第七章 新しい星
ぎおんのことで、私には忘れられない思い出がある。
あの、カメラの前で泣いてしまった試験のあとのことだ。しょげかえっていた小さな私に、ぎおんはそっと近づいてきて、こう言ってくれた。
「とっちゃん、泣かないで。あのね。わたしも、はじめてステージに立ったとき、こわくて、こわくて、声が出なかったの。とっちゃんと、おんなじ」
大スターのぎおんが、まさかそんなことを言ってくれるとは、思わなかった。ぎおんは、光をまとえない私のことも、ばかにしたりしなかった。ただやさしく、同じ目の高さで接してくれた。
ぎおんは忙しい合間をぬって、時々、私に会いに来てくれた。光の当たらない私のことを、ぎおんだけは妹のようにかわいがってくれた。「とっちゃんは、無理して前に出なくていいんだよ」と、ぎおんは言った。「見てる人がいる、っていうのも、すごく大事なことなんだから」。その言葉に、私はどれだけ救われたか、しれない。ぎおんは芸能界のまん中にいる人なのに、光の外側にいる人の気持ちも、ちゃんと分かってくれる人だった。
だから、私はぎおんが大好きだった。
*
その頃のぎおんは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
出す曲は次々と大ヒット。ドラマに出れば高視聴率。CMにも引っぱりだこ。ぎおんの笑顔を見ない日は、一日もなかった。ぎおんは栄家の看板であり、父の事務所を大きくした、いちばんの功労者だった。
ぎおんは、その人気におごることもなかった。どんなに売れても、スタッフの一人ひとりに、ていねいに頭を下げた。現場では、いつもいちばん早く来て、いちばん最後まで残った。ぎおんは才能だけでなく、そのまっすぐな人柄でも、みんなに愛されていた。父がぎおんを宝と呼んだのは、けっして売れているからだけではなかったのだ。
そして父も、まだその頃はぎおんを大切にしていた。「あいつは、うちの宝だ」と、父はよく言っていた。
栄家の王国は、ぎおんという大きな星を中心に、まぶしく輝いていた。
*
でも。そのまぶしさにかげりがさしはじめたのは、ある一人の女の子があらわれたときからだった。
ほのか、という名の子だった。
まだ十代の、あどけない少女。その子を最初に見つけたのは、実はぎおん自身だった。
ある地方の催しで、ぎおんはその子の歌を聴いた。そして、そのみずみずしい才能に、心を打たれたのだという。ぎおんは自分から父に、その子を推薦した。
「社長。あの子、すごくいいんです。ぜひ、うちで育ててあげてください」
ぎおんはほのかのことを、本気で応援していた。事務所に入ってきたほのかに、歌のこつを教えたり、緊張しているほのかをはげましたり。まるでかつての自分を見るように、ぎおんはこの若い後輩に、手を差しのべた。人がいい、というのは、時に残酷なほど報われない。ぎおんは、そういう人だった。
ぎおんは知らなかった。そのやさしさが、自分の運命を大きく変えてしまうことになるとは。
父はぎおんの推薦を受けて、ほのかを事務所に入れた。そして。ほのかをひと目見た瞬間。父の目の色が変わった。
「こいつは……化ける」
父のあの、才能を見抜く目が、ほのかの中に、とてつもない原石を見つけたのだ。父はすぐに、ほのかにつきっきりで、売り出しにかかった。
そして。ほのかは、父の期待どおり、いや、期待以上の速さで、売れていった。
若さ。みずみずしさ。何より、新しい、ということ。世間は、新しいものに飛びついた。ほのかはあっというまに、ぎおんと並ぶ、いや、ぎおんをしのぐ勢いの、新しいスターになっていった。
おそろしいのは、人々の心変わりの速さだった。ついこのあいだまで、あんなにぎおん、ぎおんと夢中になっていたはずの世間が、ほのかがあらわれたとたん、まるで潮が引くように、ぎおんから離れていった。ぎおんの何かが悪くなったわけではない。ぎおんは何も変わっていない。ただ、もっと新しい、もっと若い光があらわれた。それだけで、人々の目はあっさりと、そちらへ移ってしまうのだった。
*
その頃から、ぎおんの様子が少しずつ変わっていった。
前はあんなに輝いていた、ぎおんの笑顔に、どこか無理をしているような、影がさすようになった。
無理もなかった。父の関心が、あきらかに、ぎおんからほのかへと移っていったからだ。
いい仕事は、だんだんほのかに回されるようになった。父がぎおんに会う時間も、めっきり減った。あんなに宝だと言っていたのに。父はもう、ぎおんのことを、あまり見なくなっていた。
テレビでも、ぎおんの出番は、少しずつ減っていった。かわりに、どのチャンネルにも、ほのかが映るようになった。ぎおんが何年もかけてのぼりつめた、その場所に、ほのかはたった一年ほどで追いついてしまった。そして、追い越していった。ぎおんは必死に、笑顔をつくっていた。でも、その目の奥は、もう笑っていなかった。
ぎおんはこわかったのだ、と思う。
自分が少しずつ、まん中から端へと追いやられていくのが。あの、父がいちばん恐れていた、忘れられる、ということ。それが今、ぎおんの身に起きようとしていた。
一度だけ、私は見てしまったことがある。誰もいない事務所の廊下で、ぎおんが一人、ほのかの大きなポスターを、じっと見つめている姿を。
その横顔は、とてもさみしそうで、そして、少しこわがっているように見えた。
あのときのぎおんの背中を、私は今でも、はっきりと覚えている。きらびやかな衣装を着て、何百万人に愛されていたはずの、大スター。その人が、誰もいない廊下でたった一人、自分の居場所が消えていくのを、ただ見つめていた。あんなにさみしい背中を、私はそれまで見たことがなかった。
私は、声をかけられなかった。かける言葉が、見つからなかった。ただ、幼いなりに、胸がぎゅっと痛くなって、私はそっとその場を離れた。
その日の夜、私は布団の中で、ぎおんのあの背中を思い出していた。まん中にいるということは、あんなにもこわいことなのか。いつか自分より新しい誰かが来て、あっというまに忘れられてしまう。光を浴びるとは、そういうことなのか。幼い私は、光の外側にいる自分が、少しだけありがたく思えた。
*
今思えば。
あれが、栄家の宿命のはじまりだったのかもしれない。
新しい星があらわれれば、古い星は忘れられていく。それは、芸能界の避けられない掟だった。そして父は、その掟を誰よりもよく知っていた。だからこそ父は、ためらわなかった。古い星より、新しい星をとった。
でも。そのとき父は、忘れていたのだ。ぎおんもまた、かつて父が心をこめて育てた、一人のかけがえのない人間だった、ということを。
宝だと呼び、実の娘のように目をかけていたはずのぎおん。そのぎおんでさえ、新しい光の前では、こんなにもあっさりと、脇へ置かれてしまう。それが父の生きる世界だった。愛は、数字の前では、いつもあとまわしにされた。
これは、と今思う。栄家という一族の、いちばん根っこにある病だったのかもしれない。まん中に居続けろ。忘れられるな。その父の口癖は、裏を返せば、まん中から外れた者は、忘れられて当然だ、ということ。用ずみになった者は、切り捨てていい、ということ。父はその冷たいものさしを、人にも、そしていつか、自分にもあてはめることになる。
そして、この冷たい掟が、いつか栄家のみんなにも、同じようにふりかかってくる、ということを。そのときの父は、まだ想像すらしていなかった。
ぎおんの運命が、大きく動く、その日は。もう、すぐそこまで来ていた。




