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第99話 おはようございます、師匠(挿絵有)

 その日の夜。


 良樹は、三人の妻に責任を取らされていた。


 何の責任かと言えば、ここ数日のことである。


 アルフの件で飛び回り。

 亜人の集落へ行き。

 施療院へ行き。

 ギルドで処遇を決め。

 弟子が増え。

 妻見習いまで増えた。


 挙げ句の果てに、また良樹は自分一人で面倒を抱え込みそうな顔をしていた。


 ならば、妻として止める必要がある。


 休ませる。

 抱きしめる。

 逃がさない。

 自分たちのところへ戻ってこさせる。


 それは、三人の妻にとって、極めて正当な責任追及だった。


 なお、良樹も責任を取りたかった。


 そのため、異議申し立てはなかった。


   ◇


 その少し前。


 アルフたちは、ギルド預かり兼良樹監督下として、仮宿を与えられていた。


 そこは、良樹たちが結婚前に使っていた作業場付きの貸家だった。


 良樹にとっては、この街で生活を始めた場所。

 リシア、カレン、クラリスと同じ家で暮らす距離を覚えた場所。

 三人部屋と、一人部屋と、作業場。

 会議と、確認と、事故と、改善が積み重なった場所。


 その家の玄関で、良樹はアルフたちを振り返った。


「しばらくはここで、地に足をつけた生活を覚えろ」


 アルフは少し戸惑ったように聞き返す。


「生活、ですか」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「朝起きる」

「飯を食う」

「掃除する」

「洗濯する」

「働く」

「疲れたら寝る」

「人に会ったら挨拶する」

「金を使えば減る」

「物を壊せば直すか弁償する」

「そういうやつだ」


 アルフは、家の中を見た。


 古いが、きちんと直された床。

 使い込まれた作業場。

 台所。

 二階へ続く階段。


 リナたちも、それぞれに小さな荷物を抱えたまま、室内を見回していた。


 良樹は、少しだけ懐かしそうに家を見た。


「ここは俺たちが前に住んでた場所だ」

「この世界で」

「この街で」

「まず、生きることからだ」


 アルフは、静かに頷いた。


「はい」


「部屋は男部屋と女部屋に分けるのが基本だ」

「ただし、お前らの関係を俺が全部決めるもんじゃねえ」


 リナたちが、少しだけ顔を赤くした。


 アルフも、意味を理解して息を呑む。


 良樹は、そんな反応を見た上で続けた。


「男女同衾は、自分たちで責任を考えろ」

「勢いでやるな」

「寂しさで誤魔化すな」

「罪悪感で埋めるな」

「好きなら好きで、ちゃんと話せ」

「嫌なら嫌と言え」

「迷うなら迷ってると言え」


「……はい」


「俺が決めてやると、お前らは俺のルールに逃げる」

「だからそこは、自分たちで考えろ」

「ただし、隠して壊すな」

「揉めたら相談しろ」


 アルフは、深く頭を下げた。


「はい、師匠」


「師匠って呼ぶな」


 反射で返してから、良樹は息を吐いた。


   ◇


 そして、翌朝。


 夜明け直後。


 寝台の上は、ひどく静かだった。


 良樹は眠っていた。


 右腕にはリシア。

 左腕にはカレン。

 胸元にはクラリス。


 三人とも、寝息は穏やかだった。


 布団の中は暖かい。

 肌と肌が触れている。

 3人とも下着姿で寝ていた。


 良樹も、起きる気はなかった。


 今日くらいは、少し遅くまで寝てもいい。


 そう思っていた。


 その時だった。


「おはようございます、師匠!」


 玄関の外から、元気な声が響いた。


 良樹の目が開いた。


 同時に、リシアの目も開いた。

 カレンの身体が跳ねた。

 クラリスのまつ毛が震えた。


 四人は、しばらく動かなかった。


 下着姿のまま。

 同じ寝台の上で。

 完全に絡まった状態で。


 外から、もう一度声がした。


「師匠!」

「朝の掃除は、どこから始めればいいですか!」


 良樹は、天井を見た。


「……あいつ」

「朝から来やがった」


 リシアが、真っ赤な顔で良樹の胸を叩いた。


「何とかしなさいよ!」


「俺も今、何ともならねえ状態なんだよ!」


 カレンは布団を胸元まで引き上げ、完全に固まっている。


「よ、良樹さん」

「こ、声が、聞こえています……!」


「聞こえてるのは俺も分かってる!」


 クラリスだけが、寝起きとは思えないほど落ち着いた声で言った。


「良樹くん」

「まず、玄関へ返事を」


「この状態でか?」


「声だけなら可能です」


「冷静に言うな!」


 外から、さらに元気な声。


「師匠!」

「起きていますか!」


 挿絵(By みてみん)


 良樹は歯を食いしばった。


「師匠って呼ぶなぁ!」


 玄関の外で、アルフが明るく返した。


「はい、師匠!」


「聞けよ!」


 リシアは、布団を押さえたまま呻いた。


「朝から、何なのよ……」


 カレンは真っ赤な顔で小さくなる。


「あ、朝の掃除をしようとしているのは」

「悪いことではないと思うんですけど……」


「タイミングが最悪なのよ!」


 クラリスは、良樹の胸元から少し顔を上げた。


「良い心がけではあります」


「今その言葉を使うな」

「火に油だ」


 良樹は、ゆっくりと身体を起こそうとした。


 その瞬間、リシアが布団を掴む。


「待ちなさい!」

「あんたが動いたら布団が!」


 カレンも悲鳴に近い声を上げた。


「だ、駄目です!」

「今、布団がなくなったら私が……!」


 クラリスは、真面目な声で言った。


「では、まず良樹くんが目を閉じてください」


「俺が出る話なのに、なんで目を閉じるんだよ」


「安全確認です」


 リシアが即座に続ける。


「尊厳保護インターロックよ」


「その言葉、まだ生きてたのか」


「生きてるわよ」

「こういう時のために」


 良樹は頭を抱えた。


 外では、アルフの声がまだ聞こえる。


「師匠!」

「僕、昨日考えたんです!」

「生活を覚えるなら、朝の掃除からだと思って!」


 その後ろから、リナの声がした。


「アルフ、声が大きい」

「まだ朝早いよ」


「でも、師匠は早起きだと思って」


「昨日、師匠たちも疲れてたでしょ」


「そうだけど、師匠ならもう起きてるかなって」


「師匠にも生活があるんだよ」


「生活……」


「たぶん、リシア様たちとの生活が」


「なるほど!」


「そこで大きく納得しないで」


 良樹は、布団の中で目を閉じた。


「リナの方が分かってるじゃねえか……」


「分かってるから余計恥ずかしいのよ!」


 リシアが小声で叫ぶ。


 結局、最初に動いたのはクラリスだった。


 クラリスは布団の中で良樹の頬に軽く触れ、にこりと微笑む。


「良樹くん」

「私が対応します」


「いや、待て」

「その格好で行くなよ」


「もちろん、着替えます」


「当たり前だ」


 クラリスが寝台から抜け出す。


 その瞬間、良樹は目を閉じた。

 リシアが布団を押さえ、カレンが真っ赤になって丸まる。


「……なんだこの朝」


 良樹が呟く。


 リシアは、赤い顔で言った。


「新婚の朝よ」


「そこに弟子が来たのが事故なのよ」


「事故報告書に書きたくねえな」


   ◇


 しばらくして、玄関の扉が開いた。


 出てきたのは、身支度を整えたクラリスだった。


 白い法衣。

 柔らかな微笑み。

 いつもの清楚な僧侶。


 ただし、その目は少しだけ細い。


「おはようございます、アルフ君」


「おはようございます、クラリス様!」


「良い挨拶です」


 クラリスは微笑んだ。


「ですが、朝の訪問には配慮が必要です」


「配慮、ですか」


「はい」

「師匠にも、妻との時間があります」


 アルフは真剣に頷いた。


「なるほど!」


 リナたちが、一斉に顔を赤くした。


「アルフ」

「そこは、そんなに大きな声で納得しないで……」


 クラリスは微笑みを崩さない。


「良い心がけですが」

「次からは、朝一番に玄関で大声を出す前に」

「一度、相手の生活を想像しましょう」


「はい!」


「特に、新婚夫婦の家では」


「はい!」


 リナたちは顔を覆った。


 クラリスは満足げに頷く。


「良い返事です」


 少し遅れて、良樹が出てきた。


 髪は少し乱れている。

 目つきは眠そうで、首元の襟はやけにきっちり閉じられていた。


 アルフは背筋を伸ばす。


「おはようございます、師匠!」


「師匠って呼ぶな」

「それと、朝が早すぎる」


「すみません!」


「謝るのはいい」

「次からは、来る前に時間を考えろ」

「生活を覚えろって言っただろ」

「生活ってのは、自分の朝だけじゃねえ」

「相手の朝もある」


 アルフは、はっとした顔になる。


「相手の朝……」


「そうだ」

「お前が正しいと思った時間でも、相手には相手の都合がある」

「挨拶も、やる気も、押し付ければ迷惑になる」


 アルフは深く頭を下げた。


「すみません、師匠」

「勉強になります」


「だから師匠って呼ぶな」


 リナが小さく呟いた。


「……すごい」

「朝から本当に教わってる」


 クラリスが頷く。


「良い心がけです」


 良樹は玄関の柱に額を当てた。


「俺は寝起きから何を教えてるんだ……」


   ◇


 朝食後。


 ようやく落ち着いた頃、良樹はアルフへ向き直った。


「午後から、お前だけ連れて出る」


 アルフは姿勢を正した。


「僕だけ、ですか」


「ああ」

「井戸の件があった集落だ」

「排水ポンプのアフターフォローに行く」

「それと、お前の謝罪もな」


 アルフの顔が引き締まる。


「……はい」


「亜人の集落とは違う」

「あっちは戻り線のない救済だった」

「今回の井戸は、排水できてれば大きな問題はない」

「だからこそ見ろ」


 アルフが顔を上げる。


 良樹は続けた。


「悲惨な顔だけが“後”じゃねえ」

「ちゃんと動いてることを確認するのも、後を見るってことだ」


「はい」


 良樹は次に、リシア、カレン、クラリスを見た。


「悪いが、リナたちを見てやってくれ」


 リシアは腕を組む。


「任せなさい」

「ただし、変な責任まで増やさないでよ」


「もう増えてるだろ」


「開き直らない」


 カレンは少し微笑む。


「あ、あの……私たちでできることなら」


 クラリスも頷いた。


「良い心がけです」


 良樹は半眼で見る。


「お前、それ気に入っただろ」


「はい」


「認めるのかよ」


   ◇


 午後。


 良樹はアルフだけを連れて、井戸の問題があった集落へ向かった。


 移動特化盤を使う。


 ただし、二人分を別々に運ぶ仕様ではない。


 だから、良樹がアルフを背負った。


「あの、師匠」

「本当に背負われるんですか」


「移動特化盤は二人分を別々に運ぶ仕様じゃねえ」

「俺が背負った方が早い」


「でも、その……」


「落ちるなよ」

「舌噛むぞ」


「はい、師匠!」


「師匠って呼ぶな」


 良樹の足元に、半透明の魔導盤が展開する。


 脚力補助。

 姿勢制御。

 着地補助。

 速度制限。

 停止条件。


 良樹はそれらを一つずつ確認してから、地面を蹴った。


 景色が流れる。


 速い。


 アルフは思わず良樹の肩にしがみついた。


 だが、怖くはなかった。


 足場を見ている。

 着地場所を選んでいる。

 速度を上げる場所と落とす場所を分けている。

 木の根を避け、石を踏まず、ぬかるみの手前で出力を落とす。


 速いのに、乱暴ではない。


「……師匠」


「何だ」


「速いのに、怖くありません」


「怖くないようにしてる」

「速いだけなら事故る」

「止まれる速度で走る」

「止まれる場所へ着地する」

「止まれない速度は、速いんじゃなくて危ないだけだ」


 アルフは、良樹の背中で呟いた。


「止まれる速度……」


「覚えとけ」


「はい」


「師匠って呼ばないのか」


「あっ」


「いや、そこは忘れとけ」


   ◇


 井戸の問題があった集落へ着いた。


 そこは、亜人集落とは空気が違っていた。


 悲壮な沈黙はない。

 人間の姿のまま俯く者もいない。

 村人たちは良樹の姿を見ると、少し安心したような顔をした。


「おお、良樹さん」

「来てくれたのか」


「その後を見に来た」

「排水の具合はどうだ」


「今のところ問題ない」

「水の引きもいい」

「前みたいに溜まらなくなった」


 良樹は頷いた。


 だが、それだけで終わらなかった。


「実物を見る」

「音も見る」

「水の流れも見る」

「詰まりかけてないか確認する」


 アルフは、横でその様子を見ていた。


 村人たちは困っていない。

 怒ってもいない。

 感謝すらしている。


 なのに、良樹はまだ見る。


 井戸の周り。

 排水の流れ。

 吸い込み口。

 魔石の状態。

 水路の出口。

 足場のぬかるみ。

 子どもが近づける場所。

 手を出せる隙間。

 停止用の魔石札。


「困ってから来るのは修理だ」

「困る前に見るのが点検だ」


 アルフは、小さく繰り返す。


「点検……」


「後を見るってのは、泣いてる奴の前で反省することだけじゃねえ」

「普通に動いてるものを、普通に動き続けるように見ることだ」


 良樹は吸い込み口に溜まった小枝を取り除いた。


「詰まりかけてる」

「今はまだ詰まってねえ」

「だから今取る」


 村人が慌てて覗き込む。


「そんな小枝でも駄目なのか?」


「今すぐ駄目にはならねえ」

「でも、ここに葉っぱや泥が絡む」

「絡んだところにまた枝が来る」

「流れが弱くなる」

「気づいた時には、水が引かなくなる」


 良樹は小枝を村人へ見せた。


「大きな故障は、小さい詰まりから始まる」


 アルフは息を呑んだ。


 良樹は次に、魔石の消耗を見る。


「消耗は少ないな」

「ただし、村の使い方次第で変わる」

「毎日この印を見ろ」

「ここまで減ったら連絡」

「無理に使い続けるな」


 村人は頷く。


「分かった」


「止め方は覚えてるか」


「この札を外す」


「そうだ」

「誰でも触れる場所に置くな」

「でも、必要な時に探さないといけない場所にも置くな」

「子どもが遊んで外せる位置は駄目だ」

「大人がすぐ取れる位置だ」


 村人が、思ったより真剣に聞いている。


 アルフはそれを見ていた。


 良樹は村人に教えている。

 自分だけではない。

 使う人にも、見方を渡している。


「便利なもんほど、止め方と詰まり方を見る」

「動いてる時は、みんな褒める」

「止まった時に困るのは、使ってる奴らだ」


「……はい」


 アルフの返事は、小さかった。


   ◇


 確認が一通り終わった後、アルフは村人たちの前に立った。


 良樹は少し離れていた。


 アルフは、深く頭を下げる。


「井戸の件で」

「僕は、ちゃんと後を見ずに手を入れました」

「すみませんでした」


 村人たちは、顔を見合わせた。


 亜人集落の時のような重苦しい空気ではなかった。

 怒りよりも、戸惑いがある。


「まあ、今は良くなってるしな」

「良樹さんが直してくれたし」


 その言葉を聞いて、アルフは少しだけ顔を上げかけた。


 だが、良樹が口を挟んだ。


「今良ければ全部いい、でもねえ」

「こいつが謝って終わりでもねえ」

「大事なのは、次からどうするかだ」


 村人たちは良樹を見る。


 良樹は、アルフではなく村人へ向けて言った。


「また何か便利な付与や道具を持ち込まれたら」

「すぐ使う前に聞け」

「誰が止めるのか」

「壊れた時どうするのか」

「子どもが触らねえか」

「そこを見る」


「なるほどな」


「疑えって話じゃねえ」

「使う前に、後を見る癖をつけろって話だ」


 村人たちは、ゆっくり頷いた。


 アルフは、横でその言葉を聞いていた。


 自分だけが学べばいいわけではない。

 使う側にも、見る力がいる。


 良樹は、謝罪を終わらせなかった。


 次へ繋げた。


   ◇


 一方その頃。


 良樹とアルフが出ていったあと、家の中には女たちだけが残された。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 そして、リナたち。


 台所には、水桶、野菜、干し肉、鍋、使い込まれた包丁が並んでいる。


 リシアは腕を組み、リナたちを見た。


「さて」

「良樹から、あんたたちの面倒を見るように頼まれたわけだけど」


 リナたちは背筋を伸ばした。


「よろしくお願いします、リシア様、カレン様、クラリス様」


「……様、ね」


 リシアは少し落ち着かない顔をした。


 カレンはほんのり頬を赤くする。


「で、でも……」

「悪い呼び方ではないと思います」


「カレン、そこで照れない」


 クラリスは、にこりと微笑んだ。


「良い心がけです」


「クラリス、便利に使いすぎ」


 リナたちは、そんな三人のやり取りを不思議そうに見ていた。


 英雄の妻たち。


 そう思っていた。


 けれど、目の前にいる三人は遠い存在ではなかった。

 強くて、美しくて、確かに良樹の隣に立つ女性たちなのに。

 よく笑い、照れ、言い合い、少しだけ慌てる。


 リナは、胸の前で手を握った。


「あ、あの」


 リシアが見る。


「何?」


「その、リシア様、カレン様、クラリス様にお聞きしたいことが……」


「聞きたいこと?」


 リナは少しだけ顔を赤くした。


「英雄……」

「いえ」

「良樹様との、馴れ初めを……」


 台所の空気が止まった。


 リシアの耳が赤くなる。

 カレンが持っていた野菜を落としそうになる。

 クラリスだけが、静かに目を細めた。


「馴れ初め」


 クラリスが、ゆっくりと繰り返した。


「良い質問です」


「良くないわよ!」


 リシアが即座に叫んだ。


「い、いえ」

「悪い質問ではないけど」

「料理中に聞くこと!?」


 カレンは真っ赤な顔で俯いた。


「な、馴れ初め……」

「良樹さんとの……」


 リナたちは真剣だった。


「私たち、知りたいんです」

「どうやって」

「どういうふうに、良樹様の隣に立てるようになったのか」


 リシアは、言い返そうとして止まった。


 茶化しだけではない。


 この子たちは、自分たちもアルフの隣に立ちたいのだ。

 止めたい。

 支えたい。

 でも、どうすればいいのか分からない。


 だから、良樹の妻たちの始まりを知りたい。


 リシアは、小さく息を吐いた。


「……分かったわよ」

「ただし、料理しながら」

「手を止めると、帰ってくる二人のご飯が遅れるわ」


「はい!」


   ◇


「最初は私ね」


 リシアは野菜を切りながら言った。


「良樹とは、川で会ったわ」


「川……」


「水辺で出会ったのですか?」


「運命的ですね……」


「違う」

「事故よ」

「完全に事故」


 リシアの包丁が、まな板にこつんと当たる。


「良樹は、突然空から川に落ちてきたの」

「私が水浴びしてるところに」


 リナたちの顔が、一気に赤くなった。


「み、水浴び……」


「良樹様が……?」


「先に言っておくけど、あいつは覗こうとしたわけじゃないわ」

「本当に落ちてきたの」

「意味が分からないでしょ」

「私も分からなかったわ」


 クラリスが穏やかに補足する。


「そして、リシアは良樹くんを氷漬けにしました」


「したわよ」

「当然でしょ」


 リシアは、少しだけ目を伏せた。


「最初の印象は最悪」

「変な服で、変な腰袋を持っていて」

「しかも、落ちてきた直後にまず工具を確認するような男だった」


 カレンが少し笑う。


「良樹さんらしいです」


「今ならね」


 リシアは小さく息を吐いた。


「でも、あいつは誤魔化さなかった」

「見るつもりはなかった、だけで逃げなかった」

「見た。見たのは事実だ。悪い、って言った」


 リナたちは黙って聞いていた。


「最悪の出会いだった」

「でも、そこで嘘をつかない男だった」

「そこから全部が始まったのよ」


   ◇


「カレン様は……?」


 リナたちの視線がカレンへ向いた。


 カレンは耳まで赤くなった。


「わ、私は……」

「最初に会ったのは、荷崩れの時です」


「荷崩れ?」


「はい」

「ニルが巻き込まれそうになって」

「その時に、良樹さんたちと一緒に……」


 カレンは少しだけ目を伏せた。


「でも」

「ちゃんと良樹さんを意識したのは」

「その後、二人で偵察に出た時だと思います」


 リシアが柔らかく見る。


「あの時ね」


「はい」


 カレンは、胸元で手を握った。


「私は、偵察先で足を挫きました」

「怖い場所を見ていたのに」

「戻る足場を見ていたはずなのに」

「それでも、失敗しました」


 一拍。


「良樹さんは、私を抱えて戻ってくれました」

「お姫様抱っこで」


 リナたちが息を呑む。


「お姫様抱っこ……!」


「良樹様が……!」


 カレンの顔が真っ赤になる。


「そ、そうです」

「でも、良樹さんは」

「照れたり、茶化したりしませんでした」


 カレンは、あの時の良樹の顔を思い出す。


「足元を見ていました」

「木の根を見ていました」

「戻る道を見ていました」

「私を揺らさないように」

「痛めた足をぶつけないように」

「ちゃんと帰ることだけを考えていました」


 声が、少し柔らかくなる。


「私は、その時思いました」

「良樹さんは、私を見ていない」

「でも、私を置いていない」


 リナたちは、静かに聞いていた。


「怖い私を」

「失敗した私を」

「荷物みたいにではなく」

「ちゃんと連れて帰る人でした」


 カレンは、小さく笑った。


「だから、怖いままでも」

「この人の隣に立っていいのかもしれないって」

「そう思ったんです」


   ◇


 最後に、リナたちはクラリスを見た。


「クラリス様は……」


「様」


 クラリスは、にこりと微笑んだ。


「良い響きですね」


「受け入れすぎよ」


 リシアが呆れる。


 クラリスは微笑んだまま、鍋をかき混ぜた。


「私も、最初に会ったのは荷崩れの時です」

「ただ、その時から良樹くんのことは好ましい殿方だと思っていました」


 リナたちが身を乗り出す。


「一目惚れですか?」


「はい」


 クラリスは当然のように頷いた。


「一目惚れです」


 カレンが真っ赤になり、リシアが額に手を当てる。


「相変わらず正面から言うわね……」


「事実ですので」


 クラリスは静かに続けた。


「ですが、決定的だったのは、その後です」

「私は、良樹くんに清楚な僧侶として見られたかった」

「可愛らしい女の子だと、思われたかった」


 鍋の火を、少し弱める。


「でも、戦いで見せてしまいました」

「私の本性を」


「本性……」


「はい」

「壊れたなら治せば済む」

「痛みは後で処理すればいい」

「誰かを守れるなら、自分の身体を少し壊すくらい構わない」

「そういう戦い方です」


 リナたちは、息を呑んだ。


 クラリスは、自分の右手を見た。


「良樹くんは、本気で怒りました」

「胸倉を掴んで」

「治せば済むという言い方をやめろ、と」

「お前が壊れていい理由にはならない、と」


 リシアも、カレンも黙った。


 クラリスの声は静かだった。


「その時、ついでに胸も見られました」


「クラリス!」


 リシアが叫ぶ。


 カレンが真っ赤になり、リナたちも一斉に顔を赤くした。


「だ、大事なことなのですか……?」


「大事です」


 クラリスは真顔で言った。


「良樹くんは全力で謝ってくださいました」

「ですが、私にとって本当に大きかったのは」

「見られたことではありません」


 一拍。


「清楚な僧侶の私も」

「好ましい殿方に見せたくなかった私も」

「痛みを、痛みとして数えなくなっていた私も」

「その全部を見て」

「私を、私のまま怒ってくださったことです」


 クラリスは、柔らかく微笑んだ。


「だから」

「私は良樹くんの隣に立ちたいと思いました」


   ◇


 リナたちは、しばらく言葉を失っていた。


 水浴び中の川に落ちてきた男。

 足を挫いたカレンを、お姫様抱っこで連れ帰った男。

 壊れたなら治せばいいと言ったクラリスを、本気で怒った男。


 どれも、ただの英雄譚とは少し違っていた。


 綺麗な出会いばかりではない。

 甘い言葉ばかりでもない。

 むしろ、事故で。

 気まずくて。

 怒られて。

 泣きそうになって。

 それでも、目を逸らさなかった時間だった。


 リナが、小さく呟いた。


「……皆さん」

「その時から、良樹様のことを……」


 リシアは、少しだけ苦笑した。


「そうね」

「気にはなっていたわ」

「でも、それだけで今みたいに好きになった訳じゃない」


 カレンも、胸元で手を重ねる。


「……そう、ですね」

「色んなことが、少しずつ」

「ちょっとずつあって」


 クラリスが、穏やかに頷いた。


「はい」

「今は、私たちは良樹くんを愛していますし」

「良樹くんも、愛してくれています」


 リシアは、少しだけ視線を逸らした。


「分かりにくいけどね」


 カレンが小さく笑った。


「……それは、そうですね」


 クラリスも微笑む。


「良樹くんですから」


 リナたちは、三人を見る。


 リシアは照れ隠しのように鍋をかき混ぜている。

 カレンは赤くなりながらも、柔らかく笑っている。

 クラリスは静かに、けれど迷いなく良樹への愛を口にしている。


 リナは、その姿を見て、少しだけ胸が熱くなった。


 好きになる、というのは。

 一度の出来事だけで決まるものではないのかもしれない。


 見て。

 助けられて。

 怒られて。

 怒って。

 支えて。

 止めて。

 それでも一緒にいたいと思う時間が、少しずつ積み重なっていく。


 その先に、今の三人がいる。


 リナは、自分の手を見た。


 アルフの袖を掴んだ手。

 止めたいと思った手。

 離したくないと思った手。


 自分たちは、アルフを好きだ。


 アルフの力がすごいと思った。

 自分たちを変えてくれるかもしれないと思った。

 救ってくれるかもしれないと思った。

 だから、惹かれた。


 けれど。


 それだけでは、まだ足りない。


 アルフがすごいから好き。

 アルフが自分たちを救ってくれそうだから好き。

 アルフが特別だから好き。


 それだけでは、たぶん隣には立てない。


 アルフを、アルフとして見なければならない。


 すごいところだけではない。

 間違えるところも。

 弱いところも。

 見ないまま進んでしまうところも。

 必要とされたいと焦るところも。

 自分の善意で誰かを傷つけてしまうところも。


 それを見た時、自分たちはどう思うのか。


 幻滅するかもしれない。

 怖くなるかもしれない。

 許せないと思うかもしれない。


 あるいは。


 それでも、もっと好きになるかもしれない。


 その答えは、まだ分からない。


 分からないからこそ、見なければならない。


 リナは、三人を見た。


 この人たちは、良樹のすごいところだけを見て妻になったのではない。


 面倒なところを見た。

 危ういところを見た。

 逃げるところを見た。

 壊れそうになるところを見た。

 それでも、隣に立つことを選んだ。


 だから今、妻としてここにいる。


 リナは、自分の手を握った。


 この手で、ただ縋るだけでは駄目なのだ。


 止めるために。

 支えるために。

 アルフを、アルフとして見るために。


 隣に立たなければならない。


 その方法を、学ばなければならない。


 リナは顔を上げた。


「リシア様」

「カレン様」

「クラリス様」


 三人が、リナを見る。


 リナは、少し震えながらも、目を逸らさなかった。


「私たちは」

「アルフがすごいから、好きになったのかもしれません」

「私たちを変えてくれるかもしれないって」

「救ってくれるかもしれないって」

「そう思ったのかもしれません」


 アルフのことを口にすると、胸が痛んだ。


 好きだ。

 それは嘘ではない。


 けれど、その好きの中に、自分たちの弱さも混ざっていたのだと、今は分かる。


「でも」

「それだけでは、駄目なんですよね」


 リシアは、何も言わなかった。


 カレンも。

 クラリスも。


 リナは続けた。


「アルフを」

「アルフとして見たいです」

「すごいところだけじゃなくて」

「間違えるところも」

「弱いところも」

「見ないまま進んでしまうところも」


 一拍。


「それを見た時に」

「私が、どう思うのか」

「幻滅するのか」

「もっと好きになるのか」

「まだ分かりません」


 リナは、胸元で手を握る。


「だから」

「知りたいです」

「どうやって見るのか」

「どうやって隣に立つのか」

「どうやって、好きな人を止めるのか」


 リナの後ろで、他の少女たちも頷いた。


「私たちも、知りたいです」

「アルフを、ちゃんと見たいです」

「隣に立ちたいです」


 リシアは、小さく息を吐いた。


 その顔は、少しだけ優しかった。


「……いいじゃない」

「それが分かってるなら、最初の一歩としては十分よ」


 カレンは、柔らかく頷いた。


「怖くても、見ようとしているなら」

「もう、始まっていると思います」


 クラリスは、満足げに微笑んだ。


「良い心構えです」


 カレンが小さく首を傾げる。


「意味は変わってないような……」


 リシアが額に手を当てた。


「言い方だけ変えればいいって訳じゃないのよ……」


 クラリスは、少しだけ目を丸くした。


「あら」


 小さな笑いが、台所に落ちた。


   ◇


「……私たちも」

「そうなれるでしょうか」


 リナが小さく聞いた。


 リシアは、鍋から目を離さずに答えた。


「なれるかどうかじゃないわ」

「なるのよ」


 リナが顔を上げる。


 リシアは、少しだけ照れたように言った。


「ただ待つんじゃない」

「帰ってくる場所を作る、だけでもない」


 一拍。


「疲れて」

「汚れて」

「失敗して」

「それでも、ここに帰りたいと思う」

「そういう場所に」

「自分がなるのよ」


 リナたちは、息を呑んだ。


「自分が……」


「ええ」


 リシアは少しだけ柔らかく笑う。


「私は、良樹にとって、そういう場所になりたい」

「だから、ご飯も作る」

「怒る時は怒る」

「無理をしたら止める」

「帰ってきたら、ちゃんと迎える」


 カレンは、優しく続けた。


「でも、何でも許すこととは違います」

「帰ってきてほしいからって、全部受け入れてしまうと」

「その人は、帰るのではなく、甘えに来るだけになります」


 クラリスも頷く。


「帰る場所とは」

「相手を壊さず」

「自分も壊れず」

「互いに戻ってこられる場所です」


 リナは、両手を胸の前で握った。


「……私も」

「アルフにとって」

「そういう場所になりたいです」


 リシアは、少しだけ笑った。


「なら、まずは焦げないように鍋を見なさい」


「は、はい!」


 台所に、少しだけ笑いが生まれた。


 リシアは、リナたちへ野菜を渡す。


「好きな男を知りたいなら」

「帰ってきた時の顔を見ること」

「疲れている時」

「腹が減っている時」

「失敗した後」

「上手くいった後」

「その時に、どんな顔で帰ってくるかを見ること」


 カレンも続ける。


「食べている時は、少し分かります」

「無理している時」

「安心している時」

「考え込んでいる時」

「隠そうとしている時」


 クラリスが静かに言う。


「身体も、心も」

「帰ってきた時に少し緩みます」

「そこを見るのです」


 リシアは、鍋を見ながら言った。


「だから今日は」

「二人が帰ってきた時に」

「ああ、ここに帰ってきてよかったって思えるご飯を作る」


 一拍。


「それが、あんたたちの最初の課題よ」


 リナたちは、真剣に頷いた。


「はい!」


 台所に、包丁の音と、水の音が戻った。


 リナたちは、もう先ほどまでのようにただ緊張しているだけではなかった。


 学ぶために、手を動かしていた。


   ◇


 帰り道。


 良樹は、来た時と同じようにアルフを背負っていた。


 移動特化盤の脚力補助は、行きよりも少しだけ出力を落としている。


 集落での確認は終わった。


 排水ポンプは動いていた。

 吸い込み口に大きな詰まりはない。

 水の引きも悪くない。

 村人たちも、使い方を覚え始めていた。


 問題がないことを見た。


 それもまた、後を見ることだった。


 アルフは、良樹の背中でしばらく黙っていた。


 走る速度は速い。

 けれど、怖くはない。


 良樹は足場を見ている。

 着地する場所を見ている。

 速度を上げる場所と落とす場所を分けている。

 無理に突っ込まない。

 止まれる速度で進んでいる。


 速いのに、乱暴ではない。


 アルフは、小さく息を吸った。


「……師匠」


「師匠じゃねえって何回も言わせんな!」


 良樹は即座に返した。


 だが、速度は乱れない。


 アルフは、良樹の肩越しに前を見る。


「師匠は」

「どうやって、このようなことを覚えたんですか?」


 良樹は、少しだけ黙った。


 足元の石を避け、木の根を踏まない場所へ着地する。

 次の一歩で、少し出力を落とした。


「俺は、ガキの頃から親父に叩き込まれた」

「家業の手伝いって名目でな」


「家業、ですか」


「ああ」

「親父は電気屋だった」

「俺も子どもの頃から、現場に連れ回された」


 アルフは、背中の上で少しだけ身を固くした。


「子どもの頃から……」


「十歳くらいの頃からだったか」

「こっちの世界では、早くもないみたいだが」

「俺のいた日本では、かなり早かったな」


「十歳から、ですか」


「ああ」


 良樹は短く笑った。


「最初の頃は、毎日親父に拳骨を食らってたな」


 アルフの指が、良樹の肩に少しだけ力を込めた。


「拳骨……」


「ああ」

「危ない手の出し方をしたら、すぐだ」

「図面を見ないで触ろうとしたら一発」

「止め方を見ないで動かそうとしたら一発」

「勝手に判断して端子に触ろうとしたら、もっと重い一発」


 アルフは何も言えなかった。


 良樹は、前を見たまま続ける。


「電気は目に見えねえんだ」

「ちょっとしたことでも命取りになる」

「電気を舐めるな」

「見えないからこそ、確認しろ」

「動かす前に、止め方を考えろ」

「親父には、そんなことばっか言われてた」


 アルフは、眉を寄せた。


「電気……?」


「こっちで言うと、魔力みたいなもんか」

「生活のほとんどを支えてる力だ」

「灯りをつける」

「機械を動かす」

「物を冷やす」

「水を汲み上げる」

「遠くと連絡を取る」

「そういうもんを支えてた」


「魔力みたいに……生活を」


「ああ」

「便利だ」

「だが、舐めると死ぬ」

「便利なもんほど、止め方を見ろ」

「親父は、それを身体に叩き込んだ」


 アルフは黙った。


 良樹の言葉が、胸の奥へ落ちていく。


 拳骨。


 アルフは、思い出していた。


 良樹に殴られた時のことを。


 怖かった。

 痛かった。

 悔しかった。

 情けなかった。


 だが、今なら分かる。


 あれは、ただの怒りではなかった。

 ただの制裁ではなかった。


 良樹は、あの時、止めたのだ。


 これ以上間違えるなと。

 これ以上、見ないまま進むなと。

 自分の力を舐めるなと。


 まだ何の関係もなかった自分に。

 弟子でもなく。

 仲間でもなく。

 ただ危うい力を持っただけの自分に。


 良樹は、自分が父から受け取ったものを、渡してくれた。


 乱暴でも。

 痛くても。

 止めるために。

 教育するために。


 アルフは、良樹の背中で唇を噛んだ。


「――僕」


 良樹は何も言わない。


 アルフは、ゆっくりと言葉を出した。


「僕、頑張ります」

「やります」


 一拍。


「だから」

「これから、指導をお願いします」

「師匠」


 良樹は、すぐには返さなかった。


 いつもなら、反射で返ってくるはずだった。


 師匠って呼ぶな。


 そう言うはずだった。


 けれど、良樹は言わなかった。


 ただ、少しだけ速度を落とした。


 足場の良い場所へ着地する。

 そこで一度、息を吐く。


「……簡単じゃねえぞ」


「はい」


「俺も、人に教えるのが上手いわけじゃねえ」

「腹が立ったら怒る」

「危ないことをしたら止める」

「場合によっちゃ、また拳骨もある」


「はい」


「泣き言も聞かねえ時がある」


「はい」


「でも」

「分からねえことを、分かったふりはさせねえ」

「危ないことを、危ないままやらせねえ」

「やった後を、見ないまま終わらせねえ」


 アルフは、良樹の背中で深く頷いた。


「はい」


 良樹は前を見る。


 夕方の光が、木々の隙間から差していた。


「なら、まず覚えろ」

「生活も」

「仕事も」

「謝罪も」

「点検も」

「全部、後がある」


「はい、師匠」


 良樹は、今度も否定しなかった。


 ただ、少しだけ面倒くさそうに言った。


「……落ちるなよ」


「はい」


「舌噛むぞ」


「はい」


 移動特化盤が、再び立ち上がる。


 良樹は走り出した。


 アルフは、その背中にしがみついた。


 その背中は、師匠の背中だった。


   ◇


 夕方。


 良樹とアルフが戻ると、家の中には温かい匂いが広がっていた。


 スープ。

 焼いたパン。

 干し肉と野菜を煮込んだもの。

 香草の匂い。


 アルフは、玄関で足を止めた。


「……いい匂いがします」


 リナが、台所から顔を出した。


「おかえり、アルフ」


 その一言に、アルフは一瞬止まった。


 これまで、自分は必要とされることばかり考えていた。


 役に立ちたい。

 認められたい。

 誰かを救いたい。

 すごいと言われたい。


 けれど今は、帰ってきたらご飯がある。

 待っている人がいる。


 それだけで、胸の奥に何かが落ちてきた。


 良樹は、その横顔を見た。


「食え」

「疲れてる時は、まず飯――」


 そこで、良樹は三人の妻を見た。


 リシアが、じっと見ている。

 カレンも、少しだけ笑っている。

 クラリスは、にこりと微笑んでいる。


 良樹は、言い直した。


「……ご飯だ」


 リシアが半眼になる。


「今、言い直したわね」


「気のせいだ」


 クラリスが満足げに頷いた。


「良い心がけです」


「お前それ本当に好きだな」


   ◇


 食卓を囲んだ。


 良樹とアルフは、井戸集落で見たことを話した。


 排水ポンプが動いていたこと。

 詰まりかけていた小枝。

 魔石の消耗。

 止め方の確認。

 村人たちに、使う前に後を見る癖をつけるよう話したこと。


 リシアたちは、料理を作りながらリナたちと話したことを簡単に話した。


 馴れ初めの話は、良樹の前ではかなり省略された。


 なぜかリシアは水浴び事故の詳細を伏せ。

 カレンはお姫様抱っこのところで真っ赤になり。

 クラリスは胸倉説教の話をしようとして、リシアに止められた。


 良樹は、何かを察して黙っていた。


 そして、アルフがリナたちの作った煮込みを口にした。


 ゆっくり噛む。


 飲み込む。


 そして、少しだけ驚いたように顔を上げた。


「おいしい」


 リナたちの顔が、ぱっと赤くなった。


「良かった」


 アルフは、もう一口食べた。


 その顔は、少し疲れていた。

 少し考え込んでいた。

 でも、緩んでいた。


 リナたちは、それを見ていた。


 帰ってきた時の顔を見ること。

 食べている時に少し緩むところを見ること。

 好きな人を、すごいところだけではなく、そのまま見ること。


 リシアの言葉を思い出す。


 アルフは、リナたちを見た。


「ありがとう」

「おいしいよ」


 リナたちは、ますます赤くなる。


 良樹は、スープを飲みながら言った。


「帰ってきて食えるもんがあるってのは、当たり前じゃねえ」

「礼はちゃんと言っとけ」


「はい、師匠」


 良樹は一瞬、口を開きかけた。


 だが、閉じた。


 リシアがそれに気づき、少しだけ目を細める。

 カレンも柔らかく笑う。

 クラリスは満足げに頷く。


「良い心がけです」


「クラリス」

「その締め方、定着させるな」


「あら」


   ◇


 食事が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 良樹は、ふと今日一日を振り返る。


 朝は裸の寝台にアルフが突撃。

 午後は井戸集落のアフターフォロー。

 帰り道では、アルフが師匠として指導を願った。

 その間に、三人の妻はリナたちへ馴れ初めと、隣に立つ方法を教えていた。

 夜には、ご飯が待っていた。


 良樹は、短く息を吐いた。


「……なんだ」

「ちゃんと二本立てで進んでるじゃねえか」


 リシアが首を傾げる。


「何よ、二本立てって」


「男は仕事の後を見て」

「女は帰りたいと思う場所を作ってた」


 リシアの耳が、少し赤くなる。


「言い方」


 カレンは、少し照れたように微笑んだ。


「で、でも……悪くないです」


 クラリスは、いつものように目を細めた。


「良い心構えです」


 カレンが小さく呟く。


「やっぱり、意味は変わっていないような……」


 リシアは額に手を当てる。


「言い方だけ変えても駄目って、さっき言ったばかりでしょ……」


 クラリスは、首を傾げた。


「あら」


 小さな笑いが、食卓に広がった。


 重かった昨日の後。


 良樹はアルフに、仕事の後を見ることを教えた。


 三人の妻はリナたちに、

 帰ってくる場所を作るのではなく、

 帰りたいと思う場所に自分がなることを教えた。


 この世界で生きるということは、

 力を使うことだけではない。


 謝りに行くこと。

 点検すること。

 ご飯を作ること。

 誰かが帰りたいと思う自分でいること。


 そういう、小さなことの積み重ねだった。


 食事の片付けが終わる頃、アルフが良樹へ頭を下げた。


「明日もよろしくお願いします、師匠」


 良樹は、少しだけ黙った。


 アルフが不安そうに顔を上げる。


 良樹は、面倒くさそうに言った。


「……朝はもう少し遅く来い」


 アルフの顔が明るくなる。


「はい、師匠!」


 良樹は今度も、師匠って呼ぶなとは言わなかった。


 リシアはそれに気づいて、少しだけ笑った。

 カレンも、柔らかく目を細めた。

 クラリスは満足げに頷いた。


「良い心構えです」


「お前はそれ禁止な」

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