第十章 あかり
少し、時が飛ぶ。
光をまとえなかった私は、そのまま芸能界とは縁のない、普通の子どもとして育っていった。学校を出て、普通に働いて。そして、ある普通の人と出会って、結婚した。
夫は、芸能界とはまったく関係のない人だった。まじめで、やさしくて、私のことを、有名な一家の娘としてではなく、ただの一人の私として見てくれる人だった。
夫とは、ごく普通の出会い方をした。職場で知り合って、何度か食事に行って。そういう、どこにでもある恋だった。夫は、私の家のことを知っても、とくに驚かなかった。「へえ。あの、栄さんの。でも、きみはきみだろ」。そう言って、笑っただけだった。その一言に、私はどれだけ救われたか、しれない。有名な一家の娘。その重たい看板を、夫の前でだけはおろすことができた。ただの私として、息をすることができた。
私は、その人といると、心からほっとできた。カメラも、まぶしいライトもない。誰にも見られない、ただ静かな暮らし。それは、私がずっと憧れていた、普通の幸せだった。
思えば、母がそうだったように、私も光の外側で、生きる道を選んだのだ。
結婚してからの数年は、私の人生でいちばん、おだやかな時間だった。朝、夫を送り出し、家を片づけ、夕方には二人で食卓を囲む。テレビに映る父や兄を、時々、遠い世界のことのように眺めながら。誰も私を、栄家の娘とは知らない。その匿名の暮らしの中で、私はようやく、自分の呼吸で生きられるようになった気がした。
*
そして、結婚してしばらくして、私たちに子どもが生まれた。
女の子だった。
小さな、小さな手。しわくちゃの顔。その子をはじめて腕に抱いたとき、私の胸は、あたたかいものでいっぱいになった。こんなに愛おしいものが、この世にあるのか。私は生まれてはじめて知った。
その小さな手が私の指をきゅっとにぎったとき、私は声をあげて泣いた。うれしくて、こわくて、愛おしくて、いろんな気持ちがいっぺんにあふれてきた。この子を守ろう。何があっても、この小さな命を。私はそう、心に誓った。カメラの前では何もできなかった私が、母になったとたん、はじめて守りたいものができたのだ。
私はその子に、あかりと名前をつけた。
あかり。明かり。灯り。
光をまとえなかった私が、わが子にだけは、あたたかい、光のような人生を歩んでほしい。そんな願いを込めた名前だった。
でも。今思えば。その名前は、あまりにも皮肉だった。
私は知らなかったのだ。この子を待ち受けている運命を。あかり、というその光の名前が、いつかこの子を、いちばんむごい場所へと連れていくことになるとは。
名前、というのはふしぎなものだ。親がありったけの愛を込めてつける。その子の幸せだけを願ってつける。なのに、時に、その名前が、その子のいちばん残酷な運命を言い当ててしまう。あかり。光。私はこの子に、光を願った。そしてこの子は、文字どおり光に焼かれることになる。
*
あかりが生まれてしばらくした、ある日。父が、私の家にあかりを見に来た。
孫を抱いた父は相好をくずして、「おお。よしよし」とあやしていた。その姿は、ただの、孫をかわいがる普通のおじいちゃんだった。
私は少し、ほっとした。
でも。次の瞬間。父の口から出た言葉に、私は凍りついた。
「この子は。いい顔をしてるな。将来、栄家の次の顔になるぞ」
私の心臓がひやりとした。
父の目が、あの才能を見抜くときの、あの目になっていた。孫をかわいいと思う目ではなく、次の商品を見定める、あの事務所の社長の目だった。
父はあかりを抱いたまま、夢見るように言った。「考えてみろ。伊織。宗太。そして、この子。栄家の三代目だ。おれが作った、この王国を、この子たちがもっと大きくしてくれる。栄という名前が、百年、二百年、ずっと茶の間のまん中に残るんだ」。父の目はもう、あかりのずっと先の、壮大な夢を見ていた。孫の幸せではなく、一族の永遠を。
でも、今の私には分かる。あのとき父が見ていたのは、ただの商品ではなかったのかもしれない。父は、この孫を、この世でいちばん愛される存在にしたかったのだ。永遠に、誰にも忘れられない存在に。それは、父なりの、いちばん大きな愛のかたちだった。ゆがみきった、けれど、まぎれもない愛だった。ただ、その愛こそが、いちばん残酷なものになるのだと。父は、まだ気づいていなかった。
「お父さん」と、私はとっさに言った。「この子は、普通に育てたいの。芸能界には入れたくない」
父は、きょとんとした顔をした。
「なぜだ」と、父は言った。「こんなにいい素材はないぞ。栄家の血を引いてるんだ。きっと、すごいスターになる」
すごい、スター。その言葉が、私にはこわくてたまらなかった。
私は見てきた。カメラの前で固まって、泣いたあの日の自分を。まん中から追いやられて、消えていったぎおんを。光のまん中はまぶしいけれど、その裏には、いつも濃い影がある。切り捨てられる痛みがある。忘れられる恐怖がある。
そんな所に、この小さなあかりを、渡したくはなかった。
「だめ」と、私ははっきりと言った。「あかりは、私の子です。この子の人生は、この子が決める。芸能界に入れるかどうかも、私が決めます」
父にこんなふうに逆らったのは、生まれてはじめてのことだった。
体が少し、震えていた。父に逆らうのは、こわかった。でも。それ以上に、あかりをあの、光のまん中に渡すことのほうが、私にはこわかったのだ。ぎおんの、あのさみしい背中を、私は忘れていなかった。あんなふうに、いつか使い捨てられる。あんなふうに、いつか忘れられる。そんな運命を、この子には、ぜったいに歩ませたくなかった。
*
父はしばらく、私をじっと見ていた。
そして、ふん、と鼻を鳴らして言った。
「まあ、いい。今は、な」
今は。その一言が、私の胸に、いやなしこりを残した。
父はあきらめていなかった。あかりの才能を、父はもう見抜いてしまっていた。そして父は、一度ほしいと思ったものはかならず手に入れる人だった。
私はあかりをぎゅっと抱きしめた。この子だけは、私が守る。このあたたかい世界で、普通の子として、笑って育てていく。そう、心に誓った。
でも。相手はあの、父だった。日本中を意のままに動かしてきた、栄一鶴。その父を相手に、私一人が、あかりを守りきれるのか。本当は、心のどこかで、私はこわかったのだと思う。
あの日から、私は夜、あかりが眠ったあと、よく考えるようになった。もし父が本気であかりを欲しがったら、私に何ができるだろう。頭を下げて頼むか。逃げるか。それとも、あの父と正面からたたかうのか。答えは出なかった。ただ、この子を守るためなら、私は何でもする。その覚悟だけは、日ごとに固くなっていった。
*
今思えば。
あかりが生まれたあの日から。私と父のあいだには、目に見えない、細いひびが入っていたのかもしれない。
私は母として、あかりを光から守りたかった。父は総帥として、あかりを光のまん中に立たせたかった。この二つの思いは、どこまでもかみ合わなかった。
父と私のたたかいは、この日から静かに始まっていた。表向きは、仲の良い親子。祖父と孫。でも、その水面下では、あかりをめぐって、母と総帥が、ゆずれない思いをぶつけあっていた。そして、悲しいことに、このたたかいの勝ち負けを決めるのは、私でも父でもなかった。それは、もっと大きな力――世間の流れだった。
そして。この対立の行き着く先に。あの、いちばんむごい出来事が待っていた。
でも。それはまだ、ずっと先の話だ。
今はまだ、あかりは私の腕の中で、すやすやと眠っている。この小さな灯りが、いつかどんな運命をたどるかも知らずに。ただ、しあわせそうに眠っていた。窓から差し込む夕日が、その頬を赤く染めていた。まるで、遠い炎に照らされているかのように。
私はその寝顔をいつまでも見つめていた。この子の未来に、どうか、あたたかい光だけがありますように。そう祈りながら。まだ何も知らなかったあの頃の私は、ただ、母としてしあわせだった。




