第九章 頂点
栄家がいちばん高い所に立っていた、あの頃のことを話そう。
ぎおんが去っても、栄家の勢いは少しも衰えなかった。それどころか、父の王国はそこから、さらに大きくなっていった。
その頃には、父はもう、ただの人気タレントではなかった。
自分が出演するだけでなく、番組を企画し、若手を育て、ドラマを作る。芸能界のあらゆる所に、父の影響力がおよんでいた。テレビ局のえらい人たちも、父には一目置いた。栄さんに嫌われたら、この業界ではやっていけない。そんなふうにまで言われるようになっていた。
サカエ・プロダクションは、今や日本でも指おりの大きな事務所になっていた。所属するタレントは、何百人。そのうちの何人もが、ゴールデンタイムの番組で顔を見ない日はない、スターたちだった。父が一言、あいつを使え、と言えば、その若者は次の日には売れっ子になる。父が一言、あいつはもういい、と言えば、その相手は次の日から仕事を失う。父の機嫌ひとつで、何百人もの人生が左右される。父はいつのまにか、そんなおそろしい力を手にしていた。
その力は、麻薬のようなものだったのかもしれない。父が現場に入ると、大の大人たちがいっせいに背筋を伸ばした。父の一言に、みんなが笑い、みんながうなずく。誰もが父の顔色をうかがった。かつて隅で立っているだけの通行人だった男が、今や、業界そのものを意のままに動かしている。その全能感は、あの忘れられる恐怖の裏返しだったのだと、今の私には分かる。
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そして、父の周りにはいつも、一族のスターたちがいた。
長男の伊織は、子役からみごとに、大人の俳優へと成長していた。そのあたたかい人柄と、たしかな演技力で、伊織は老若男女、だれからも愛される国民的な俳優になっていた。
次男の宗太も、バラエティで少しずつ頭角をあらわしていた。
ただ、宗太はいつも、兄の伊織とくらべられていた。伊織のような華も、伊織のような実力も、宗太にはなかった。宗太はそれを、誰よりも分かっていた。どうせおれは、兄さんのおまけだから。宗太がぽつりと、そうこぼすのを、私は何度か聞いたことがある。明るくふるまっていても、宗太の心の奥には、いつも、かなわない兄への小さな引け目があったのだ。
それでも宗太は、兄のことが好きだった。兄をうらやみながら、同時に、兄を誇りに思っていた。憎めない相手だからこそ、かなわないという思いは、いっそう深く宗太を苦しめた。この兄への複雑な思いが、のちに宗太を、思いもよらない場所へ追いつめることになる。
そして、テレビはよく、栄家をまるごと特集した。理想の芸能一家として。仲の良い家族がそろって活躍する。その姿は、お茶の間のあこがれだった。
お正月に、一家がそろって特別番組に出る。それが毎年の恒例になっていた。父をまん中に、伊織がいて、宗太がいて、ほかの親戚のタレントたちも、ずらりと並ぶ。そのにぎやかで、あたたかい光景を、日本中の家族がこたつを囲んで楽しみにしていた。栄さん一家みたいな家族になりたいね。そんなふうに、多くの人があの一家に、理想の家族の姿を重ねていた。
一億人が、あの一家を愛していた。それはまさに、この頃のことだった。
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でも。いちばん高い所に立った父は、少しずつ変わっていった。
昔の父は、あの定食屋でご飯を大盛りにしてもらっていた頃の父は、もっと腰の低い、やさしい人だった。でも、力を持つにつれて、父はだんだん、人の言うことを聞かなくなっていった。
自分は正しい。自分の目に狂いはない。何人ものスターを当ててきた成功が、父をそんなふうにさせていった。
気に入らない相手は、容赦なく切り捨てる。逆らう者は、業界から追い出す。そういうこわい一面が、父の中にだんだん、顔を出すようになっていた。
周りの大人たちは、もう、誰も父に逆らわなくなっていた。父がまちがったことを言っても、さすが社長です、と、みんなうなずくばかり。そういう、いえすまんたちに囲まれて、父はますます、自分は正しいと思い込んでいった。裸の王様。今思えば、あの頃の父は、まさにその言葉のとおりだった。
おかしなことに、あんなに高い所にのぼりつめても、父のあの恐怖は消えなかった。むしろ、高くのぼるほど、父はおびえていた。この高さから落ちたら、どうなるか。てっぺんにいる者ほど、落ちるこわさを知っている。だから父は止まれなかった。もっと上へ。もっと大きく。その休むことを知らない渇きが、父を、そして一家みんなを、少しずつ危うい場所へと追い立てていった。
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そんな父をただ一人、いさめることができたのが、長男の伊織だった。
あるとき。父がある若いタレントを、ひどいやり方で切り捨てようとしたことがあった。ぎおんのときと同じだった。もう数字が取れない。だからいらない。ただそれだけの理由で。
そのとき、伊織が父に言った。
「父さん。あの子は、まだ頑張れます。もう少しだけ、待ってあげられませんか」
父はむっとした顔をした。「甘いことを言うな。これはビジネスだ」
「分かってます」と、伊織は静かに、でもまっすぐに父を見て言った。「でも。父さんがあの子を見つけて、あの子に夢を見させたんです。その責任は、父さんにあると思います。最後まで、ちゃんと面倒を見てあげてください」
しばらく、父は黙っていた。
そして、ふっと息をついて言った。
「分かった。おまえが、そこまで言うなら」
不思議なことに、あんなに頑固な父が、伊織の言うことだけは聞くのだった。
その若いタレントは、伊織のおかげで、もう少し頑張る機会をもらえた。そして数年後、その子は地道な努力のすえに、りっぱな役者になった。もしあのとき、伊織が止めていなければ、その子の人生は、ぎおんのように、あそこで終わっていたかもしれない。伊織はそうやって、父が切り捨てようとしたたくさんの人を、そっと救っていたのだ。
たぶん、父にも分かっていたのだと思う。自分がだんだん、こわい人間になっていくことが。そして、伊織だけがその暴走にブレーキをかけてくれる。伊織だけが、父をまだ、人間の側につなぎとめていた。
母はよく言っていた。「伊織がいてくれるから、お父さんは大丈夫」と。
私のような、光をまとえない妹のことも、伊織はいちばん気にかけてくれた。「とっちゃんは、とっちゃんのままでいい。おれがちゃんと、守ってやるからな」。そう言って笑ってくれた兄の顔を、私は今も忘れられない。
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今思えば。
それはとても、危ういことでもあった。
たった一人にすべてを頼っている。伊織という、たった一本の糸が、父の暴走をかろうじて押さえていた。栄家の人間性は、伊織一人の肩にかかっていたのだ。
その糸がもし、切れてしまったら。父を止められる者は、誰もいなくなる。
でも。その頃はまだ、誰もそんなことを考えなかった。伊織は若く、健康で、いつまでも父のそばで、栄家を支えてくれる。みんながそう、信じて疑わなかった。
だから栄家は、安心して高みへとのぼりつづけた。そのたった一本の糸が、いつかぷつりと切れる、その日まで。
高くのぼればのぼるほど、糸の先には重いものがぶら下がっていく。一族の栄光。何百人もの暮らし。そして、日本中の期待。そのすべてを、伊織というたった一本の糸が支えていた。誰もその糸の細さに、気づいていなかった。いちばん気づいていなかったのは、ほかでもない、その糸にいちばん重く寄りかかっていた父だったのかもしれない。
そして、その日は、私が思っていたよりも、ずっと早く来てしまうのだった。




