第八章 同じ野の草
ぎおんの運命が決まった日のことを、私は今も忘れられない。
ある日、父はぎおんを事務所に呼びだした。そして、あっさりと告げたのだという。
「おまえとの契約。今年で終わりにしようと思う」
契約の打ち切り。つまりそれは、ぎおんを栄家から切り捨てるということだった。
あんなに宝だと言っていたのに。あんなに実の娘のように、かわいがっていたのに。ほのかがあらわれて、ぎおんが数字を取れなくなったとたん、父はぎおんを、まるで古くなった道具でも捨てるように手放そうとしていた。
ぎおんは何も言い返さなかったという。ただ深く頭を下げて、「いままで、ありがとうございました」と、それだけ言った。
のちにそのときのことを聞いた事務所の人は、こう言った。「あんなに静かに頭を下げる人を、見たことがなかった。恨みごとの一つも言わなかった。それがかえって、こっちの胸にこたえた」と。ぎおんは最後までぎおんだった。どれだけひどい扱いを受けても、人としての品を失わなかった。それだけは父にも、誰にも奪えなかった。
*
でも。本当にむごかったのは、そのあとだった。
契約を切る、そのまえに。父はぎおんに、最後の仕事を言いわたした。
ある大きな音楽番組。そこでぎおんに、ほのかの晴れ舞台を盛り上げる役をやらせよう、というのだ。
新しいスターのほのかを、先輩のぎおんがあたたかく迎え、バトンをわたす。そういう感動的な場面を、父は演出しようとした。
その番組の収録を、私はスタジオのすみで見ていた。
まぶしいライトのまん中に、ほのかが立っていた。そして、そのとなりでぎおんが笑っていた。
「ほのかちゃんは、わたしの自慢の後輩なんです」と、ぎおんはマイクを持って言った。「これからは、この子がみなさんを楽しませてくれます。どうか、よろしくお願いします」
満面の笑顔だった。だれが見ても、完璧な先輩の笑顔。
でも。私には分かった。その笑顔の奥で、ぎおんがどれだけ泣いていたか。
番組は大成功だった。視聴者はみんな感動した。ベテランのぎおんが、若いほのかにあたたかく道をゆずる。美しいバトンタッチだ、と。でも、それは作られた物語だった。父が演出した感動。ぎおんの笑顔の下で流されていた涙は、カメラにはけっして映らなかった。いや。映してはならないものだった。人々が見たいのは、美しい物語だけ。切り捨てられる者の痛みなんて、誰も見たくはないのだ。
*
収録が終わって、みんながいなくなった。誰もいないスタジオで、ぎおんは一人、まだステージのまん中に立っていた。
私はそっと近づいた。
「ぎおん、ちゃん」
ぎおんは私に気づくと、少しさみしそうに、でも、とてもやさしく笑った。
「とっちゃん。見てて、くれたんだね」
そして、ぎおんはぽつりと言った。
「あのね、とっちゃん。野原の草はね、きれいに咲いてる草も、もう枯れてる草も、ぜんぶおんなじなんだよ。どんなにきれいに咲いた花も、いつかかならず秋が来て、枯れる。それから逃げられる草なんて、一本もないの」
ぎおんの言葉は、静かにスタジオに響いた。
「今は、ほのかちゃんがまん中で咲いてる。でもね。あの子も、いつかわたしとおなじ。今日のわたしみたいに、誰かにまん中をゆずる日が来る。それが、この世界なんだ」
ぎおんの声は、不思議とおだやかだった。恨みも、怒りもなかった。ただ、何かとても大きなことを悟った人のような、静けさがそこにはあった。
「だから、わたしね。ほのかちゃんを恨んでないの」と、ぎおんは言った。「あの子だって悪くない。あの子も、ただ懸命に咲いてるだけ。いつか自分にも秋が来るなんて、きっと思ってもいない。昔のわたしと、おなじ。だから、うらむ気にはなれないの」
「わたしね。決めたの」と、ぎおんは言った。「もう、この世界からおりようって」
「え」と、私は思わず声をあげた。
「芸能界、やめるの」と、ぎおんは微笑んだ。「歌うのも、もうやめる。ずっと、まん中にいようって、必死でしがみついてきた。でも、もうつかれちゃった。まん中にいなくても、いいや、って。やっと、そう思えたの」
ぎおんは、晴れやかな顔をしていた。
長いあいだ、ぎおんをしばっていた何かが、すっとほどけたような。そんな顔だった。
「ずっとね」と、ぎおんは言った。「忘れられるのが、こわかった。まん中から外れたら、おしまいだ、って。社長に、そう教わったから。でも、今思うの。忘れられたって、いいじゃない、って。わたしを覚えててくれる人が、たった一人でもいれば、それでじゅうぶんなんだって」
そう言って、ぎおんは私を見た。
*
そして、ぎおんはしゃがんで、私と目の高さを合わせた。
「とっちゃん」と、ぎおんは言った。「あなたは、光のまん中にはいないかもしれない。でも。それって、すごくいいことなんだよ」
「え?」
「まん中にいる人はね」と、ぎおんは言った。「まぶしくて、周りが見えないの。自分のことで、せいいっぱいで。でも、あなたはちがう。あなたはちゃんと見てる。わたしの、笑顔の奥の涙まで。ちゃんと、見ててくれた」
ぎおんの目に、涙がにじんだ。
「だから、おねがい」と、ぎおんは言った。「あなただけは覚えてて。みんながわたしを忘れても。あなただけは、ぎおんっていう人がいたことを。覚えてて、くれる?」
私はこくりとうなずいた。
「うん。覚えてる。ぜったい、忘れない」
そう言うのが、やっとだった。涙で、もう声が出なかった。
ぎおんは私の頭を、そっとなでた。そして最後に、もう一度、あのやさしい笑顔を見せて、スタジオを出ていった。
それが、私がぎおんを見た、最後だった。
私は、そのうしろ姿が見えなくなるまで、ずっと立ち尽くしていた。追いかけて、何か言いたかった。行かないで、と。でも、足が動かなかった。ぎおんが選んだのは、逃げることではなく、自分の足で歩いて出ていくことだった。それはあの人にできる、たった一つの、誇りの守り方だったのだと思う。だから私は、引き止めてはいけない気がした。
*
ぎおんはその後、本当に芸能界から姿を消した。あんなに日本中に愛された大スターが、まるで最初からいなかったかのように。人々の記憶から消えていった。
今思えば。
あの日、ぎおんが私にかけてくれた言葉は、私のその後の人生を決めた気がする。
覚えてて。そのたった一言が、今も私の中で生きている。だから私は、こうして書いている。ぎおんのことも。栄家のみんなのことも。忘れないように。覚えているために。
不思議なもので、あの日から、私は人の顔をよく見るようになった。笑っている人が、本当に笑っているのか。その奥に、何か隠していないか。ぎおんが教えてくれたその見方は、それから先、私が家族の滅びを見届けるときにも、ずっと役に立つことになる。
私が光をまとえなかったことには、もしかしたら、こういう意味があったのかもしれない。まん中でまぶしく輝いた人たちを、外側からちゃんと見て、覚えておく。それが、光の外側にいた私の役目だったのだ。ぎおんはたぶん、いちばん最初にそれに気づいて、私に託してくれたのだと思う。
そして、ぎおんがあの日言ったことは、すべて本当になった。
きれいに咲いた花も、いつかかならず枯れる。ほのかも。そして栄家のみんなも。父さえも。あのおだやかなぎおんの予言から、逃れることはできなかった。
でも。それはまだ、ずっと先の話だ。
今はまだ、栄家の王国は、これからいちばん高い所へとのぼっていく。ぎおん一人が去ったくらいでは、その勢いは少しも止まらなかった。止まらなかったからこそ、のちの、落ちる高さも、とてつもないものになるのだ。




