第八十二章 母・妙子の最期
その朝のことを、私は見ていない。
私は、先生のところへ行くために七時前に家を出た。
母は、もう起きていた。台所で包みを作っていた。前の晩にといでおいた米で、おにぎりを握ったのだ。それを、いつもの布に包んでいた。
あかりは、まだ寝ぼけた顔で母のうしろに立っていた。
行ってくるね、と私は言った。母は、こちらを見ずに、いってらっしゃい、と言った。手は動かしたままだった。
私は、あの子の顔をちゃんと見なかった。急いでいた。外の人が少ないうちに出なければならなかった。靴をはきながら、じゃあね、とだけ言った。
あの子が何か言ったような気がする。いってらっしゃい、だったのか、ママ、だったのか。
思い出せない。私は、そのことを、この十何年、思い出そうとしつづけている。何度やっても思い出せない。
ここから先は、私があとから集めたものだ。先生に聞いた話。警察の人に聞いた話。新聞に出た話。そして、そこにいた人たちがあとになって書いたもの。
それらは、ぴたりとは合わない。
*
はっきりしていることだけを先に書く。
母とあかりは、七時半ごろ家を出た。裏の戸から出た。そのころ家の前にいた人は、まだ二人か三人だった。二人は、川のほうへ歩いた。
その道の先に、兄の墓がある。母が、いつも歩いて通っていた道だ。
途中で、あかりの顔を誰かが見た。
そこから、増えるのが早かった。はじめに気づいた人が書いた。それを見た人が来た。近くにいた人が来た。前の日から町にいた人が来た。十分ほどで、二十人をこえていたという。
そのあいだのことは、たくさんの映像が残っている。私は、それを全部見た。
母は、はじめ、ふつうに歩いていた。あかりの手を引いていた。うしろから声をかけられても振り返らなかった。
そのうち、歩くのが速くなった。そして、走った。
追った人たちは、あとで、こう書いた。追ってはいない。ただ、同じ方向に歩いていただけだ。自分は、ずっと後ろのほうにいた。声はかけたが、それだけだ。走れとは言っていない。
なぜ逃げたのか、こちらには分からない。
*
その言い分は、たぶん全部、本当なのだと思う。一人一人を見れば、走っていない人もいた。声を出していない人もいた。ただついていっただけの人もいた。でも、七十を過ぎた女と十二の子どもから見れば、それは、二十人が追ってくるということだった。
誰も追っていなくて、追われている二人がいた。
二人は、川の土手に上がった。その川は、ふだんはたいした川ではない。子どもが石を投げて遊ぶような川だ。
でも、その週は雨が続いていた。宗太が駅で座りこんだ、あの雨だ。
水は、土手のすぐ下まで来ていた。色が変わっていて、音がしていた。
そこで、何が起きたのか。それが、合わないのだ。
一つ目の話は、こうだ。母は土手の上で立ち止まって、振り返った。そして、追ってきた人たちのほうをしばらく見ていた。それから、あかりを抱き上げて下りていった。
二つ目の話は、こうだ。
母は走ったまま、足をすべらせた。土手は雨でぬれていた。あかりの手を引いたまま、二人とも、そのまま落ちた。
三つ目の話は、こうだ。先に、あかりのほうがすべった。母は、その手を離さなかった。
*
映像も、いくつもある。でも、そのどれも、いちばん肝心なところが写っていない。近くにいた人のものは、走っているので揺れて、何も分からない。土手の下からのものは、木が邪魔になっている。遠くからのものは、小さすぎる。
いちばん近くにいた人は、その瞬間、撮るのをやめている。あとで、その人はこう書いていた。撮っている場合ではないと思った、と。私は、その人を責める気にはなれない。
警察は、事故として扱った。土手はぬれていた。母は七十を過ぎていた。走っていた。水は増えていた。それだけで十分に説明がついた。
誰も、二人を突き落としていない。誰も、触ってすらいない。
それでも、私は一つ目の話が頭から離れない。母が立ち止まって、振り返ったという話だ。もしそれが本当なら、あの数秒のあいだに、母は何かを決めたことになる。
母は私に言った。あの子だけは、こっちへ戻しちゃいけないよ、と。何があってもだよ、と。私が、戻します、と言ったとき、母は長いあいだ黙っていた。そして、そうかい、と言った。
母は、あの子を守れないことを、私より先に分かっていたのだと思う。
*
──いや。
私は、そう書きたいだけだ。母が、何もかも分かったうえで最後にあの子を抱いたのだと。そう書けば、母は、ただの気の毒な年寄りではなくなる。決めた人になる。
でも、そんな証拠は、どこにもない。
七十を過ぎた人が必死に走って、ぬれた土手ですべった。それだけかもしれない。たぶん、そちらのほうが、ずっとありそうなことだ。
私が知っているのは、こういうことだけだ。
母は、最後まで、あの子の手を離していない。引き上げられたとき、二人は、そういうかたちだった。それだけは、誰の話でも同じだった。
助けに入った人もいた。近くにいた男の人が二人、そのまま水に入った。一人は足をひどく切った。二人とも、届かなかった。
私は、あとで、その人たちに礼を言いに行った。
一人は泣いてしまって、何も話せなかった。もう一人は、こう言った。
──おれも、追いかけてた側なんです。
その人は、それだけ言って頭を下げた。
*
私が知ったのは、先生の事務所にいるときだった。老眼鏡の下から、いつものようにゆっくり話してくれていた。家のこと、期日のこと。私はうなずいて、紙に書きとっていた。
かばんのなかで、携帯が鳴った。私は、すみません、と言って出た。夫だった。
夫の声は、聞いたことのない声だった。言葉が、うまくつながっていなかった。川、と言った。それから、母さんと、あかりが、と言った。
私は、何を言われているのか、しばらく分からなかった。
そこからのことは、あまり覚えていない。事務所を出たことは覚えている。階段を下りたことも覚えている。
道を走った。かばんは、途中で持っていなかった。どこで落としたのかは分からない。あとで先生が届けてくれた。
走っているあいだ、私は二年前のことを考えていた。海の近くの、あの家のことだ。あの子が宿題をしながら、いいかげんな鼻歌をうたっていたことだ。なぜ、そんなことを考えていたのか分からない。
*
土手に着いたときには、人がたくさんいた。車も何台も止まっていた。制服の人がいた。それから、こちらへ向けられた、たくさんのものがあった。
私は、その前を通った。
誰かが、私に何か聞いた。奥さん、と呼ばれた気がする。私は答えなかった。答えたかどうかも覚えていない。
母の持ち物は、少なかった。財布と、家の鍵と、それから、あの布の包みだった。
包みは、土手の途中に落ちていた。走るときに落としたのだと思う。私が受け取ったとき、中身は、まだ形が残っていた。前の晩、母が暗い台所で握ったものだ。
六つ、入っていた。
母と二人で歩くのに、六つは多い。母は、いつも多く握る人だった。誰が来るか分からないから、と言って。
あの朝、母が誰の分まで握ったのか。それも、私には分からない。




