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一億人が、あの一家を愛していた ~ある芸能一族の栄光と滅びの記録~  作者: 智珠
第一部 興隆

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第十一章 止まらない

栄家が頂点に立ってからも、父は止まらなかった。


普通なら、あれだけの成功を手にすれば、少しはゆっくりするものだろう。でも。父はちがった。てっぺんに立てば立つほど、父はもっと上へ、もっと大きくと、休むことなく走りつづけた。


新しい番組。新しい事業。新しいスター。父の頭の中には、いつも次の計画がうずまいていた。


そして。その父の渇きのしわ寄せは、一族のみんなにのしかかっていった。


所属するタレントたちは、休む間もなく働かされた。父は、まん中に居続けろ、と、みんなを追い立てた。少しでも休めば、忘れられる。だから、働け。もっと。もっと。それが父の口癖だった。


父はもう、一つの番組に出るだけでは満足しなかった。バラエティに出て、ドラマに出て、CMに出て、配信でも何か新しいことを始める。一日にいくつもの現場をかけもちする。それが栄家のスターたちの、あたりまえになっていた。移動の車の中で仮眠をとり、台本を覚える。そんな毎日。華やかなテレビの向こう側で、みんな、すり切れるように働いていた。


中には、体をこわして倒れる者もいた。でも、一人が倒れれば、父はすぐに、次の新しい若者を連れてきた。かわりはいくらでもいる。父はそう考えているようだった。栄家の光の裏側には、そうやって使いつぶされ、消えていった名もない若者たちが、たくさんいたのだと思う。私はそのことに、ずっとあとになってから気づいた。


        *


そして。そのいちばん重い荷を背負わされていたのが、長男の伊織だった。


伊織は、栄家のいちばんの看板だった。だから父は、伊織に次から次へと仕事を入れた。ドラマ。映画。舞台。CM。伊織のスケジュールは、一年先まですきまなくうまっていた。


伊織は、文句一つ言わなかった。どんなにきつくても、いつもあのあたたかい笑顔で、仕事をこなしていた。でも。私には分かっていた。兄が少しずつ、すり減っていくのが。


前は、撮影の合間によく冗談を言って、現場を笑わせていた兄。その兄がいつからか、合間にはぐったりと椅子にもたれて、目を閉じていることが増えた。少し、眠らせてくれ。そう言って、わずかな時間も体を休めようとしていた。でも。カメラが回れば、伊織はぱっと、あのまぶしい笑顔に戻る。誰も、画面の向こうの視聴者は、その笑顔の裏にどれだけの疲れがあるか、知らなかった。


ある日。私はひさしぶりに、実家で伊織に会った。


兄の顔を見て、私ははっとした。やつれていた。目の下に、濃いくまがあった。あんなに血色のよかった兄が、土気色の顔をしていた。


「兄さん。大丈夫? すごく、疲れてるみたい」


私がそう言うと、伊織は少し笑って言った。


「ああ。まあ。ちょっと、忙しくてな。でも、だいじょうぶだよ」


そう言って、伊織はお茶を一口、飲もうとした。その手がかすかに震えているのに、私は気づいた。あんなにしっかりしていた兄の手が、まるでおじいさんの手のように、細かく震えていた。ずっと、睡眠も、食事もまともにとれていないのだ。私にはそれが、すぐに分かった。


「兄さん」と、私は言った。「少し休んだら? 父さんに言ってあげようか。働きすぎだって」


伊織は、首を横に振った。


「いいんだ」と、伊織は言った。「おれがやらなきゃ。おれが休んだら、父さんの夢が止まっちゃう。それに、おれがしっかりまん中にいれば、宗太や、ほかのみんなが少し楽になる。おれは長男だから。おれが踏ん張らなきゃ、いけないんだ」


伊織は少し、遠い目をしてつづけた。「父さんはさ。忘れられるのが、こわいんだよ。ずっと。おれ、知ってるんだ。父さんの、あの明るさの裏に、どれだけこわいものがあるか。だから、おれがせめて、父さんのそのこわさを、少しでも楽にしてあげたい。それが、長男のおれの役目だと思うから」


兄は、父の弱さまで、抱えこもうとしていた。


兄のその言葉に、私は胸がしめつけられた。


伊織は自分のことより、いつも、ほかのみんなのことを考えていた。父の夢を。弟たちを。そして、栄家ぜんぶを。たった一人で背負おうとしていた。


でも。人間の体には、限界がある。どんなに心が強くても、すり減った体は、いつか悲鳴をあげる。


私はこわくなった。このまま、兄はだいじょうぶなのだろうか。でも。私にはどうすることもできなかった。父に逆らえるのは、伊織だけ。その伊織自身が、休もうとしないのだから。


今思えば、あのとき、もっと強く兄を止めるべきだった。母に泣きついてでも。父に嫌われてでも。兄を、あの現場から引きはがすべきだった。でも、私にはその勇気がなかった。まだ間に合うと、どこかで思っていた。その油断を、私は一生、悔やむことになる。


帰りの電車の中で、私はずっと、兄のあの震える手のことを考えていた。何か言わなきゃ。母に相談しようか。それとも、思いきって父に、直接。でも。私なんかが何を言っても、あの父が聞くはずがない。それに、伊織本人が、だいじょうぶと言うのだ。結局、私は何もできなかった。ただ、胸の奥に、黒い雲のような不安だけが広がっていった。


        *


いつからか。栄家は、あたたかい家族というより、一つの大きな会社のようになっていた。


みんな忙しくて、ゆっくり顔を合わせることもなくなった。昔はお正月に、みんなでこたつを囲んで笑っていたのに。今はそのお正月さえ、仕事だった。家族そろっての特別番組。それも父にとっては、大事なビジネスだったのだ。


たまに家族がそろうことがあっても、話すのは仕事のことばかり。次の番組。次の数字。視聴率がどうだった。あの企画が当たった。外れた。そこにはもう、ただの家族の、他愛のない会話はなかった。父をまん中に、みんなが栄家という会社の社員のように、向かい合っていた。あの定食屋でおにぎりを分けあった頃のあたたかさは、どこにもなかった。


母だけが、その変わっていく家族を、さみしそうに見ていた。


「昔はもっと、みんなで笑ってたのにねえ」。母がぽつりと、そうこぼしたのを、私は覚えている。


私はその言葉に、うまく返せなかった。母の言うとおりだった。あんなにあたたかかった私たちの家族は、いつのまにか、どこかへ行ってしまった。栄光と引きかえに、私たちは大切な何かを、少しずつ失っていた。父が欲しかったのは、忘れられないこと。でも、そのために父は、いちばん忘れたくない時間を、自分の手で手放していた。家族で笑いあう、なんでもない夜を。もう二度と戻らない、その普通の幸せを。


        *


今思えば。


父の夢は、大きくなりすぎていた。


忘れられたくない。まん中に居続けたい。その父の願いは、もう、父一人のものではなくなっていた。それは、一族みんなを休みなく走らせる、大きなうねりになっていた。


父自身も、たぶん、もう止まれなかったのだと思う。走ることをやめたら、その瞬間に忘れられてしまう。そんな恐怖に、父は取りつかれていた。だから父は、自分も走り、周りも走らせた。止まる、という選択肢は、父の頭の中にはもう、なかったのだ。


そして。そのうねりのいちばん重いところを背負っていたのが、伊織だった。


栄家の人間性をつなぎとめていた、あのたった一本の糸は。もう、限界まで張りつめていた。


きりきりと音を立てるほどに、その糸は細く細くなっていた。でも、走ることに夢中な栄家の誰も、その糸が今にも切れそうなことに、気づいていなかった。いちばん重くその糸に寄りかかっていた父でさえ。その暴走を止められるたった一人が、今まさにすり減って倒れかけていることに、父は気づいていなかった。


その糸が、ぷつりと切れる日は。もう、すぐそこまで来ていた。

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