第八十一章 宗太の最期
ここで、話が前後する。これから書くことは、あの朝より前に起きていた。それなのに、私がそれを知ったのは、あの朝の何日もあとだった。
宗太は談話室で、あの番組を見た。施設の先生の話では、はじめから終わりまで身じろぎもせずに見ていたそうだ。
その番組が何を流したのかは、私にも分かる。同じものが、あの時期、どこでも流れていた。父の全盛期。父がどなっている場面。兄の三分。あの子の顔。敦の死。
そして、最後のほうで必ずこれが入る。当主となった次男は、経営に失敗し、勝者に頭を下げに行った。その写真つきで。
宗太は部屋に戻って、それきり出てこなかった。先生が声をかけても返事をしなかった。ご飯だけは、置いておくと、あとで食べていたそうだ。
そうして三日目の夜に、宗太はそこを出た。
夜の見回りのあいだの、わずかな時間だった。宗太は施設の服のまま、上に古い上着だけを羽織って出ていった。財布も持っていた。中には、いくらか入っていた。母が少しずつ渡していたお金だ。
そのお金で、宗太は切符を買った。
*
どこへ行こうとしていたのかは、その切符で分かった。家ではなかった。病院でもなかった。
宗太が買ったのは、私たちが子どもの頃に通った、あの撮影所のあった町までの切符だった。
あの撮影所は、もうない。十年以上前に取り壊されて、今は大きな買い物の建物と駐車場になっている。私も一度、そばを通ったことがある。何も残っていなかった。
宗太が、それを知っていたのかどうか。
たぶん、知らなかったのだと思う。あの人は、もう長いこと外の世界を見ていなかった。
宗太がそこで何をしたかったのかも、私には分からない。ただ、あの町は、あの人が「伊織くんの弟さん」と呼ばれていた場所だ。腕を組んで兄のまねをして、ちがう、兄さんのまねだ、とむきになっていた場所だ。
あの人が、まだ誰の代わりでもなかった、たった一つの場所だった。
宗太は、そこへたどりつけなかった。途中の乗り換えの駅で動けなくなった。
その日は冷えた。三月の終わりの、雨の降る晩だった。宗太は薄い施設の服の上に、上着を一枚着ているだけだった。
改札の内側の柱のそばに、座りこんでいたのだという。
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そこで、宗太は見つかった。駅の人にではない。通りかかった、若い人たちだった。
その動画を、私はあとで見た。見なければよかった。分かっていたのに、見た。
宗太は柱にもたれて、床に座っていた。髪はぬれて、額に張りついていた。口が半分開いていて、そこから白い息が出ていた。目は開いていた。開いていたけれど、どこも見ていなかった。
施設の服の、ズボンのすそが雨で黒くなっていた。片方の靴が脱げかけていた。そのすぐそばで、撮っている人が笑っていた。
声も入っていた。これ、あの人じゃない。栄の。ほんとだ。うわ、やば。一人が、宗太の顔の前で手を振った。おーい、と言った。宗太は、その手を目で追わなかった。
その動画は、その晩のうちに、たくさんの人に見られた。かわいそうだ、と言う人がいた。撮るのはひどい、と怒っている人もいた。そういう人のほうが、たぶん多かった。
でも、怒っている人も、それを見ていた。見て、これはひどいと言って、それを人に見せた。
そうやって、その晩、宗太はこの国のいちばん多くの人に見られた。四十年、まん中に立ちたかった人だ。
その人がいちばん多く見られたのが、その晩だった。
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しばらくして、駅の人が来て救急車を呼んでくれた。宗太は病院に運ばれた。冷えきっていて、もともと体も弱っていた。
三日後に、亡くなった。
私たちは、そのあいだ、何も知らなかった。施設からの連絡は、母の家の電話にかかっていた。その電話は、あの数日、朝から晩まで鳴りつづけていた。知らない番号ばかりだった。だから私たちは、電話に出るのをやめていた。
留守番の伝言も、いっぱいになっていた。そのなかに、施設の先生からの伝言が三つ入っていた。私がそれに気づいたのは、あの朝から何日もあとのことだった。
私は、その伝言を全部聞いた。一つ目は、宗太さんがいなくなりました、という声だった。二つ目は、見つかりました、病院にいます、という声だった。三つ目の声は、ずいぶん静かだった。
──宗太さんが、今朝、亡くなられました。
誰も、そばにいなかった。母もいなかった。私もいなかった。父は、別の病院で眠っていた。あの人が最後にいた部屋に、栄家の人間は一人もいなかった。
*
そして、もう一つ、書いておかなければならないことがある。
母は、宗太が死んだことを知らないまま逝った。あの伝言を聞いたとき、母は、もういなかった。
自分の産んだ子が、雨の駅で座りこんで、笑われながら撮られて、三日後に一人で死んだ。母は、そのどれ一つも知らずに、あの朝、あかりを連れて家を出た。
それが、せめてもの救いだったのか。それとも母は、何かを察していたのか。私は、そのことを考えないようにしている。考えると、どこにも行けなくなる。
私は、宗太のことを、この記録のなかで何度も書いてきた。器でなかった人。兄になれなかった人。父の席に座らされて、そこで壊れた人。それは、全部、外から見た書き方だ。
私は、あの人が何をしたかったのかを一度しか聞かなかった。四十年たって、たった一度だ。そして、あの人は、分かんない、と答えた。私は、それきり聞かなかった。
だから私には、あの晩のことがいちばん分からない。なぜ、あの町の切符だったのか。何をしに行こうとしたのか。誰かに会うつもりだったのか。それとも、ただ、いちばん古い記憶のほうへ歩きたかっただけなのか。
聞ける人は、もういない。
*
あとになって、私は施設へ荷物を取りに行った。部屋は片づいていた。もともと、物のない人だった。たんすの引き出しに、着替えが少しと、母が持たせたタオルが入っていた。それだけだった。
机の上に、一つだけ置いてあった。木の切れはしだった。二十センチほどの、削りかけのものだ。何になるはずだったのかは分からない。
先生に聞くと、こう言われた。宗太さんは時々、あれを削っておられました、と。
あかりの椅子を作った、あの手だった。
私は、それを持って帰った。今も、私の家にある。
一つだけ、書いておきたいことがある。あの動画のなかで、宗太は一度だけ口を動かしている。音は、はっきり入っていない。撮っている人たちの声のほうが大きい。私は、それを何十回も聞いた。音を大きくして、そこだけ繰り返した。
私には、こう聞こえた。
──兄さん。
たぶん、ちがう。寒くて、歯が鳴っていただけかもしれない。ただの息の音かもしれない。私が、そう聞きたかっただけだ。私は、いつもそうだ。
──それでも、私は、そう書いておく。
私が書かなければ、あの晩、あの人が何か言ったということ自体が、この世からなくなってしまうからだ。




