった。
言葉にならない声を出して、カイルを抱きしめる。
ケーンも駆け寄った。
顔から血の気が引いていた。
「大丈夫か」
「痛いところは」
「息はできるか」
カイルは泣きながら、ノーラにしがみついた。
「ロブお兄ちゃんが」
「ロブお兄ちゃんが助けてくれた」
クラリスがすぐに膝をついた。
「少し診ますね」
カイルの呼吸。
目。
頬の傷。
腕。
足。
クラリスは静かに確認し、柔らかく言った。
「大きな怪我はありません」
「擦り傷と、少し怖がっているだけです」
「今日は叱るより、まず安心させてあげてください」
ノーラはカイルを抱きしめたまま頷いた。
「……ああ」
「分かってる」
「分かってるよ」
リシアは、カイルが挟まっていた方を見る。
「あとで、あの荷置き場は閉じましょう」
「子供が入れる隙間があるのは危ないわ」
良樹も頷いた。
「ああ」
「街側の不安全箇所だ」
「これは直す」
カレンは、少し青い顔で荷置き場を見ていた。
「あそこ」
「怖くて、怒られたくなくて、奥に隠れようとしたら……出られなくなる場所です」
「そうだな」
良樹は短く答えた。
「呼べる奴だけを前提にしたら駄目だ」
「怖い時に声を出せねえこともある」
「それも見る」
ノーラは、カイルを抱きしめたまま、深く息を吐いた。
いつもの豪快な笑い声は、まだ戻っていない。
けれど、黙っている女でもなかった。
「……ったく」
ノーラは、涙の残る目でロブを見た。
「あんた、やるじゃないか」
「耳が良いだけの生意気な兄ちゃんかと思ったら、とんでもないもん拾ってくるね」
ロブは、少しだけ眉を寄せた。
「……褒めてんのか、それ」
「礼を言ってんだよ」
「下手くそで悪かったね」
ノーラはカイルの頭を撫でながら、もう一度ロブを見る。
「助かった」
「本当に、助かったよ」
その声は、さっきより少しだけ震えていた。
ケーンもロブへ向き直った。
「耳が良いってのはすげえもんだな」
「誰かの助けを求める声まで余さず拾える」
「俺たちじゃ絶対に見つけれ無かった」
ケーンは深く頭を下げた。
「……ありがとう」
ロブは、少しだけ目を逸らした。
「……別に」
「聞こえただけだ」
良樹が言った。
「聞こえただけで動ける奴は、そう多くねえよ」
「うるせえ」
「褒めるな」
「褒めてねえ」
「事実確認だ」
「余計うぜえ」
ロブは悪態をついた。
その時、ノーラの腕の中にいたカイルが、顔を上げた。
まだ目元は赤い。
頬には擦り傷があり、服も土で汚れている。
それでも、カイルはロブを見ていた。
「ありがとう、兎のお兄ちゃん!」
ロブの耳が、ぴくりと動いた。
「……兎のお兄ちゃん?」
「うん!」
カイルは、泣いた後の顔のまま、まっすぐロブを見る。
「僕も大きくなったら、お兄ちゃんみたいな大きな耳になれるかな?」
ロブは、一瞬、言葉を失った。
「……なれるかよ」
「お前は人間だろ」
「だって、兎のお兄ちゃんの耳、かっこよかったから」
「僕はなれない?」
ロブは、何かを言おうとして、止まった。
小さい頃のリナを思い出した。
自分の後ろをついて回っていた、小さな妹。
まだ、自分の耳も、尻尾も、顔の毛も、嫌いではなかった頃のリナ。
兄ちゃんの耳、すごいね。
そんなふうに、笑っていた頃のリナ。
ロブは、少しだけ視線を落とした。
胸の奥に、痛みが走る。
だが、それは怒りではなかった。
「……じゃあ、その前に」
ロブは、カイルを見る。
「父ちゃんと母ちゃんの言うことを」
「今の耳で、ちゃんと聞かねえとな」
カイルは瞬きをした。
「今の耳で?」
「ああ」
「お前にはお前の耳がある」
「それで聞け」
「もう迷子になるんじゃねえぞ」
カイルは、少しだけ口を結んだ。
それから、大きく頷いた。
「うん!」
ノーラはカイルを抱きしめ直しながら、ふっと笑った。
「聞いたかい、カイル」
「兎のお兄ちゃんに怒られちまったね」
「怒ってねえ」
ロブが即座に返す。
ノーラは、ようやく少しだけいつもの調子を取り戻した顔で言った。
「そうかい」
「じゃあ、ありがたい説教ってことにしとくよ」
「勝手にしろ」
ロブは顔を背けた。
けれど、その耳は、さっきより少しだけ落ち着いていた。
街に馴染んだわけではない。
人間を信用したわけでもない。
アルフを許したわけでもない。
けれど、一本だけ線が繋がった。
亜人の耳を、かっこいいと言った子供がいた。
それだけで、何かがすぐに変わるわけではない。
それでもロブは、その小さな声を、しばらく忘れられそうになかった。
◇
その後、ガレスがロブの前に立った。
子供救出の話は、もう耳に入っているらしい。
「ロブ」
「何だよ」
「来てみてどうだった」
ロブは、少しだけ顔をしかめた。
「……うるせえ街だ」
「だろうな」
「人も多い」
「音も多い」
「匂いも多い」
「正直、落ち着かねえ」
「で?」
ロブは少し黙った。
ケーンとノーラの息子は、まだ親にくっついている。
ケーンは何度もロブに礼を言った。
ノーラは、いつもの調子を少し取り戻しながらも、カイルの背を撫でていた。
「……でも」
ロブは、小さく言った。
「聞こえるもんは、ある」
ガレスは笑わなかった。
軽くも扱わなかった。
「なら、少し街で学んでみるか」
「まだ決めてねえ」
「ああ」
「見て判断しろって言ったからな」
「……教師は」
「用意する」
ガレスは答えた。
「お前を亜人だからって下に見るような奴は付けねえ」
「良樹が天才だって言った男を、雑に扱うほど俺は節穴じゃねえよ」
良樹は横で眉を寄せた。
「俺が言ったことになってるのか」
「言っただろ」
「言ったな」
「勝手に話を進めるな」
ロブが低く言う。
ガレスは肩をすくめた。
「進めちゃいねえ」
「道を出してるだけだ」
「歩くかどうかは、お前が決めろ」
ロブは返事をしなかった。
ただ、耳だけが少し動いた。
街は、まだうるさかった。
けれど、そのうるささの奥に、さっきまで聞こえなかった音が少しだけ混ざっている気がした。
◇
夕方。
良樹たちは拠点へ戻った。
長い一日だった。
アルフへの授業。
ロブの街入り。
Safetyの話。
戻り線。
罠の爪。
昼食。
街案内。
迷子。
救出。
ケーンの礼。
ガレスとの面通し。
ひとつひとつは別の出来事なのに、全部がどこかで繋がっている気がした。
良樹は作業場の椅子に腰を下ろした。
その瞬間、リシアが前に立った。
「お疲れさま」
良樹は顔を上げる。
カレンが隣に座り、クラリスが水を置いた。
「今日は、どうだったの?」
リシアが聞いた。
「どうって」
「アルフのことも、ロブのことも、街のことも」
「あなた、ずっと考えてたでしょ」
良樹は、少しだけ黙った。
「……そうだな」
「アルフは、叱られた理由を少し飲み込み始めた」
「あいつはまだ危なっかしい」
「でも、逃げてはいねえ」
三人は静かに聞いていた。
「ロブは……やっぱり凄え」
「耳だけじゃねえ」
「聞いたものを分けて、意味にして、自分の知ってるものへ置き換える」
「あれは伸びる」
リシアが小さく笑う。
「嬉しそうね」
「嬉しいというか」
「怖いくらいだな」
カレンが首を傾げる。
「怖い、ですか?」
「ああ」
「才能がある奴は、伸ばし方を間違えると壊れる」
「雑に扱えば潰れる」
「持ち上げすぎても歪む」
「放っておいても、勝手に危ないところまで行く」
クラリスが柔らかく言った。
「良樹くん自身のようですね」
「……否定しにくいことを言うな」
「だから、疲れたのね」
リシアは少しだけ身を乗り出した。
「じゃあ、今日はここまで」
「何がだ」
「師匠も、技術屋も、英雄の後継も、今日は終わり」
カレンが、良樹の袖をそっと掴む。
「今日は、私たちの夫に戻ってください」
クラリスは、良樹の反対側へ回って、柔らかく微笑んだ。
「お疲れでしょうから」
「今日は、私たちに甘えさせてあげます」
良樹は数秒だけ固まった。
「……日本語、いや、こっちの言葉としても何かおかしくねえか」
「俺が甘えるんじゃないのか」
「はい」
「ですから、私たちが甘えます」
「だからおかしいだろ」
リシアが良樹の肩に手を置く。
「細かいことはいいの」
「疲れた男には、好きな女がくっつくのが効くのよ」
「それ、俺を休ませる気あるか?」
カレンは真っ赤になりながら、けれど袖を離さなかった。
「あります」
「たぶん……あります」
「たぶんって言ったな」
「あります」
「言い直した」
クラリスが、良樹の背後からそっと両肩に手を置いた。
「医学的にも、たぶん効果があります」
「たぶんで医学を名乗るな」
リシアは笑った。
「今日はあなた、ずっと人の後を見ていたでしょ」
「アルフの後」
「ロブの先」
「街の危ない場所」
「ガレスの考え」
「全部見ていた」
リシアの指が、良樹の肩を軽く押す。
「だから今は、私たちだけ見ていなさい」
カレンは小さく頷いた。
「良樹さんが疲れている時に」
「ちゃんと隣にいる練習です」
「だから、これは……私たちの役目です」
クラリスは良樹の耳元で、少しだけ楽しそうに言った。
「疲れた良樹くんを休ませるために、抱きつきます」
「結論が全部そっちに行くな」
良樹は、三人を見た。
リシア。
カレン。
クラリス。
今日一日、いろいろなものを見た。
止め方を学ぶ弟子。
街へ来た兎の亜人。
助けられた子供。
頭を下げる父親。
道を出すギルド長。
どれも大事だった。
どれも、見なければならないものだった。
けれど。
帰る場所は、ここだった。
「……分かった」
「今日は、甘やかされることにする」
リシアが満足そうに頷いた。
「よろしい」
カレンが少しだけ笑う。
「はい」
クラリスも微笑む。
「では、まず座ってください」
「まず?」
「はい」
「まず、です」
良樹は、少しだけ嫌な予感を覚えた。
だが、逃げる気にはならなかった。
三人が左右と背後から寄ってくる。
温度が近い。
声が近い。
柔らかい気配が、疲れた頭の中に入ってくる。
今日、いくつもの線を見た。
止める線。
戻る線。
繋ぐ線。
その最後に、良樹は三人の腕の中へ戻った。
「……これ、俺が甘えてるのか?」
「甘えてるわよ」
リシアが即答した。
「甘えています」
カレンも真面目に頷く。
「完全に甘えています」
クラリスも清楚に言い切った。
「三人が俺にくっついてるようにしか見えねえんだが」
「疲れて判断力が落ちてるのね」
「休ませましょう」
「はい。もっと、くっついた方がいいと思います」
「だから結論が全部そっちに行くな」
良樹の抗議は、三人の笑い声に飲まれた。
その声は、今日聞いたどの音よりも近く、柔らかかった。




