第八十章 決戦・壇ノ浦(二)
そこからは早かった。
はじめに、夫の仕事がなくなった。正しく言えば、辞めさせられたのではない。夫は自分から辞めた。
会社に迷惑がかかっていた。取引先からも電話が入るようになっていたらしい。上の人は、しばらく休んでいてくれればいい、と言ってくれたそうだ。
夫は、そうしなかった。家に帰ってきて、辞めてきた、とだけ言った。私が何か言おうとすると、夫が先にこう言った。
──君が謝ることじゃない。
その晩、夫は、いつもより長く湯につかっていた。
次に、あの会社のことを知った。あかりのあられの袋を最後まで続けてくれていた、地方の小さな会社だ。二年前、私のほうから、もうやめてくださいと頼んだ。
その古い袋の写真が、どこかで見つかったらしい。
会社の知らせのところに、たくさんの言葉が書きこまれた。子どもを使って商売をしていた、というようなことだったのだと思う。その商品は、じきに置かれなくなった。
*
電話は来なかった。あの年配の人は、何も言ってこなかった。うちのばあさんが好きだと言って笑っていた、あの人だ。
私からも、かけられなかった。かけて、何を言えばいいのか分からなかった。すみませんと言えば、あの人は、いやいや、と言うだろう。その、いやいや、を聞くのが、私には耐えられなかった。
だから私はかけなかった。それは、たぶん私の弱さだ。
団地のあの人にも、それは行った。敦の葬儀に来てくれた、七十くらいの男の人だ。あの日の写真に、その人が写っていた。誰かが、それを見つけた。栄家の側の人間として、名前が出た。
その人は何も悪いことをしていない。四十年前に父に切られて、体をこわして、それきりだった人だ。敦の話を二時間、うれしそうにしてくれた人だ。
その人の電話が鳴るようになったと聞いた。
私はそのとき、はっきり分かった。この家に優しくすると、その人が痛い目にあう。
あられの会社も、団地のあの人も、うちに親切にしただけだ。それだけで、こうなった。
だから、私たちは、もう誰にも近づけない。近づけば、その人が壊れる。栄家というのは、そういうものになっていた。
*
家も、なくなることになった。税理士の先生が来てくれた。二年前と同じように、老眼鏡の下からこちらを見て、ゆっくり話してくれた。ご自宅は、もう手放していただくことになります。時期は、こちらでできるだけ引き延ばします。ただ、そう長くはもちません。
母はうなずいて聞いていた。それは、いつ頃になりますか、と、二年前と同じように聞いていた。
そして、施設から電話が来た。宗太のいるところだ。
先生の言うことは丁寧だったが、はっきりしていた。門の外に人が来ていること。ほかの入所者の家族から声が出ていること。長くはお預かりできないかもしれないこと。
母は、分かりました、と答えた。それから、いくつか頭を下げて電話を切った。
でも、そのとき、先生はもう一つのことを言った。宗太が、テレビを見た、というのだ。
談話室にテレビがある。ふだん、宗太はそこへ行かない。でも、その日はたまたま座っていた。そして、栄家のことをやっている番組が、そこで流れた。
宗太は最後まで、それを見ていたそうだ。そのあと、何も言わずに部屋へ戻って、それきり出てこない、と。
*
母は、その話を聞いても顔色を変えなかった。私のほうがうろたえた。すぐに行かなければ、と言った。母は、こう言った。
──今は、行けないよ。
外に人がいる。私たちが動けば、そのまま、あの子の場所を教えることになる。母の言うとおりだった。
分かっていても、私はその場に座りこみたくなった。
そんななかで、一つだけできたことがある。あかりを、父に会わせた。
夜の十時を過ぎてからだった。裏の通用口の、そのまた裏の、職員の人が使う通りを教えてもらった。看護師さんが、わざわざ待っていてくれた。
短い時間だけなら、と言ってくれた。
父は眠っていた。あかりはベッドの横に立って、しばらく、その顔を見ていた。それから、小さな声で呼んだ。おじいちゃん、と。父は、目を開けなかった。あの子は、もう一度呼んだ。それでも開かなかった。
それでも、あかりは言った。おじいちゃん、あかり、来たよ。歌、教えてくれて、ありがとう。
*
そのとき、父の手が動いた。ほんの少しだった。布団の上で、指が二回ほど曲がった。それだけだった。目は開かなかったし、何も言わなかった。
あかりは、その手を両手で持った。
そして、しばらく、そうしていた。
あれが聞こえていたのかどうか。私には分からない。ただの体の動きだったのかもしれない。医者に聞けば、たぶん、そう言われる。でも、私は聞こえていたと思っている。
──思っている、と書くことしか、私にはできない。私はいつもそうだ。いちばん知りたいことは、いつも確かめられない側にある。
帰りの道で、あかりは機嫌がよかった。久しぶりに外に出たからかもしれない。夜の道は静かだった。あの子は、私と夫のあいだで手をつないで歩いた。そして、こう言った。
──言えた。
うん、と私は答えた。よかったね、と。あの子は、うなずいた。
*
家に帰ると、母が起きて待っていた。あかりが、言えたよ、と報告すると、母は、そうかい、よかったね、と言って笑った。それから母は、私にこう言った。
──明日、あんた、先生のところへ行ってきてくれるかい。
家のことで、聞いておきたいことがある。朝いちばんで行けば、外の人も、まだ少ないだろうから。
私は、うん、と答えた。
母は、続けて、こう言った。
──あかりは、私が見てるよ。
朝の早いうちなら外も静かだから、久しぶりに少し歩かせてやろうかと思ってね。ずっと家のなかで、かわいそうだから。
私は、それを聞いてほっとした。たしかに、あの子は何日も外に出ていなかった。母と二人なら、遠くへは行かない。それに、あの子は母によくなついていた。
お願い、と私は言った。
その晩、母は、あかりの髪を洗ってやっていた。湯殿から、二人の声が聞こえていた。あの子が、熱いと言って笑っている。母が、じっとしてなさい、と言っている。
出てきたあと、母は縁側であの子の髪をかわかしてやった。古い扇風機を回して、時間をかけて、ゆっくりととかしながら。
あかりは、その膝の上でうとうとしていた。
私は台所から、それを見ていた。いい光景だと思った。ただ、そう思っただけだった。
*
寝る前に、母が台所で米をといでいた。こんな時間に、と私が言うと、母は、明日の朝の分だよ、と答えた。歩きに行くなら、途中で食べるものがあったほうがいいから、と。
しゃっ、しゃっ、という、あの音がしていた。私は、おやすみ、と言って、自分の部屋へ行った。
私はその夜、久しぶりに少しだけ眠れた。父に会わせられた。あの子は、ありがとうと言えた。母が、あの子を見てくれる。
小さないいことが、その日は三つもあった。だから、眠れたのだ。
私は今でも、あの夜の自分をゆるせない。




