第九十三章 ぎおんの再来
寛さんの名前を書いたあと、私は次に書く人を決めていた。
ぎおんだ。
父が、いちばん最初に見つけた星だ。まだ何もなかった頃の父が街で見つけて、事務所に入れて、日本じゅうが知る人にした。栄家という名前を世に広めたのは、あの人だった。
そして、新しい星が現れたときに父が捨てた人でもある。
私は、ぎおんが好きだった。子どもの頃、私が試験で泣いてしまったとき、そばに来てこう言ってくれた人だ。とっちゃんは、無理して前に出なくていいんだよ。見てる人がいる、っていうのも、すごく大事なことなんだから。
あの言葉が、私の一生を決めたと言ってもいい。私は、あの日から、光の外側にいることを恥ずかしいと思わなくなった。
あの人が捨てられた日のことも、私は覚えている。新しい星が来たからだ。ほのか、という子だった。しかも、その子を父にすすめたのはぎおん自身だった。いい子がいるんです、と言って連れてきたのだ。
*
半年もたたないうちに、父はぎおんの仕事をほのかに回しはじめた。理由は、何も言わなかった。ただ、そうなった。
最後に会った日、ぎおんは、こんなことを言った。野原の草は、きれいに咲いてる草も、もう枯れてる草も、ぜんぶおんなじ。
私は、その意味が、子どものときには分からなかった。今なら、分かる。咲いていようと枯れていようと、通りすがりの人には、どちらも同じ草だ。誰も一本ずつを見分けない。
見分けるのは、そこにしゃがんで、その一本を見ている人だけだ。
そして、最後に会った日に、あの人は私にこう言った。あなただけは覚えてて。みんながわたしを忘れても。あなただけは、ぎおんっていう人がいたことを。
私が書くという人間になったのは、あの一言からだ。四十年以上、私はそれを抱えて生きてきた。
でも、私は、あの人のその後を何も知らなかった。
ぎおんが消えたのは、私がまだ若い頃だ。しばらく地方の仕事をして、そのうち名前を聞かなくなった。誰かが、どこかの寺に入ったらしい、と言っていた。別の人は、外国へ行ったと言っていた。どれも、たしかな話ではなかった。
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書こうとして、私はまた手が止まった。寛さんのときと同じだ。私が知っているのは、子どもの頃に見たあの人と、最後の日の言葉だけだ。そのあいだと、そのあとがまったくない。
だから私は、調べはじめた。
名前を打ちこむと、いくつかは出てきた。古い曲の題名。何十年か前の番組の記録。まとめのようなものが、いくつか。どれも短かった。三行か四行だ。一九七〇年代に活躍。その後引退。それだけだった。
そのなかに、一つだけ変わったものがあった。古い作りの、個人のものだった。背景が青くて、文字がでこぼこに並んでいる。ずいぶん昔に作られて、そのままになっているらしかった。
そこには、ぎおんのことが細かく書いてあった。出た番組の日付。歌った曲。地方の催しの記録。ラジオでこう言っていた、という書き起こしまであった。私が知らないことも、たくさんあった。引退したあとの、小さな仕事の記録まで載っていた。
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作った人の名前は、出ていなかった。ただ、いちばん下に一行だけ、こう書いてあった。
──一九七二年から、ずっとファンです。
私は、その画面を長いあいだ見ていた。一九七二年だ。五十年以上前だ。
この人は、五十年覚えていた。誰にも頼まれず、何の得にもならず、たった一人で、あの人の記録を集めつづけていた。
私は、その頃、自分のことを、どこかで特別だと思っていたのだと思う。この世で、あの一家を覚えているのは私だけだ。父も、母も、宗太も、あかりも、私が書かなければ消える。
そう思って、書きはじめていた。
でも、ちがった。私が知らないところで、私と同じことをしている人がいた。熊野もそうだった。あの人は憎むために、うちのことを覚えつづけた。この人は、好きだから五十年覚えていた。そういう人は、たぶん、あちこちにいる。誰にも知られずに、何かを覚えている人が。
*
私は、そのお便りの欄から思いきって書いてみた。名前は書かなかった。ぎおんさんのことを知りたい者です、とだけ書いた。
返事は、三日後に来た。短い文だった。こんなところに人が来るとは思いませんでした、とあった。ずいぶん長いこと、誰からも何も来なかったのだと。そして、こう続いていた。
──ぎおんさんは、ご存命です。
私は、その一行を見て声が出た。家に私しかいなかった。それでも、口に手を当てた。
その人は、丁寧に書いてくれていた。ぎおんは、ある土地の小さな寺のようなところにいる。もう長いこと、そこにいる。表には一切出ていないし、昔の名前も使っていない。自分は一度だけ、遠くから見たことがある。声はかけなかった。そう書いてあった。
そして、最後にこう添えてあった。
──もし行かれるなら、そっとしておいてあげてください。
その人とは、それから何度かやりとりをした。私が誰なのかは、最後まで言わなかった。向こうも聞かなかった。
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いろいろなことを教えてもらった。ぎおんが引退したあとも、しばらく地方の小さな会場で歌っていたこと。客が二十人ということもあったこと。それでも最後まで、ちゃんと衣装を着ていたこと。
その人は、そういう会場に何度も足を運んでいた。一度、こう書いてきた。
──あの人は、客が少ない日ほど、丁寧に歌う人でした。
私は、その一行をノートに書きうつした。私が知らない、四十年ぶんのぎおんのなかの、たった一行だ。それでも、その一行があるのとないのとでは、まるでちがう。
その人は、七十を過ぎていると書いていた。もう体がよくないので、そのうちこの記録も消えるかもしれません、と。
私は、それを読んであわてた。そして、あの青い画面に載っていることを、全部書きうつすことにした。日付も、曲の名前も、地方の催しの記録も。全部だ。
何日もかかった。夜中に台所の机で、少しずつ写した。
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写しながら、私はおかしなことを考えていた。この記録が消えても、私の紙が残る。私の紙が消えても、どこかにまた誰かが。そうやって、覚えているということは、手から手へ渡されていくものなのかもしれない。
そんなものは、あてにならない。分かっている。私が死ねば、私の紙は、たぶん捨てられる。あの人が死ねば、青い画面は消える。それでも、一日でも長く残るほうがいい。
そう思うようになったのは、その頃からだ。
私は、その場所の名前を紙に書きうつした。そして、その紙をノートに挟んだ。
行かなかった。行けなかった、というほうが正しい。
私は、あの人に何を言うのだろう。覚えていました、と言うのか。でも私は、この四十年、あの人のことを毎日思い出していたわけではない。忘れていた時期のほうが、ずっと長い。
あの子が死んでからは、それどころではなかった。それに私は、あの人に会えば、たぶん聞いてしまう。うちのことを恨んでいますか、と。
*
父が、あの人を捨てた。私は、その父の娘だ。
だから、私はまだ行かない。でも私は、その紙をノートに挟んだままにしている。いつか行く日のために。
そして、その日から、私はぎおんのことを書きはじめた。会わないまま書いた。いつか会って、ちがっていたら書き直せばいい。そう思うことにした。




