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第98話 後を見る場所(挿絵有)

 戦闘が終わった。


 そう判断したのは、魔物が倒れた瞬間ではなかった。


 良樹は打撃腕を消さず、周囲を見回していた。


「怪我人確認」

「馬車確認」

「荷物確認」

「道の損傷確認」

「敵性反応、なし」


 短く、順番に確認していく。


 リシアは空から降り、飛翔翼を解除した。

 カレンは形状可変剣を通常の剣へ戻し、周囲へ視線を走らせている。

 クラリスは手甲を消し、倒れた魔物の動きが完全に止まったことを見届けていた。

 クリスは軽く肩を回しながら、何事もなかったように馬車へ戻っていく。


 それを、アルフは見ていた。


 強い。

 それはもう分かっていた。


 だが、アルフが今見ていたのは、強さそのものではなかった。


 戦い終えた後の、確認だった。


「よし、進める」


 良樹がそう言って、ようやく全員が動き出す。


 アルフの胸の奥に、昨夜の言葉が蘇った。


 やった後は必ず確認しろ。


 それは、ただの説教ではなかった。

 良樹の中にある、当たり前の手順だった。


 アルフは、自分の袖を掴んでいる手に気づく。


 リナだった。


 昨日は、止めるために掴まれた。

 今は、離れないために掴まれている。


 アルフは、その手を振り払わなかった。


     ◇


 馬車は、再び北東の山裾へ向かって進んでいた。


 車内は静かだった。


 誰も、さっきの戦闘を誇らない。


 けれど、アルフたちは忘れられなかった。


 リシアは空を飛んだ。

 風をまとい、上空から魔物を撃ち抜いた。


 カレンの剣は、届くはずのない距離を斬った。

 しかも、怖い場所へ先に刃を置くように、仲間の背後まで守っていた。


 クラリスは、僧侶のはずだった。

 それなのに、巨体の魔物を一撃で沈めた。


 クリスは、細身の身体で中型の魔物を吹き飛ばした。

 軽口を叩きそうな顔をしながら、足運びは鋭く、身体の使い方は静かに冷えていた。


 そして良樹は。


 良樹は、それらを繋いでいた。


 前へ出る者。

 空から見る者。

 怖い場所へ刃を置く者。

 崩す者。

 止める者。


 全てを見て、動かして、止めていた。


 アルフは、ようやく理解し始めていた。


 昨日、良樹たちは自分たちを倒せなかったのではない。


 倒せた。


 勝てた。

 潰せた。


 それでも、話した。


 止めろと言った。

 見に戻れと言った。


 自分は、力を得てからずっと、必要とされることばかり考えていた。

 助ければ必要とされる。

 救えば認められる。

 自分の力があれば、誰かの役に立てる。


 そう思っていた。


 けれど、良樹たちは違った。


 勝つために力を振るっていたのではない。

 守るために、力を繋いでいた。


「……」


 アルフは、膝の上の拳を握った。


 リナの手は、まだ袖にあった。


     ◇


 施療院は、山裾にあった。


 小さな礼拝堂。

 施療室。

 中庭。

 井戸。

 裏手には、訓練場らしき場所がある。


 木製の打ち込み台。

 砂袋。

 丸太。

 踏み固められた地面には、何度も足運びを繰り返した跡があった。


 クラリスの実家。


 そう聞いていなければ、アルフはここが施療院だとは思わなかったかもしれない。


 治す場所であり。

 鍛える場所でもある。


 そんな空気があった。


 入口には、フィルが立っていた。


 クラリスの父。

 大きな身体。

 年齢を感じさせる落ち着き。

 だが、その目は鈍っていない。


 フィルは良樹たちを見ると、短く頷いた。


「来たか」


「はい」


 良樹が頷く。


 フィルの目が、アルフへ移った。


 その瞬間、空気が少し変わった。


「お主が、あの石を作った者か」


 低い声だった。


 アルフは、喉が詰まるのを感じながらも、頭を下げた。


「……はい」

「僕が、やりました」


「そうか」


 フィルは怒鳴らなかった。

 責め立てもしなかった。


 だが、それが逆に重かった。


「なら、見るがよい」

「お主の善意の、その後を」


 アルフの胸が、小さく痛んだ。


 隣でクリスが、いつものように軽く肩をすくめる。


「良樹君」

「ここから先は、父上も僕も少し真面目だ」

「珍しいだろう?」


「自分で言うな」


 良樹が呆れたように返す。


 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 だが、アルフの足は重かった。


     ◇


 最初に見たのは、施療院へ来ていた若者だった。


 人間の姿をしていた。


 耳はない。

 尾もない。

 亜人だと分かる特徴は、ほとんど見えない。


 だが、その若者は施療台の端に座り、俯いていた。


 怪我をしているようには見えない。

 病に倒れているようにも見えない。


 それでも、顔はひどく疲れていた。


 フィルが短く説明する。


「町へ行った者だ」

「人間の姿になってな」


 アルフの指が、わずかに震えた。


 人間になった。

 それは、自分が与えた可能性だった。


 亜人として差別されている者たち。

 人間の町で働きたい者たち。

 人間と同じように見られたい者たち。


 彼らが望むなら、人間の姿になれる。

 そうすれば、苦しみから抜け出せる。


 アルフは、そう思っていた。


 フィルは続ける。


「最初は、うまくいったそうだ」

「仕事も見つかった」

「人間として扱われた」


 若者の肩が震えた。


「だが、ばれた」


 良樹が静かに聞く。


「元亜人だってことが、ですか」


「そうだ」


 見た目は人間でも、消えないものはある。


 言葉。

 癖。

 食事の仕方。

 水の飲み方。

 眠る時の姿勢。

 驚いた時、あるはずのない耳を押さえようとする手。

 座る時、もうない尾を避けるような動き。


 何かが、どこかで、ばれた。


 そして。


「町から追い出された」

「人間の姿のまま、ここへ戻ってきた」


 アルフは、何も言えなかった。


 助けたつもりだった。


 人間になれれば、楽になれると思っていた。

 差別から抜け出せると思っていた。

 居場所ができると思っていた。


 だが、違った。


 人間の姿になっても、人間社会に受け入れられたわけではなかった。

 亜人としての過去は消えなかった。

 そして戻ってきても、元の姿には戻れない。


 良樹が、小さく息を吐いた。


「人間になれる」

「それは、出口に見えたんだろうな」


 アルフは俯く。


 良樹の声は責めるだけのものではなかった。

 だが、逃げ道もなかった。


「でも、戻り線がない出口は」

「出口じゃねえ」

「片道の穴だ」


 アルフの胸に、その言葉が刺さった。


 片道の穴。


 自分は、それを出口だと思って差し出した。


     ◇


 施療院で話を聞いた後、フィルは山側の道を示した。


「施療院に来た者だけが、後ではない」

「村には、まだ来られぬ者もおる」

「来たくても、来られぬ者もな」


 良樹は頷いた。


「なら、村へ行く」

「アルフ」


 呼ばれて、アルフは顔を上げた。


「そこまで見て、初めて後を見たことにする」


「……行きます」


 声は震えていた。

 だが、逃げる言葉ではなかった。


 その時、リナがアルフの袖を強く掴んだ。


「私も行く」


 アルフは一瞬、言いかけた。


 危ない。

 見なくていい。

 これは僕の問題だ。


 だが、その言葉は喉で止まった。


 リナは昨日、止めた。

 今日も、見ようとしている。


 自分だけが背負うような顔をすることも、きっと違う。


「……うん」


 アルフは頷いた。


 リナの手は、離れなかった。


     ◇


 亜人の集落は、静かだった。


 ただ静かなのではない。


 見ている。


 そんな静けさだった。


 良樹たちが入ると、村人たちの視線が集まった。

 敵意。

 警戒。

 不安。

 期待。

 怒り。


 全部が混ざっている。


 その中に、人間の姿をした者たちがいた。


 耳はない。

 尾もない。

 鱗も、牙も、角もない。


 人間と変わらない姿。


 だが、その者たちは亜人の集落の奥に座っていた。


 人間の姿で。

 戻ってきていた。


 ロブが、前へ出た。


 リナの兄。

 良樹たちと歳の近い、亜人の青年。


 その目は、アルフを一度だけ見た。

 怒りはある。

 だが、それだけではない。


「……リナ」


 ロブが妹の名を呼んだ。


 リナは、アルフの袖を掴んだまま、兄を見た。


「兄さん」


「戻ってきたのか」


「……うん」

「見に、来た」


「見に?」


「アルフがしたこと」

「私が、ついて行ったこと」

「その後を」


 ロブは言葉に詰まった。


 怒りたい。

 責めたい。

 なぜ戻ってきたのかと問いたい。

 なぜまだアルフの袖を掴んでいるのかと叫びたい。


 だが、リナの目は逃げていなかった。


 ロブは低く言った。


「お前」

「まだ、そいつの袖を掴むのか」


 リナは、自分の手を見た。


 昨日は、止めるために掴んだ。

 今日は、一緒に見るために掴んでいる。


「掴む」

「でも、前とは違う」


「何が違う」


「アルフが間違えたら、止める」

「逃げようとしたら、止める」

「私も、見なかったことにしない」


 ロブは妹を見たまま、歯を食いしばった。


「……兄さんには分からないって言ったよな」


 リナの顔が揺れた。


「俺は、今でも分からねえよ」

「お前が、どれだけ自分の姿を嫌ってたのか」

「どれだけ人間になりたかったのか」

「分かってやれなかった」


「兄さん……」


「でも」

「お前が戻ってきたなら」

「せめて、話くらい聞かせろ」


 リナの手が震えた。


 アルフの袖を掴んだまま、リナは小さく頷く。


「うん」

「話す」

「私も、逃げない」


 そのやり取りを、アルフは横で見ていた。


 自分は、リナを救ったつもりだった。


 だが、自分の石は、リナとロブの間にあった言えなかったものまで、表へ引きずり出していた。


 助けた。

 そう言うには、あまりにも粗すぎた。


     ◇


 村の奥で、良樹たちは話を聞いた。


 人間の姿になった者。

 使おうとしてやめた者。

 使わなかったことで責められた者。

 家族に止められた者。

 人間になって町へ行き、元亜人だとばれて戻ってきた者。


 それぞれに、後悔があった。


 人間になったことを後悔している者。

 人間になれば受け入れられると思ったことを後悔している者。

 戻ってきたことを恥じている者。

 戻る場所があるはずなのに、そこに座ることすら苦しくなっている者。


 アルフは、何度も息を詰まらせた。


 謝りたい。

 そう思った。


 だが、謝れば終わるのか。


 謝って、自分が少し楽になるだけではないのか。


 昨夜の良樹の言葉が、胸の奥で重く残っていた。


 見る。

 後を見る。


 アルフは、何も言えずに立っていた。


 その時、人間の姿になった若者の一人が、小さく言った。


「……戻れるのか」


 その声は、かすれていた。


「元の姿に」

「戻れるのか」


 アルフは反射的に顔を上げた。


 魔力の流れは、見える気がした。

 自分がかけた付与に近いもの。

 身体の奥に絡む変化。

 それを外せば、もしかしたら。


「……戻せるかもしれません」

「付与を外せば、たぶん」


「待て」


 良樹の声が、即座に割って入った。


 アルフは振り向く。


 良樹の目は、鋭かった。


「お前、付与を解除したことはあるのか」


 アルフは言葉に詰まった。


「……ありません」

「付与は、かけるものだと思っていました」

「外す必要なんて、考えたことが……」


「じゃあ駄目だ」


 良樹は即答した。


「でも、流れは見えています」

「理屈では――」


「理屈で人の身体を試験台にするな」


 良樹の声は低かった。


「お前が初めてやる解除を」

「いきなり人体で試すんじゃねえ」


 アルフは息を呑む。


 良樹は村人へ目を向けた。


「適当な石を持ってきてくれ」

「壊れてもいいやつだ」


 村人の一人が、黙って石を持ってきた。


 良樹はそれをアルフの前に置いた。


「その石に、軽い付与をかけろ」

「割れにくくするでも」

「少し光らせるでもいい」

「効果が分かるやつだ」

「ただし危なくないやつにしろ」


「……はい」


 アルフは石に手をかざした。


 小さく、光る付与をかける。

 石の表面に淡い光が宿った。


「次」

「それを解除しろ」


 アルフの手が止まる。


「……解除」


「そうだ」

「今ここでやるのは、戻せるかじゃねえ」

「付けたものを、安全に外せるかだ」


 アルフは石を見る。


 付与をかける時とは違った。

 力を流し込むのではない。

 結んだものを見る。

 絡んだ糸を探る。

 それをほどく。


 そうしようとした瞬間。


 ぱきり、と音がした。


 石にひびが入った。


「っ……!」


「止めろ」


 良樹が言った。


 アルフは手を止める。


 ひび割れた石。

 淡い光は消えていた。

 だが、石そのものも割れていた。


 良樹は石を見てから、アルフを見た。


「今のを人体でやってたらどうなってた」


 アルフは答えられない。


「……分かりません」


「分からねえなら、やるな」

「分かるところまで落とせ」

「小さくしろ」

「危なくない物で試せ」

「壊れても取り返しがつくもので試せ」


 アルフは、ひび割れた石を見つめた。


 もしこれが、人の身体だったら。


 背筋が冷えた。


 二つ目の石。

 今度は、さらに小さな付与をかける。


 解除する。


 今度は、光だけが消えた。

 だが、石の表面がわずかに削れていた。


 良樹がそれを見る。


「今のは解除できた」

「でも影響が残った」


「……はい」


「つまり、身体を戻せても」

「何か残る可能性がある」


 三つ目。

 もっと小さく。


 リシアが魔力の流れを見る。

 クラリスとフィルが、負荷の出方を見る。

 良樹が、何をしたか、どう変わったかを一つずつ確認していく。


 アルフは初めて、付与を外すという行為の入口に立った。


 だが、それは入口でしかなかった。


 良樹は言った。


「今日は人には使わない」


 アルフは、すぐに頷いた。


「……はい」


「戻せる可能性はある」

「でも、戻せる力をまだ扱えてねえ」

「なら今やるのは解除じゃない」

「記録と分類と、後日の準備だ」


 アルフは、ひび割れた石を見た。


 今までの自分なら、言っていたかもしれない。


 僕ならできます。

 僕が助けます。

 僕の力なら。


 けれど、今は違う。


 アルフは、村人たちへ向き直った。


「今の僕には」

「まだ、できません」


 声が震えた。


「だから、できるようになります」

「できるようになってから、必ず戻ってきます」


 村人たちは黙っていた。


 信じるとも。

 許すとも。

 言わなかった。


 それで当然だった。


     ◇


 良樹は村人たちを見渡した。


「今日ここで全部戻すとは言わねえ」

「言えねえ」

「今やれば、助けるつもりでまた壊すかもしれねえからだ」


 誰も笑わない。


 良樹は続けた。


「だが、放り出すわけでもねえ」

「戻りたい奴」

「戻りたくない奴」

「迷ってる奴」

「町へ行って戻ってきた奴」

「家族と揉めてる奴」

「まず分ける」

「記録する」

「施療院とギルドを通す」

「アルフには解除の練習をさせる」

「扱えるようになったら、必ずまた来る」


 アルフも頭を下げた。


「……来ます」

「必ず」

「僕が、戻せるようになってから」

「勝手にではなく」

「手順を作って」

「確認して」

「必ず、戻ってきます」


 村人の一人が、低く言った。


「……信じろっていうのか」


 アルフは、すぐには答えられなかった。


 代わりに良樹が答えた。


「信じろとは言わねえ」

「信じられる材料を積む」

「今日は、その一個目だ」


「材料?」


「ああ」

「勝手に触らなかった」

「失敗を見せた」

「できないことをできないと言った」

「次に来ると言った」

「それを守る」

「そういう材料だ」


 フィルが腕を組み、頷いた。


「信用とは、積むものだ」


 クリスが横で微笑む。


「父上にしては、ずいぶん綺麗にまとめましたね」


「殴るぞ、クリス」


「失礼」


 少しだけ、空気が緩んだ。


 だが、問題が軽くなったわけではない。


 その時、良樹は隣のロブへ目を向けた。


「ロブ」


 ロブは、人間の姿のまま俯いている者たちを見ていた。


 良樹が何を言おうとしているのか、分かっていたようだった。


「分かってる」


 低い声だった。


「あいつらが後悔してるのは、元の姿に戻れないことじゃない」


 アルフが顔を上げた。


 リナも、兄を見る。


 ロブは続けた。


「元の姿に戻れても、後悔はきっと消えない」

「町へ行ったこと」

「人間になれば楽になれると思ったこと」

「ばれて、追い出されたこと」

「戻ってきた時に、自分が何者か分からなくなったこと」

「そういうのは、姿を戻しただけじゃ消えねえ」


 リナが唇を噛んだ。


 ロブは、一度だけ妹を見た。

 そして、もう一度、村の者たちへ視線を戻した。


「だから」

「俺たちが、あいつらを後悔の先に連れ出す」


 良樹は、少しだけ目を細めた。


「――そうだな」

「分かってくれてたら、いい」


 良樹は頷いた。


 これなら、話せる。

 これなら、進められる。


 姿を戻す話だけではない。


 後悔の先へ、どう連れ出すか。


 そのための手順を作る話だった。


     ◇


 村では、簡単な方針だけを決めた。


 戻りたい者。

 戻りたくない者。

 迷っている者。

 人間社会へ戻りたい者。

 亜人の集落で生き直したい者。

 家族と話し合う必要がある者。


 まず分ける。


 本人に聞く。

 家族にも聞く。

 ただし、家族の都合だけで決めない。


 良樹はそこを強く言った。


「戻すことを目的にするな」

「本人がどう生きたいかを先に見る」

「姿を戻しても、生活が戻らなきゃ意味がねえ」

「それに、戻りたくない奴まで戻すな」

「人間の姿で生きたい奴もいる」

「その選択まで、なかったことにするな」


 アルフは、ひとつひとつ聞いていた。


 リナも聞いていた。


 ロブは黙っていたが、その目は村の者たちを見ていた。

 怒りだけではない。

 これから何をしなければならないかを、考えている目だった。


 良樹は最後に言った。


「この件は、ギルドへ報告する」

「俺たちだけで勝手に進める話じゃねえ」

「アルフの力も、村の対応も、施療院とギルドを通す」


 村人たちは、すぐには納得しなかった。


 だが、反対もしなかった。


 それが、今日積めた材料の限界だった。


     ◇


 街へ戻る道中、アルフは静かだった。


 だが、目は逃げていなかった。


 リナはまだ、袖を掴んでいる。


 逃がさないためだけではない。

 一緒に戻るための手だった。


 良樹は馬車の中で、深く息を吐いていた。


 リシアが横目で見る。


「また、面倒ごとを抱えた顔してるわね」


「抱えたんじゃねえ」

「抱えさせられそうなんだ」


「同じじゃない」


「違う」

「俺の中では違う」


 カレンが少し困ったように笑う。


「あの……でも」

「放っておけないですよね」


「それを言うな」

「逃げ道が減る」


 クラリスは、静かに微笑んだ。


「良樹くんは、逃げませんから」


「逃げ道を塞ぎながら言うな」


 クリスが楽しそうに肩をすくめる。


「良樹君」

「君は本当に、面倒ごとに好かれるね」


「こっちから惚れた覚えはねえよ」


「相手が惚れているなら仕方ない」


「面倒ごとを恋愛みたいに言うな」


 ほんの少しだけ、馬車の中に笑いが戻った。


 だが、アルフは笑えなかった。


 それでも。


 前を見ていた。


     ◇


 ギルドの奥部屋。


 ガレスは、報告を黙って聞いていた。


 良樹。

 リシア。

 カレン。

 クラリス。

 アルフ。

 リナたち。

 クリス。


 それぞれが席につき、あるいは立ったまま、話を終える。


 ガレスはしばらく黙っていた。


 そして、アルフを見た。


「坊主」


「……はい」


「何を見てきた」


 アルフは、一度目を伏せた。


 人間の姿のまま亜人の集落へ戻ってきた者。

 元の姿に戻れないことではなく、その選択そのものを後悔していた者。

 人間になれば楽になれると思った者。

 ばれて追い出された者。

 戻ってきて、自分が何者か分からなくなった者。

 ひび割れた石。

 自分が解除すらしたことがなかった事実。


 アルフは顔を上げた。


「……自分の未熟さと」

「それで振り回してしまった人たちが、苦しむ姿です」


 声は震えていた。


 けれど、目は逃げていなかった。


 ガレスは、しばらくアルフを見ていた。


「そうか」


 短く言って、椅子の背に身体を預ける。


「なら、次は俺から言う」


 アルフは背筋を伸ばした。


「お前がやったことは軽くねえ」

「井戸、ナイフ、亜人の身体」

「どれも、一歩間違えば人が死ぬ」

「いや、死ななかったから軽いって話でもねえ」

「生きてる奴の生活を振り回した」

「そこは忘れるな」


「……はい」


 アルフは頭を下げる。


 ガレスは続けた。


「だがな」

「俺は、お前の力を潰すとは言わねえ」


 アルフの目が揺れた。


「万能付与」

「良樹の話を聞く限り、とんでもねえ力だ」

「武器も、防具も、道具も、身体も、生活も変えられる」

「正しく使えば、多分この街どころか、もっと広い場所で人を救える」


 一拍。


 ガレスは、真っ直ぐに言った。


「英雄になれる力だ」


 アルフは息を呑んだ。


 その言葉は、甘い許しではなかった。

 褒め言葉だけでもなかった。


 重かった。


「ただし」

「英雄になれる力ってのは」

「間違えれば、英雄級の厄介事を起こす力でもある」


 良樹が、少しだけ眉を動かした。


 その言葉は、アルフだけに向けられたものではないようにも聞こえた。


「だから、今のお前を野放しにはできねえ」

「罰だけ与えて放り出すのも違う」

「下手な奴に利用されても困る」

「なら、見る奴が要る」

「止める奴が要る」

「教える奴が要る」


 ガレスはアルフを見据えた。


「許されたと思うな」

「だが、終わったとも思うな」


 アルフは、息を呑んだ。


 罰ではない。

 許しでもない。

 終わりでもない。


 道だった。


 自分が振り回した人たちの苦しみは消えない。

 ひび割れた石も。

 人間の姿のまま俯いていた亜人も。

 戻りたいと言った声も。

 戻っても後悔は消えないと言ったロブの声も。


 何一つ、なかったことにはならない。


 それでも。


 終われ、と言われなかった。


 ガレスは、その沈黙を少しだけ待った。


 そして、改めて問う。


「坊主」

「お前は、これからどうしたい」


 アルフは、すぐには答えられなかった。


 どうしたい。


 今までなら、助けたいと言ったかもしれない。

 認められたいと言ったかもしれない。

 必要とされたいと言ったかもしれない。


 けれど、今日見た。


 人間の姿のまま俯く亜人。

 ひび割れた石。

 戻せるかもしれないと思ったのに、解除すらしたことがなかった自分。

 後悔の先に連れ出すと言ったロブ。

 袖を掴んだまま、逃げないと言ったリナ。


 自分は、まだ何も知らなかった。


 アルフの視線が、ちらりと良樹へ向いた。


「……何だよ」


 良樹が眉をひそめる。


 アルフは慌てて視線を戻した。


 ガレスが低く言う。


「良樹を見るな」

「お前に聞いてる」


「……はい」


 それでも、アルフの目はもう一度、良樹へ向いた。


「だから見るな」

「嫌な予感しかしねえ」


 リシアが呆れたように横を見る。


「良樹、顔に出すぎ」


 カレンは困ったように微笑む。


「あ、あの……でも、たぶん」


 クラリスは静かに目を細めた。


「決まったようですね」


「何がだよ」


 アルフは、両手を強く握った。


「僕は」

「学びたいです」


 ガレスは短く問う。


「何をだ」


「止め方を」

「戻し方を」

「使った後の見方を」

「誰に、何のために、どこまで使っていいのか」

「その線引きを」


 アルフは、また良樹を見た。


 良樹は何も言わなかった。


「今日、分かりました」

「僕は、付与することしか考えていませんでした」

「解除したこともない」

「後を見たこともない」

「戻せるかもしれないと思っても、戻す手順を持っていない」

「それでは、また誰かを傷つけます」


 一拍。


「だから」

「僕は、それを覚えたいです」

「覚えなければいけないと思います」


 ガレスは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「それで?」


 アルフは良樹の前へ一歩出る。


「おい」

「待て」

「その距離の詰め方は待て」


 アルフは深く頭を下げた。


「良樹さん」

「僕を、弟子にしてください!」


「ほら来た!」


 良樹の声が奥部屋に響く。


 リシアは小さく息を吐いた。


「来たわね」


 カレンも困ったように頷く。


「来ましたね」


 クラリスは満足げに微笑んだ。


「良い心がけです」


「お前ら予想してたなら止めろよ!」


 アルフは頭を下げたまま言う。


「お願いします、師匠!」


「もう呼んでるじゃねえか!」

「俺はまだ良いと言ってねえ!」


 挿絵(By みてみん)


 ガレスはそこで、にやりと笑った。


「良樹」


「お前も乗るな」


「お前から見て、この坊主の力は使えるんだろ」


「……使える」

「危ないくらいにな」


「で、止め方を知らねえ」


「ああ」


「本人は学びたいと言っている」

「しかも、お前にだ」


「それが一番問題なんだよ」


「放っておいたらどうなる」


「……面倒なことになる」


「適当な奴に吹き込まれたら」


「もっと面倒なことになる」


「なら、お前が見るのが一番合理的だ」


「ぐっ……」


 良樹が言葉に詰まる。


 ガレスはそこで、わざとらしく咳払いをした。


「ギルドマスター権限で」

「“英雄”良樹を、アルフの師匠の任に命ずる」


「だから職権濫用だっつってんだろ!」


 アルフが顔を上げる。


 反射的に良樹は言う。


「師匠って呼ぶなよ」


「はい、師匠!」


「聞けよ!」


     ◇


 そのやり取りを見て、リシアが呆れたように息を吐いた。


「良樹、諦めなさい」

「その子、たぶん引かないわ」


 カレンは少し困ったように微笑む。


「あの……でも」

「止め方を学びたいというのは、良いことだと思います」


 クラリスも静かに頷いた。


「良樹くん」

「責任が増えましたね」


「嬉しそうに言うな」


 良樹が頭を抱えた、その時だった。


「あ、あの」


 後ろから、控えめな声が重なった。


 良樹が振り返る。


 そこには、リナたちがいた。


「おい」

「アルフだけでも頭抱えてるってのに――」


 だが、リナたちは良樹を見ていなかった。


 まっすぐに見ていたのは、リシア、カレン、クラリスだった。


「奥さま方!」


「――は?」


 良樹の声が裏返った。


 リシアとカレンも固まる。


「――――え?」


「――――え?」


 クラリスだけが、すっと目を細めた。


「成程」


 良樹は、嫌な予感がした。


「クラリス?」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「良い心がけです」


挿絵(By みてみん)


「ク、クラリス?」


 カレンが慌てる。


 リシアも目を細めた。


「あんた、ちょっと――」


 だが、クラリスは一歩前へ出た。


「あなた達は」

「経緯はどうあれ、アルフ君のことが好きなのですね」


 リナたちは、顔を赤くしながらも頷いた。


「……はい」

「好きです」


 他の少女たちも、小さく頷く。


「好きです」

「だから、止めたいんです」

「一緒に見たいんです」


 クラリスの微笑みが、少しだけ深くなる。


「そして」

「私たちに、英雄の妻とは何であるか」

「好きな人の隣に立つとは、どういうことか」

「それを学びたいと」


 リナたちは息を呑んだ。


 そして、揃って頭を下げる。


「弟子にしてください!」


「待て待て待て待て」

「なんでそっちも弟子入りが始まるんだよ」


 良樹が叫ぶ。


 リシアは額に手を当てた。


「良くないわよ」

「いや、良いところもあるけど」

「今ここで受ける流れじゃないでしょ」


 カレンは戸惑いながらも、リナたちを見ていた。


「え、えっと」

「でも……」

「アルフ君のことを好きで」

「一緒に止めたいというのは……」


「カレン、流されない!」


 リシアが慌てて止める。


 クラリスは静かに言った。


「リシア」

「彼女たちは、好きな殿方を褒めるだけの人形になりたいわけではありません」

「間違えたら止めたい」

「一緒に後を見たい」

「そのために学びたいと言っているのです」


 リシアは言葉に詰まった。


 それは、分かる。

 分かってしまう。


 リシア自身、良樹を好きだからこそ、何度も止めてきた。

 カレンも。

 クラリスも。


 カレンが、リナたちに問う。


「……本当に」

「アルフ君が間違えた時、止められますか」


 リナは、アルフの袖を掴む手に力を込めた。


「止めたいです」

「昨日は、怖かった」

「でも、止めなきゃって思いました」

「今日も、一緒に見なきゃって思いました」

「だから……止められるようになりたいです」


 カレンは少しだけ目を伏せた。


 怖くても見る。

 怖くても止める。


 それは、カレン自身が良樹の隣で何度もしてきたことだった。


 リシアは深く息を吐く。


「……分かった」

「分かったけど」

「まず、私たちも人に教えるような立場じゃないわよ」


「そうでしょうか」


 クラリスが首を傾げる。


「そうよ」


「私たちは良樹くんの妻です」


「そこで胸を張るな」


 クラリスは、穏やかに続けた。


「好きな殿方の隣に立ち」

「力を借り」

「力を貸し」

「間違えれば止め」

「弱れば支え」

「壊れそうなら壊させない」

「それを、少しは知っています」


 カレンは小さく息を呑んだ。


 リシアも黙った。


「なら」

「教えられることは、あります」


 良樹が、完全に頭を抱えた。


「……おい」

「本当に始める気か」


「はい」


「はいじゃねえ」


 リシアはもう一度、息を吐いた。


「条件付きよ」


 リナたちが顔を上げる。


「私たちは、良樹の妻ではあるけど」

「偉い先生じゃない」

「それに、アルフのことを全部許したわけでもない」

「あなたたちのことも、全部分かってるわけじゃない」


「はい」


「だから、弟子というより」

「一緒に考える、くらいからよ」


 カレンも続ける。


「まずは」

「怖くても見ること」

「怖い時に、黙らないこと」

「止めたい時に、ちゃんと手を伸ばすこと」

「そこからだと思います」


 クラリスは、最後に静かに言った。


「そして」

「好きな殿方のために、自分を消さないこと」

「相手の傷を埋める道具にならないこと」

「褒めるだけの人形にならないこと」


 リナたちは、真剣に頷いた。


「はい」


 クラリスは満足げに微笑む。


「良い返事です」


 良樹は、深く息を吐いた。


「増えた……」

「俺の知らねえところで、責任だけが増えた……」


 ガレスが笑う。


「英雄ってのは、そういうもんだ」


「都合のいい時だけ英雄扱いすんな!」


「都合がいいから使ってんだよ」


「開き直るな!」


     ◇


 アルフは、もう神に肯定された正しさの上には立っていなかった。


 ひび割れた石。

 人間の姿のまま俯いていた亜人。

 戻りたい者。

 戻りたくない者。

 後悔の先に連れ出すと言ったロブ。

 袖を掴むリナの手。

 そして、動かす前に止め方を考えろと言った男の背中。


 その全部を見た上で、アルフはこの世界で生きると決めた。


 アルフは、良樹の前で頭を下げた。


 リナたちは、三人の妻の前で頭を下げた。


 止め方を学びたい少年と。

 支え方を学びたい少女たち。


 その光景を前に、良樹は心底嫌そうに頭を抱える。


「……なんで俺の周りは」

「面倒ごとが揃って弟子入りしてくるんだよ」


 リシアは呆れたように笑った。

 カレンは少し照れたように頬を染めた。

 クラリスは満足げに目を細めた。


「良い心がけです」


「お前、その言葉気に入っただろ」


 アルフが、真っ直ぐに言う。


「よろしくお願いします、師匠」


「師匠って呼ぶな」


 その反射の後で、良樹はアルフの顔を見た。


 アルフは、笑っていた。


 泣きそうな顔ではなかった。

 許されたと勘違いした顔でもなかった。


 それでも、その頬には一筋だけ涙の跡があった。


 良樹は、それを見た。


 自分がやったことは消えない。

 振り回した人たちの苦しみも消えない。

 ひび割れた石も。

 人間の姿のまま俯いていた亜人も。

 戻っても後悔は消えないと言ったロブの声も。


 何一つ、なかったことにはならない。


 それでも。


 この少年は、前を向こうとしている。


 終われと言われなかった道を。

 学べと言われた道を。

 自分の足で歩こうとしている。


 良樹は、眉間を押さえた。


「――全く」

「自分のことだけでも手一杯だってのに」

「どうなっても知らねえぞ」


 それは、放り投げる言葉ではなかった。


 諦観と。

 覚悟の混じった言葉だった。


 アルフは、深く頭を下げた。


「はい」

「よろしくお願いします」


「だから、師匠って呼ぶなよ」


「はい、師匠」


「聞けよ」


 リナたちも頭を下げる。


「よろしくお願いします、奥さま方」


 リシアが微妙な顔をした。


「その呼び方も落ち着かないのよ……」


 カレンは少しだけ頬を赤くした。


「で、でも……少し嬉しいです」


 ガレスが、満足げに笑う。


「頼んだぞ、お師匠様」


 良樹はガレスを睨んだ。


「お前あとで覚えてろよ、ガレス」


 こうして。


 アルフは、良樹の弟子になった。


 本人の意思と。

 ギルドの都合と。

 良樹の諦めによって。


 そしてリナたちもまた、三人の妻の背中を見ながら、好きな人の隣に立つための一歩を踏み出した。


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