第九十章 徳子の空白
ここから先の何年かを、私はどう書けばいいのか分からない。出来事が、ほとんどないからだ。
朝、起きる。夫を送り出す。自分も出る。事務の仕事をして帰る。ご飯を作って食べる。片づけて、湯につかって、寝る。それが、毎日だった。
土曜日には洗濯をした。日曜日には少し掃除をした。月に一度、あの子の墓へ行った。
そういう暮らしが何年も続いた。
私は、四十代の終わりから五十代の半ばまでを、そうやって過ごした。その何年かに何があったかと聞かれても、何もなかった、としか答えられない。
でも、その何年かは、たしかに私の人生の一部だ。
だから、書いておく。
いちばんこたえたのは、慣れてしまうことだった。はじめの一年は、毎日息ができなかった。二年目もそうだった。
三年目のある日、私は丸一日、あの子のことを思い出さずに過ごしたことに気づいた。
夜、布団に入ってから気づいた。
そのとき、私は飛び起きて泣いた。忘れていた。たった一日でも、私はあの子を忘れていた。
*
そういうことが、そのあとも時々あった。そして、だんだん増えた。思い出さない日が二日になり、三日になり、そのうち数えなくなった。
私は、それを自分で許せなかった。この世でいちばんあの子を覚えていなければならないのは、私のはずだった。
あるとき、思いついて数えるようになった。年に一度、あの子の誕生日に、今年でいくつになったかを紙に書く。十四。十五。十六。
十八と書いた年のことを覚えている。十八だ。もう子どもではない。あの決まりも要らない年だ。高校を出て、どこかへ行っていたかもしれない。働いていたかもしれない。私とけんかをしていたかもしれない。
そういう十八を、私は一つも見ていない。
二十と書いた年は、少しちがった。その日、私は紙に二十と書いてから、しばらくそこを見ていた。そして、思った。
この子は、もう私の知らない人になった。
十二の子どものことなら、私は全部知っていた。好きな食べ物も、こわがるものも、寝るときの癖も。でも、二十の人のことは何も分からない。私が知っているあの子は、十二で止まっている。
その先は、私が作るしかない。作れば、それはもう、あの子ではない。
*
その年から、私はその紙を書くのをやめた。
体のほうも、少しずつ変わっていった。五十を過ぎた頃から目が見えにくくなった。手の甲にしみが出た。
ある日、台所で自分の手を見て、母の手だと思った。若い頃の母の手ではない。最後の頃の母の手だ。
私は、その手をしばらく見ていた。
母は、この手で四十年、あの人の世話をした。この手でおにぎりを握った。この手で、あの子の髪を洗った。そして、最後まで、あの子の手を離さなかった。
私の手は、まだ何もしていない。
職場では、私は静かな人で通っていた。若い子たちは、私によくしてくれた。休みの日に何をしているんですか、と聞かれることもあった。別に何も、と答えると、その子たちは、そうなんですね、と言って、それ以上聞かなかった。
一度、忘年会で、隣の席の子がこう聞いた。
──お子さんは、いらっしゃるんですか。
私は、少しのあいだ黙った。そして、いない、と答えた。
そう答えたあと、私は自分でぞっとした。いない、と言ってしまった。いなかった、ではなく、いない、と。
*
その晩、私は家に帰ってから、夫にそのことを話した。夫は、しばらく黙ってからこう言った。
──おれも、そう答えたことがある。
私たちは、それきり、その話をしなかった。でも、そのあと、私はずいぶん長いあいだ、そのことを考えた。
説明すれば、必ず、あの事件のことになる。名前を言えば、たいていの人は思い出す。まだ覚えている年の人はいる。
そのあとの空気を、私は何度も経験している。だから、いない、と答えるのがいちばん早い。
そうやって、私はあの子を、自分の口で消していた。守るためだ、と言いながら。私は、それを、あの子が生きているあいだもしていた。
墓へ行く日のことも、書いておく。月に一度、たいていは日曜の朝に行く。電車で四十分ほどのところだ。
水を汲んで、石を洗って、花を替える。それだけで十五分もかからない。
そのあと、私はしばらくそこにいる。
話しかけたことは一度もない。そういうことが、私にはできない。石に向かって声を出すと、うそをついている気になる。だから、ただ立っている。
*
夫は、月に一度は来ない。年に二度か三度、私と別に一人で来ているらしい。
あるとき、私が行くと花が新しくなっていた。私が替えた覚えのない花だった。私は、それについて夫に聞かなかった。夫も言わなかった。
あの朝の日には、私は仕事を休む。何をするわけでもない。一日、家にいる。
その日は夫も休みを取る。二人で、たいして話もせずに、テレビも見ずに家にいる。夕方になると、私は窓のない場所へ行く。あの色を見ないためだ。
夫は、それを知っている。何も言わずに、そちらの部屋の電気をつけてくれる。
そういう日を、十回以上繰り返した。
十一回目か十二回目のとき、私は夕方に、はじめて窓のところにいた。見てみようと思ったわけではない。ただ、動かなかっただけだ。
光は入ってきた。黄色い、あの色だ。私は息が浅くなった。それでも、そこにいた。
そして、しばらくして、こう思った。きれいだ、と。
思ったとたんに、私は自分を殴りたくなった。
*
でも、その日、私は、その光のなかに少し長くいた。
書くことは、まだできなかった。ノートは押し入れの箱のなかだ。日付だけの紙が挟まったまま、何年もそこにある。その横に、水上さんのテープの袋がある。
私は、時々その押し入れを開けて、閉めた。
ただ、その何年かのあいだに、おかしなことが起きていた。私は、買い物の紙をよく書く。牛乳。トイレットペーパー。ねぎ。そういうものを、台所の隅の小さな紙に書きつけておく。
その紙のいちばん下に、時々、関係のないことが書いてあった。
たとえば、こういうことだ。
母は、みその量をはかったことがない。宗太は右利きなのに、木を削るときだけ左で持っていた。敦は、笑うとき、先に息を吸う。
私は、そんなものを書いた覚えがなかった。書いたのは、たしかに私だ。私の字だ。たぶん、買い物の紙を書いているうちに、手が勝手に続けていたのだと思う。
私は、その紙を捨てられなかった。はじめは一枚、二枚だった。引き出しの奥に、ためていった。
*
五十五になった年の暮れに、私はその引き出しを、はじめて全部出してみた。
紙は、数えきれないほどあった。古いものは、色が変わっていた。
私は、それを床に並べた。並べながら、手が震えてきた。
私は、書けなくなっていたのではなかった。何年も、書きつづけていた。自分で、気づかないまま。




