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第101話 今日は私たちの夫(挿絵有)

 拠点の二階。


 三人部屋の中央にある小さな卓を囲んで、リシア、カレン、クラリスは座っていた。


 朝食の後。

 良樹は一階の作業場にいる。


 いつものことなら、そこで魔導盤か、工具か、魔石か、何かしら面倒なものを睨んでいるはずだった。


 だが、今日は違う。


 少なくとも、三人の中ではそう決まっていた。


「最近、私たちの番がないと思うの」


 最初に口を開いたのは、リシアだった。


 カレンが、胸元で両手を握る。


「……はい」


 クラリスも静かに頷いた。


「同感です」


 リシアは、少しだけ深く息を吐いた。


「良樹が頑張っているのは分かってる」

「アルフを止めた」

「アルフに後を見せた」

「亜人集落へ行った」

「魔石通信を置いた」

「ロブの才能を見つけた」

「ギルドでは、ニルとアルフに兄貴だの師匠だの呼ばれている」

「クリス兄様にも気に入られている」


 言いながら、リシアの眉間に少し皺が寄った。


「……最後のは、少し腹立たしいけど」


「兄様ですから」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「諦めてください」


「身内が言うと重いわね」


 リシアは半眼で返した。


 カレンは少しだけ困ったように笑う。


「でも、良樹さんらしいです」

「困っている人がいたら、放っておけませんから」


「そうなのよ」


 リシアは、そこで卓に肘をついた。


「そこが好きなのよ」

「だから余計に困るの」


「困る、ですか」


「ええ」


 リシアは二人を見た。


「私たち、妻になってから油断していたと思うの」


 カレンが瞬きをする。


「油断……」


「妻だから」

「良樹は私たちの夫だから」

「そう思って、少し安心していた」

「でも、駄目ね」


 リシアは真剣な顔で言った。


「妻だから、に胡座をかいていると」

「良樹は取られる」


 カレンの肩が跳ねた。


「取られる……!」


 クラリスは少しだけ目を細める。


「相手は、女性に限りませんね」


「ええ」


 リシアは指を折った。


「ロブ」

「アルフ」

「ニル」

「クリス兄様」

「ガレス」

「ノーラやケーン」

「壊れた看板」

「緩んだ蝶番」

「歪んだ荷車の車輪」


「最後の方は人ではありません」


 クラリスが静かに指摘する。


「でも、良樹は持っていかれるわ」


「……否定できません」


 カレンが小さく頷いた。


 良樹は、そういう男だった。


 目の前に困っている人がいれば見る。

 危ないものがあれば見る。

 壊れているものがあれば見る。

 埋もれた才能があれば、そこにも気づいてしまう。


 リシアは、その性質が好きだった。


 カレンも、クラリスも、同じだ。


 けれど。


 だからこそ、妻としては寂しい。


「私たちの強敵は、若い女職人ではなかったのよ」


 リシアが言う。


「強敵は、良樹が手を出したくなるもの全て」


 カレンが呟く。


「良樹さんが、手を出したくなるもの全て……」


「危険な段差」

「妙な魔石」

「未確認の符号表」

「困っている誰か」

「危ない力を持った誰か」

「埋もれた才能を持った誰か」


 クラリスが静かに続けた。


「最近では、ロブですね」


「アルフくんもです……」


 カレンが小さく付け加える。


「兄様もです」


 クラリスが穏やかに言った。


 沈黙。


 リシアは、両手で顔を覆いかけた。


「なんで私たち、妻にまでなったのに男に嫉妬してるの……?」


 カレンもクラリスも、何も言えなかった。


 そこに嫉妬しているのは、分かっている。


 女ではない。

 良樹が人を見ること。

 才能を見ること。

 困りごとを見ること。

 危ない場所を見ること。


 その性質そのものに、少しだけ嫉妬している。


 それは良樹の好きなところだから、余計に始末が悪かった。


「そういえば」


 クラリスが、ふと思い出したように口を開いた。


「この前、兄様に別れ際、このようなことを言われてしまいました」


「兄様に?」


 リシアが顔を上げる。


「はい」


 クラリスは、少しだけ声色を変えた。


「僕は、事実無根の“女たらし”などという呼ばれ方もすることがあるが――」


「事実無根?」


 リシアが即座に眉を寄せた。


「本当に、事実無根なのでしょうか……」


 カレンも不安げに言う。


「兄様の自己申告です」

「私も、全面的には信用していません」


「でしょうね」


 リシアは即答した。


 クラリスはそのまま続けた。


「君の夫は、正真正銘の“人たらし”だ」

「しかも、無自覚のね」

「厄介な男の妻になってしまったね、あっはっは!」


 静かな沈黙が落ちた。


「……反論できないわ」


 リシアが言った。


「……できません」


 カレンも頷く。


「はい」

「私も、できませんでした」


 クラリスが静かに言う。


 リシアは椅子の背にもたれた。


「女たらしなら、まだ対処できるのよ」

「相手が女性なら、妻として名乗れる」

「牽制もできる」


「はい」


「でも、人たらしは駄目よ」

「相手が男でも」

「亜人でも」

「弟子でも」

「兄でも」

「職人でも」

「困ってる誰かでも」

「壊れた看板でも」


「看板は人ではありません」


「でも、良樹は持っていかれるわ」


「……否定できません」


 カレンが二度目の同意をした。


 リシアは、そこで椅子から身を起こした。


「だから今日は」

「何が何でも、私たちが良樹に甘える日よ」


「甘える……」


 カレンの顔が赤くなる。


「そう」

「甘える」

「遠慮しない」

「妻だからこそ、ちゃんと甘える」

「良樹に夫としての時間を使わせる」


 リシアは指を立てた。


「英雄でも」

「師匠でも」

「兄貴でも」

「技術屋でもなく」

「私たちの夫として」


 クラリスは、ゆっくり頷いた。


「良い方針です」


 カレンも、少し恥ずかしそうに、それでもはっきりと言った。


「良樹さんに、甘えたいです」


「決まりね」


 リシアは立ち上がった。


「そして、妨害する人は――」

「実力を行使してでも排除する!」


「あ、あの……実力というのは」


 カレンが恐る恐る聞く。


「ギルド案件なら、ガレスに突き返す」

「ニルとアルフが来たら、今日は駄目だと追い返す」

「ロブの相談は明日」

「兄様が来たら、クラリスが処理」

「看板は見せない」

「蝶番も見せない」

「荷車の車輪も見せない」


「看板も排除対象なのですね」


 クラリスが言う。


「最大級の敵よ」


「確かに」

「良樹くんは、緩んだ看板を見ると戻ってきません」


「はい」

「良樹さんは、危ない金具を見ると目が変わります」


 カレンも真剣に頷いた。


 リシアは、力強く言った。


「作戦名は」

「夫回収作戦よ」


   ◇


 一階へ降りると、良樹はちょうど腰袋を着けようとしていた。


 作業着ではない。

 外へ出るための服装だ。

 だが、腰にはいつものように工具の詰まった腰袋がある。


 リシアは、それを見た瞬間に言った。


「今日は、それは駄目」


 良樹の手が止まる。


「何でだ」


「今日は、工具禁止」


「は?」


 良樹は本気で意味が分からない顔をした。


「工具なしで街を歩けってのか」


「そうよ」


「財布なしで市場に行くようなもんだぞ」


「大げさ」


「大げさじゃねえ」


 クラリスが、穏やかに言った。


「良樹くんにとっては、かなり近い感覚だと思います」


「分かってんなら返せ」


「返しません」


 クラリスは即答した。


 カレンも少し緊張しながら、良樹の前に立つ。


「あ、あの……」

「今日は、私たちとお出かけしてほしいです」


 良樹はカレンを見る。


 そして、黙った。


 カレンのお願いに、良樹は弱い。


「……分かったよ」


 良樹は腰袋を外した。


 外した瞬間、少しだけ落ち着かない顔になる。


 リシアはそれを素早く受け取り、クラリスへ渡した。


「没収」


「言い方」


「今日は没収よ」


 良樹は眉間を押さえた。


「俺は回収対象物じゃねえぞ」


「今日はそういう日なの」


「どういう日だよ」


「私たちの夫の日よ」


 リシアが言った。


 良樹は、少しだけ言葉に詰まった。


「……朝から強いな」


「今日は強く行くわ」


 リシアは胸を張った。


   ◇


 街は暑かった。


 昼前だというのに、石畳にはもう熱がこもり始めている。

 露店の布屋根の下では、店主たちが団扇を動かしていた。

 荷運びの男たちは、額の汗を拭いながら荷車を押している。


 だが、少し前とは違う光景もあった。


 何人かが、背中や脇に小さな魔導ファンを取りつけた服を着ている。

 布地の中に風を通すための隙間があり、腰の小さな魔力石から淡い光が流れていた。


 魔導空調服。


 良樹の第二の発明だった。


 魔導モーターと小型ファンで服の内側に風を通す。

 魔力石にあらかじめ魔力を込めておけば、弱い魔力でも長時間動かせる。

 氷系の魔力を込めれば冷えた風。

 火系の魔力を込めれば、冬には暖かい風にもなる。


 派手な武器ではない。

 魔物を倒す道具でもない。


 だが、荷運びや露店、工房や施療院では、確かに役に立つ。


 良樹は、空調服を着た荷運びの男を見て、少しだけ目を細めた。


「……ちゃんと回ってるな」

「吸気口に埃が溜まりやすいか」

「後でフィンガーガードの目も見直した方が――」


「良樹」


 リシアが袖を引いた。


「今日は仕事の顔をしない」


「不具合確認は大事だろ」


「大事だけど、今日は後」


「後で忘れたら困るだろ」


「忘れたら私が覚えておくわ」


 良樹はリシアを見た。


 リシアは少しだけ得意げに言う。


「今日は、私たちを見る日でしょ」


「……はい」


 良樹は素直に頷いた。


 その横で、カレンも魔導空調服を着ている人々を見ていた。


「良い発明ですね」

「皆さん、少し楽そうです」


「ええ」


 クラリスも頷く。


「熱で倒れる方も、少し減るかもしれません」


 リシアも、その点は否定しなかった。


「良い発明よ」

「だからこそ」


 リシアは前を向く。


「私たちは、今日は脱ぐ」


「……脱ぐ?」


 良樹が嫌な予感の顔をした。


「魔導空調服を、よ」


「ああ」

「いや、分かってるけど、言い方」


「今日は、魔導空調服に頼らない」

「良樹が作った便利な服に、私たちの勝負を邪魔させない」


「勝負?」


「勝負よ」


 良樹は頭を押さえた。


「何が始まるんだよ」


「夫回収作戦です」


 クラリスが清楚に言った。


「その作戦名、本人の前で出すな」


   ◇


 服屋に着くと、リシアは良樹の前に立った。


「良樹」

「私たちは選んでくるから、そこで待ってなさい」


「俺は入らねえのか」


「入らない」


「何でだ」


「良樹は、服を服としてではなく、装備品として見ます」


 クラリスが言った。


「服は装備だろ」


 三人は同時に言った。


「「「ほら」」」


「何がほらだ」


 カレンが、少し困ったように笑う。


「今日は、縫製強度や留め具の安全性を見る日ではないので……」


「縫製強度は大事だろ」


「大事だけど、今日は外」


 リシアは良樹の胸元に指を突きつけた。


「私たちが可愛い服を選ぶ日よ」


 良樹は、少し黙った。


 そう言われると、返しづらい。


「……分かった」


「よろしい」


 リシアは頷く。


 そして三人は、店の中へ入っていった。


 良樹は店先に立つ。


 両手には、すでにいくつかの買い物袋がある。

 腰袋はない。

 工具もない。


「……完全に荷物持ちじゃねえか」


 呟いた直後、店先の看板が目に入った。


 看板を吊るす金具の片方が、わずかに緩んでいる。


 風が吹くたび、微かに揺れる。


 良樹の目が細くなった。


「……あれ、危ねえな」


 手が自然と腰へ行く。


 そこに腰袋はない。


「……工具なしで看板を見るの、拷問だろ」


 良樹は深く息を吐いた。


 そのまま、待った。


 待った。


 さらに待った。


 かなり待った。


「……なんで女の買い物はこう長えんだよ」


 その間にも、良樹は何度も看板を見た。


 見てしまう。

 気になる。

 だが工具がない。


 すると、通りかかった荷運びの男が声をかけてきた。


「よう、英雄さま」

「今日は珍しく一人か?」


「一人じゃねえよ」

「いま、そこの服屋で買い物してんだよ」


「ああ、奥方様たちか」

「そりゃあ大変だ」


 男は笑った。


「英雄さまも、夫の仕事をしなきゃならないとは忙しいねえ」


「夫の仕事って何だ」


「待つことだろ」


 良樹は黙った。


「……否定しづらいな」


「そういうもんだ」


 男は笑いながら去っていった。


 次に、露店の女が冷えた水袋を持ってきた。


「空調服のお礼よ」

「うちの父が、あれを着てから昼の店番が楽になったって喜んでるの」


「ああ」

「不具合があったら言ってくれ」

「吸気口の埃と、熱がこもる場所には気をつけて――」


「今日は奥方様待ちなんだろ?」

「説明はまた今度でいいよ」


「……それもそうか」


 さらに、子どもが駆けてきた。


「英雄のおじちゃん!」


「おじちゃんじゃねえ」


「お母さんがこれあげてって!」

「空調服のおかげで、お父さんが前より怒らなくなったって!」


「そこは家庭内で話し合え」


 子どもは蜜菓子を置いて、走っていった。


 気づけば、良樹の周りには差し入れが増えていた。


 冷たい麦茶。

 果物。

 蜜菓子。

 焼き菓子。

 日除け布。


 良樹はそれを見て、眉間を押さえる。


「……俺、待ってるだけなんだが」


 その時、服屋の扉が開いた。


   ◇


 最初に出てきたのは、リシアだった。


 袖のない、薄い上衣。

 肩から腕が出ている。

 裾は短く、腰のあたりで軽く締まっていた。


 そして、ミニスカート。


 普段のリシアより、脚がずっと出ている。

 健康的で、強気で、攻めていた。


 ただし。


 リシア自身も、少しだけ赤い。


「どう?」


 リシアは強気に聞いた。


 良樹は言葉を探した。


「……似合ってる」

「その、かなり」


「かなり?」


「攻めてる」


「そうよ」

「今日は攻める日だもの」


 言ってから、リシアは一瞬だけ固まった。


「……言い方を間違えたわ」


「間違えてねえ気もする」


「黙りなさい」


 次に、クラリスが出てきた。


 白を基調にしたノースリーブ。

 清楚な雰囲気はそのままだが、腕が出ている。

 脚も出ている。


 法衣とはまったく違う。

 それなのに、清楚な表情だけはそのままなので、余計に危ない。


 クラリスは良樹の前で、少しだけスカートの裾を摘まんだ。


 上げるというほどではない。

 だが、見えるか見えないかのところで、良樹の反応を確かめるような仕草だった。


「良樹くん」

「見てくださいますか?」


 良樹の喉が止まる。


 クラリスは、ほんの少し微笑んだ。


「……ちゃんと、見てくださっているのですね」


「お前、分かってやってるだろ」


「少しだけです」


「少しだけでその破壊力なの、厄介ね」


 リシアが呆れたように言う。


 カレンは最後に出てきた。


 淡い色の短い上衣。

 裾が短く、動くたびに腹部が少し覗く。

 下はホットパンツ。


 脚が出ている。

 動きやすそうではある。

 だが、カレン本人は完全に緊張していた。


「あ、あの……」


 カレンは服の裾を軽く押さえながら、良樹の前に立った。


「どうでしょうか……」


 良樹は、数秒だけ黙った。


 それから、短く言った。


「……すげえ似合ってる」


 カレンの顔が赤くなる。


「ありがとう、ございます……」


 リシアは三人を見回し、満足げに頷いた。


「よし」

「行くわよ」


「どこへだよ」


「街を歩くの」


 良樹は、もう一度三人を見た。


 そして、頭を抱えた。


「お前ら、全員違う方向に防御力がねえ……」


「防御力って言うな!」


「ですが、事実として」

「この服装は、通常装備より防御性能が低いです」


「クラリスまで装備評価に乗るな」


 カレンは小さく手を上げる。


「あ、あの……私は」

「スカートなら、もう少し気をつけられるのですが……」


「ホットパンツでその発言は危険だからやめろ」


「えっ……?」


 カレンは分かっていなかった。


 良樹は空を見た。


 今日の空も、青かった。


 挿絵(By みてみん)


   ◇


 最初に立ち寄ったのは、本屋だった。


 リシアが、前から気になっていた本があると言ったのだ。


 魔法理論か。

 物語か。

 あるいは、良樹に読ませたい何かなのか。


 良樹には分からなかった。


 ただ、リシアは店の奥へ進み、ある棚の前で足を止めた。


「……なんで、あんな高いところに置いてあるのよ」


 目的の本は、棚の上の方にあった。


 良樹は見上げる。


「風魔法で浮けばいいじゃねえか」


「こんなところで使ったら迷惑よ」

「紙が飛ぶでしょ」

「本を落としたらどうするの」


「正論だ」


 近くに踏み台があった。


 リシアはそれを引き寄せる。


「これを使えば取れそうね」

「良樹、ちょっと支えておいて」


「踏み台をか?」


「ええ」

「倒れないように」


 良樹は踏み台を押さえた。


 リシアが上がる。


 そして手を伸ばす。


「……届かないわね」


 リシアはさらに身体を伸ばした。


 その瞬間、良樹の視界の端に、見てはいけないものがちらりと入った。


 良樹は反射的に横を向く。


 ただし、踏み台は支えたまま。


「良樹、ちゃんと支えてる?」


「支えてる」


「こっち見てない?」


「見てない」


「ならいいわ」


 本当にいいのか、良樹には分からなかった。


 リシアはもう一度手を伸ばす。


 また、裾が頼りなく動く。


 良樹はさらに横を向いた。


 やがて、リシアの指先が本の背に届いた。


「あ、届いた」


 リシアは本を引き抜く。


 良樹は横を向いたまま踏み台を支えていた。


 リシアが、本を胸に抱えて、下を見た。


「……すけべ」


「見なくても駄目ならどうしろってんだ!」


 良樹は思わず叫んだ。


 リシアは少しだけ頬を赤くする。


「見なかったの?」


「……」


「……すけべ」


「理不尽すぎるだろ!」


 その直後だった。


 踏み台の上で、リシアの足元がわずかにずれた。


 本を取るために伸ばしていた身体。

 慣れないミニスカートを気にしていた意識。

 良樹の反応を気にしていた視線。


 その全部が、ほんの少しだけ遅れた。


「――――きゃ」


 リシアの身体が、踏み台の上から傾く。


 良樹は考えるより先に動いた。


 支えていた手を離し、落ちてくるリシアの背中と膝裏を受け止める。


 軽い身体が、腕の中に収まった。


「っと、あぶねえ」

「気をつけろ」


 リシアは返事をしなかった。


 ただ、良樹の腕の中で、ぽーっと彼を見上げている。


「……リシア?」


 良樹は眉を寄せた。


「どうした」

「怖かったのか」


 その言葉で、リシアはようやく瞬きをした。


 それから、顔を赤くして、良樹の首元へ腕を回す。


「お、おい」

「どうした――」


「うるさいわね」


 リシアは、良樹の胸元に額を寄せた。


「この鈍感夫」


「鈍感って、今の流れで俺が何を――」


「うるさい」


 リシアの声は小さかった。


 けれど、腕の力は緩まなかった。


「……ちょっとだけ」

「このままでいさせて」


 良樹は、何かを言いかけた。


 言いかけて、やめた。


 腕の中のリシアは、いつもの強気なリシアではなかった。


 いや、強気ではある。

 怒ってもいる。

 照れてもいる。


 けれど、それ以上に。


 甘えていた。


 良樹は小さく息を吐いた。


「……分かった」

「ちょっとだけな」


「ちょっとだけよ」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


 リシアは、良樹の胸元に顔を隠したまま、ほんの少しだけ笑った。


   ◇


 本屋を出た後、リシアは買った本を良樹に押しつけた。


「あとで、これ読んで」


「自分で読めるだろ」


「読めるわよ」

「でも、今日は読んでほしいの」


 良樹はリシアを見た。


 リシアは、目を逸らさなかった。


「……そういうことか」


「そういうことよ」


 良樹は本を受け取った。


「分かった」


 リシアは、少しだけ満足そうに笑った。


 その次に起きたのは、カレンだった。


 市場の端。

 果物屋と布屋の間で、小さな子どもが立ち尽くしていた。


 泣きそうな顔。

 両手を握りしめ、周囲を見回している。


 カレンは、すぐに気づいた。


「あの子……」


 言うより先に、カレンは子どもの前へ行き、しゃがんだ。


「大丈夫ですか?」

「お母さんか、お父さんを探しているんですか?」


 子どもは、こくりと頷いた。


 カレンの声は柔らかかった。

 怖がらせないように、目線を合わせる。

 急かさず、手を伸ばしすぎず、ただそこにいる。


 それは、カレンらしい動きだった。


 怖い場所を見る子だから。

 怖がっている子の姿も、見落とさない。


 ただし。


 今日はホットパンツだった。


 スカートなら、カレンはもう少し気をつけられた。

 しかし、ホットパンツの防御感覚はまだない。


 しゃがんだ姿勢。

 後ろ側。

 角度。


 良樹は、少し離れた真後ろにいた。


 見えた。


 良樹は固まった。


「良樹?」


 リシアが呼ぶ。


 良樹は答えない。


「あら」


 クラリスが、何かを察したように口元に手を添える。


 カレンは、子どもを果物屋の女のところへ連れていき、親を探してもらうよう頼んだ後で、ようやく良樹の様子に気づいた。


「……良樹さん?」


 良樹は目を逸らした。


 カレンは、自分の姿勢を思い出す。


 みるみる顔が赤くなった。


「み、見えてましたか……?」


 良樹は、しばらく黙った。


 それから、逃げずに答えた。


「……見えた」

「悪い」


 カレンは俯いた。


「……そう、ですか」


「本当に悪い」

「でも、その……」


 良樹は言葉を探す。


「可愛かった」


 カレンの肩が跳ねた。


「そ、それは」

「見えたものが、ですか」

「私が、ですか」


「両方言わせる気か」


 カレンは真っ赤な顔で、しかし逃げずに言った。


「……聞きたい、です」


 良樹は負けた。


「……カレンが、可愛かった」


 カレンは、小さく息を呑んだ。


 それから、さらに顔を赤くして言った。


「……今日は」

「良樹さんの好きな水色に……したんです」


 良樹の目が止まった。


 服の話ではない。


 今、見えてしまったものの話だ。


「……お前」

「そういうことを、今言うな」


「す、すみません」

「でも……」

「良樹さんが、好きだって言っていたので」


「……覚えてたのか」


 カレンは、真っ赤な顔で、けれどまっすぐ良樹を見た。


「忘れる訳、ないです」


 良樹は、言葉を失った。


「良樹さんが」

「私に似合うって」

「可愛いって」

「好きだって言ってくれた色ですから」


 良樹は、短く息を吐いた。


「……負けた」


 リシアが横で腕を組む。


「カレン」

「あなた、時々いちばん強いわね」


 クラリスも頷いた。


「はい」

「今のは非常に強いです」


「えっ」

「わ、私は、そんなつもりでは……」


「だから強いのよ」


 リシアが呆れたように言った。


 その後、子どもは無事に親の元へ戻った。


 カレンは少しだけ俯いている。

 恥ずかしさが、まだ残っていた。


 良樹はそんなカレンの前に立つ。


「カレン」


「はい……」


「さっきの子」

「ちゃんと安心してた」

「偉かったな」


 カレンは目を上げた。


 しばらく良樹を見てから、小さく言う。


「あの……」

「少しだけ」

「頭を撫でてもらってもいいですか」


「街中だぞ」


「……駄目、でしょうか」


 良樹は、もう一度負けた。


「駄目じゃねえよ」


 良樹はカレンの頭を撫でた。


 カレンは目を細める。

 赤くなりながら、それでも嬉しそうに。


 リシアは少しだけ口元を緩めた。

 クラリスも、穏やかに見守っていた。


   ◇


 最後は、クラリスだった。


 通りを歩いている途中、小さな布包みが石畳に落ちていた。


 誰かが落とした薬包か、飾り包みか。


 クラリスは、それに気づいて足を止めた。


「……あ」


 そして、いつものように拾った。


 足を伸ばしたまま、前屈の体勢で。


 普段の法衣なら、何の問題もなかった。

 長い裾が守ってくれる。

 施療院でも、街でも、そうしてきた所作だった。


 だが、今はミニスカートだった。


 そして、真後ろにいたのは良樹だった。


 良樹は固まった。


 見えた。


 避けるには遅かった。

 声をかけるにも遅かった。


 クラリスは布包みを拾い上げてから、ふと違和感に気づく。


 振り向いた。


「……良樹くん?」


 良樹は返事ができなかった。


 クラリスは一拍遅れて、自分の姿勢と服装を思い出した。


「……あ」


 耳まで赤くなる。


 クラリスは拾った布包みを胸の前で抱えた。


「良樹くんの、えっち」


「俺のせいじゃねえええ!」


 良樹の叫びに、リシアが肩を震わせた。


「今のはさすがに良樹が気の毒だわ」


「は、はい……」

「今のは、クラリスの動きが……」


 カレンも真っ赤になりながら言う。


 クラリスは、布包みを抱えたまま俯いた。


「……分かっています」


「分かってるなら言うなよ」


「ですが」

「恥ずかしかったので」


「俺もだよ」


「……でも」


 クラリスは少しだけ目を伏せた。


「見られたので」


 良樹の喉が止まる。


「……見られたので」

「責任、取ってほしいです……」


「何の責任だよ」


「私が」

「良樹くんに、くっつきたくなってしまった責任です」


 良樹は黙った。


 クラリスは、そっと良樹の腕を取る。


「少しだけ」

「このまま歩いてください」


 良樹は眉間を押さえた。


「……理屈が通ってねえ」


「はい」

「でも、今は通さなくてもいいですか」


 良樹は、しばらく黙っていた。


 それから、諦めたように言う。


「……少しだけな」


「はい」

「少しだけです」


 クラリスは、良樹の腕に頬が触れそうな距離で寄り添った。


 リシアはそれを見て、呆れ半分、感心半分の顔をする。


「クラリスも大概ね」


「今日は甘える日ですので」


 クラリスは清楚に答えた。


「便利ね、その日」


「便利です」


   ◇


 休憩に入ったのは、日陰のある小さな広場だった。


 良樹は、店先で受け取った差し入れを卓の上に並べた。


 冷たい麦茶。

 果物。

 蜜菓子。

 焼き菓子。


 リシアは良樹の隣に座る。

 カレンはいつもより少し近い位置。

 クラリスは当然のように良樹の腕側に座った。


 良樹は、完全に逃げ場を失っていた。


「……なあ」


「何?」


 リシアが顔を上げる。


「お前ら、今日ずっと近くないか」


「近いわよ」


「即答かよ」


「今日はそういう日だもの」


 リシアは麦茶を一口飲んだ。


 そして、ふと思い出したように言う。


「でも、良樹」

「私たちの裸は、もう見てるじゃない」


 良樹が麦茶を吹きかけた。


 カレンが真っ赤になる。

 クラリスは静かに目を伏せたが、耳は赤かった。


「リシア」

「急に何を言い出す」


「だって、そうでしょ」

「なのに、今日の良樹は妙に動揺してるわ」


 良樹は、しばらく黙った。


 見ている。

 夫婦になった。

 抱いてもいる。

 肌の温度も、呼吸も、震えも知っている。


 それでも。


「……それとこれは、別モンなんだよ」


「別?」


「ああ」


 良樹は視線を逸らしながら言う。


「裸ってのは……その」

「見る覚悟がある時に見るもんだろ」

「こっちにも」

「お前らにも」


 リシアの頬が赤くなる。


「でも今のは違う」

「街中で」

「普通に歩いてて」

「暑いから薄着で」

「汗かいて」

「布が薄くて」

「風が吹いて」

「しゃがんで」

「裾がずれて」

「見えそうになる」


 良樹は頭を押さえた。


「そういうのは、別方向に効く」


 クラリスが口元に手を添える。


「つまり」

「裸より、着ている方が効く場合があると」


「そういうまとめ方をするな」


「ですが、事実ですね」


「事実だけど言うな」


 リシアが、じっと良樹を見る。


「じゃあ、効いてるの?」


 良樹は沈黙した。


「良樹」


「……効いてる」


 リシアは、にこりと笑った。


「なら、今日の作戦は間違ってないわね」


「作戦って言うな」


「夫回収作戦ですね」


 クラリスが言った。


「もっと言うな」


 カレンが、両手で器を持ちながら小さく言う。


「でも……」

「良樹さんが、ちゃんと見てくれているなら」

「頑張った意味は、あります……」


 良樹は、もう一度息を吐いた。


「そういうこと言われると、こっちが負けるんだよ」


「負けてください」


 クラリスが静かに言った。


「今日は、私たちに」


 良樹は三人を見た。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 全員、自分を見ていた。


 英雄を見る目ではない。

 技術屋を見る目でもない。

 危ないものを止める男を見る目でもない。


 夫を見る目だった。


 良樹は、短く言った。


「……分かったよ」

「今日は、ちゃんとお前らを見る」


 三人の表情が、同時に柔らかくなった。


 裸を見たかどうかなど、関係なかった。


 好きな女が、自分に見てほしくて頑張っている。


 それだけで、男は簡単に負ける。


   ◇


 その後、四人は街を歩いた。


 リシアは良樹の隣。

 カレンは少し近い距離。

 クラリスは、時々当然のように良樹の腕に触れる。


 良樹は困った顔をしていたが、逃げてはいなかった。


 街の人たちは、それを見逃さなかった。


「あらあら、今日は奥方様たちの日かい?」


 露店の女が笑う。


「英雄さまも大変だなあ」

「魔物より手強そうだ」


 荷運びの男が冷やかす。


「黙って荷物運んでろ」


「へいへい」

「でも幸せそうで何よりだ」


 菓子屋の婆さんは、冷たい蜜菓子を渡してきた。


「若いねえ」

「奥方様たちにちゃんと食べさせるんだよ」


「俺は子守か」


「夫だろ」


「……否定しづれえ」


 リシアは顔を赤くしながらも、良樹の隣を離れなかった。

 カレンは冷たい蜜菓子を両手で受け取り、小さく礼を言った。

 クラリスは良樹の腕に添えた手を、ほんの少しだけ強めた。


 街の中で。

 人の目の中で。


 良樹は、英雄だけではなかった。


 三人の妻の夫でもあった。


   ◇


 通りの向こうで、アルフが良樹たちを見つけた。


「あ、師匠――」


 呼びかけようとして、一歩踏み出す。


 だが、止まった。


 良樹は、いつものように周囲を見ていた。

 危ない段差も、緩んだ看板も、荷車の車輪も見ている。


 けれど今日は、それだけではなかった。


 隣のリシアを見る。

 少し後ろのカレンの歩幅を見る。

 腕に寄り添うクラリスが歩きにくくないかを見る。


 そして、三人も良樹を見ていた。


 英雄を見る目ではない。

 師を見る目でもない。

 頼れる人を見る目でもない。


 夫を見る目だった。


 アルフは、口を閉じた。


「……今は」

「僕が入っていい時間じゃないんだ」


「分かったでしょ?」


 後ろから声がした。


 リナだった。


 腕を組んで、アルフの横に立つ。


「新婚さんなんだもの」

「奥様方だって、ああいう時間が要るの」


 アルフは、もう一度良樹たちを見た。


 良樹は何かを言われて、困ったように眉を寄せている。

 リシアが笑っている。

 カレンが赤くなっている。

 クラリスが良樹の腕に寄り添っている。


「……うん」

「そうだね」


 リナは少しだけ肩をすくめた。


「師匠って呼ぶのはいいけど」

「師匠にも、師匠じゃない時間があるんだよ」


「……うん」

「覚えておく」


 アルフは、声をかけなかった。


 ただ、小さく頭を下げるように頷いて、その場を離れた。


 良樹から学ぶことは、道具の止め方だけではない。


 人の時間に踏み込まないことも、きっと学ぶことだった。


   ◇


 だが、全員がアルフのように止まれるわけではない。


 少し離れた別の通り。


 ニルが良樹たちを見つけた。


「兄貴――!」


 駆け出そうとした瞬間、襟首を後ろから掴まれる。


「ぐえっ」


「やめとけ」


 ガレスだった。


 ニルは首を押さえながら振り向く。


「何するんすか、ガレスさん!」


「今日はやめとけ」

「死ぬぞ」


「誰にっすか!?」


 ガレスは、通りの向こうを見た。


 良樹の隣にはリシア。

 少し近い距離にカレン。

 腕にはクラリス。


 三人とも笑っている。


 笑っているが、ガレスは知っていた。


 今朝のことを。


   ◇


 その日の朝。


 ギルドの奥部屋に、三人の女が来た。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 全員、妙に穏やかな顔をしていた。


 穏やかだった。


 穏やかだったが、ガレスは一目で分かった。


 これは、逆らうと面倒なやつだ、と。


「ガレス」


「朝から三人揃ってどうした」


「今日は良樹を呼び出さないで」


 リシアが言った。


 ガレスは眉を上げる。


「……何かあったか」


 クラリスが、清楚に微笑んだ。


「いいえ」

「何も起こさせないためのお願いです」


 カレンは胸元で両手を握る。


「あ、あの……」

「今日は、私たちが良樹さんに甘える日なので……」


 ガレスは、数秒だけ黙った。


「……なるほどな」


 リシアは指を折った。


「依頼」

「報告」

「相談」

「緊急ではない案件」

「ニル」

「アルフ」

「ロブ」

「壊れた看板」

「緩んだ蝶番」

「歪んだ荷車の車輪」


「最後の方はギルド案件じゃねえだろ」


「良樹くん案件です」


 クラリスが即答した。


「嫌な分類だな」


 リシアは一歩前に出る。


「とにかく」

「今日、良樹を呼び出したら」


「呼び出したら?」


 クラリスは、穏やかなまま言った。


「私たち、何をするか分かりません」


 カレンも、真っ赤になりながら頷いた。


「そ、そうです」

「今日は……駄目、です」


 怒鳴っているわけではない。

 殺気もない。

 剣も杖も構えていない。


 だが、それより面倒なものがあった。


 本気だった。


 ガレスは深く息を吐いた。


「……分かった」

「今日は緊急以外、良樹は呼ばねえ」


 リシアはすかさず言う。


「緊急でも、まず私たちに通して」


「検閲かよ」


「夫婦内安全確認です」


 クラリスが清楚に答えた。


「言葉を整えても圧が消えてねえぞ」


 ガレスはそう言いながらも、頷いた。


   ◇


 ガレスは、あの時の三人の顔を思い出した。


 あれは冒険者の顔ではなかった。

 依頼人の顔でもなかった。

 英雄を支える妻の顔でもなかった。


 今日は英雄を貸す気が一切ない妻たちの顔だった。


「奥方様方にだ」


 ガレスが言った。


 ニルは黙った。


 通りの向こうを見る。


 リシアが、良樹の袖を引いて何かを言っている。

 カレンが、冷たい蜜菓子を両手で持って赤くなっている。

 クラリスが、当然のように良樹の腕に寄り添っている。


 ニルは少し考えた。


「……了解っす」

「今日は、やめとくっす」


「賢明だ」


「でも、明日ならいいっすか?」


「明日なら、たぶんな」


「たぶん?」


「奥方様方の機嫌次第だ」


「兄貴、すげえ立場っすね……」


「夫ってのは、そういうもんだろ」


 ガレスは雑に言った。


 ニルは妙に納得した顔をした。


   ◇


 良樹は、遠くでガレスとニルが何かを話しているのに気づいた。


 気づいたが、呼ばれなかった。


 隣でリシアが笑う。

 カレンが少し近づく。

 クラリスが腕に添えた手に、ほんの少しだけ力を込める。


 英雄として呼ばれない日。

 師匠として求められない日。

 兄貴として絡まれない日。

 技術屋として壊れたものを直しに行かない日。


 そんな日が、良樹にもあった。


 今日は、三人の妻たちの夫だった。


   ◇


 夜。


 拠点へ戻った良樹は、ようやく今日が終わったと思っていた。


 服屋で待たされた。

 工具なしで看板を見せられた。

 リシアに二度すけべ扱いされた。

 踏み台から落ちかけたリシアを抱き止めた。

 カレンを見て、可愛いと言った。

 水色の話で完全に負けた。

 クラリスに理不尽にえっち呼ばわりされた。

 その上、責任を取れと腕を取られた。

 街中で冷やかされた。

 ニルにもアルフにも呼ばれなかった。


 今日一日、ずっと夫として使われた気がする。


 悪い気はしなかった。


 それを認めるのは、少し悔しかったが。


 良樹は三人部屋の前で足を止めた。


 中から、リシアの声がした。


「良樹」


「何だ」


「入って」


 良樹は扉を開けた。


 三人がいた。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 昼間の強気な空気とは少し違っていた。

 けれど、逃げるつもりのない目だった。


 リシアは、少し頬を赤くしている。

 カレンは胸元で両手を握っている。

 クラリスは静かに目を伏せていた。


「ねえ、良樹」


「何だ」


 リシアが一歩前へ出る。


「まだ、今日は終わってないわよね?」


 良樹は、嫌な予感というには甘すぎる何かを感じた。


「……何の話だ」


 クラリスが顔を上げる。


「今日は、私たちに甘えさせてくださる日です」


 カレンが、真っ赤な顔で続けた。


「昼だけ、では……ありません」


「お前ら……」


 リシアは、逃げなかった。


「だから」


 三人は顔を赤くしながら、それでも良樹を見た。


「「「抱いてください」」」


 良樹は、しばらく何も言えなかった。


 昼間、三人は何度も自分に甘えてきた。


 見てほしいと。

 褒めてほしいと。

 触れてほしいと。

 そばにいてほしいと。


 だが、今の言葉は、そのどれとも違った。


 妻として。

 女として。

 自分の夫に求めている。


 良樹は短く息を吐いた。


「……分かった」


 三人の肩が、わずかに震える。


 良樹は逃げなかった。


「今日は」

「最後まで、お前らの夫でいる」


 リシアが泣きそうに笑った。

 カレンが両手を胸元で握った。

 クラリスが、静かに目を伏せた。


 その夜、良樹は英雄ではなかった。

 師匠でも、兄貴でも、技術屋でもなかった。


 三人の妻に求められた、ただの夫だった。


 今日は、三人の妻たちの夫だった。


 昼も。


 夜も。

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