第七十四章 敦と熊野
その日のことを、私は見ていない。私が知っているのは、あとから聞いた音だけだ。だから、これから書くことは、そのほとんどが、私の頭のなかで組み立てたものになる。
その音を、私が聞いたのは、すべてが終わったあとだった。何度も聞いた。数えきれないほど聞いた。同じところで止めて、また戻して、また聞いた。
だから、机の木の色も、湯のみの数も、私は知らない。私が書く部屋の様子は、全部、私が勝手にこしらえたものだ。
それでも、書く。
敦はいつものように、名前の書かれた紙を持って歩いていた。古い契約の書類から書き出した、百をこえる名前。その日の分は、たしか三軒目だったという。
小さな会社の名前と、当時の住所。そこはもう別の建物になっていて、敦は近所で聞いて回った。何日かかけて、移った先を突き止めた。
そうして、あの部屋のドアの前に立った。
出てきたのは、四十半ばの男だった。敦は、その顔を知らなかった。あの人の話を見たことがなかったのだ。あの子は、そういうものをいっさい見ない子だった。世間が自分をどう言っているかも、ほとんど知らずにいた。
だから敦は、いつもと同じように名乗った。栄家の者です、と。
*
熊野のほうは、一目で分かったはずだ。何年も追ってきた一族の、最後に残った若い男。自分が名前を出して、その動きを取り上げたこともある相手。それが、自分の家のドアの前に立って頭を下げている。
熊野は、しばらく黙っていたそうだ。それから、入りなさい、と言った。
部屋は、狭かった。台所の小さな机に、二人で向かい合って座った。熊野はお茶を出した。
そして机の上に、小さな機械を置いた。私は、話すことは全部、記録に残しています。あなたの話も、そうさせてもらいます。熊野はそう断ったという。
敦は、はい、と答えた。それだけだった。断りもしなかったし、聞き返しもしなかった。
敦は紙を広げて、その会社の名前を読み上げた。そして、当時、栄家がその取引を一方的に打ち切ったことを順番に話した。日付。担当していた者の名前。切られた理由が、こちらの都合でしかなかったこと。
全部、事務所の古い書類から調べたことだった。
そのうえで敦は、机に手をついて頭を下げた。申し訳ありませんでした、と。
*
熊野は、しばらく何も言わなかった。そして、こう言った。
──その人は、私の父です。
敦は逃げなかった。顔を上げて、もう一度、深く頭を下げた。さっきより、ずっと長いあいだ、そのままでいたという。それから、こう言った。
──お父さんの話を、聞かせてもらえませんか。
そこから先は、長かった。熊野は話した。看板を作る仕事のこと。字幕に会社の名前が出た日のこと。取引がなくなってからの十年のこと。家族に謝りつづけた父親のこと。
敦は、ずっと聞いていた。時々、短く聞き返した。それは、いつごろですか、と。どの現場ですか、と。
何時間もたっていた。
熊野は途中で一度だけ、話をさえぎった。そして、こう聞いたという。
──あなたが謝って、私の父が戻りますか。
敦は、すぐに答えた。戻りません、と。
熊野は続けた。あなたは、あの家の何を守っているんですか。あの家がしたことを、あなたは知っているはずだ。それでも、あなたは、あの家の名前で頭を下げに来る。それは、あの家を少しでもましに見せるためではないんですか。
敦は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
──おれは、あの家を、ましに見せたいんじゃないです。
ましじゃなかったことを、ちゃんと言いに来ました。おれが言わないと、誰もこっちからは言わないので。
*
熊野は、それについて何も返さなかった。
音のなかでは、そこにずいぶん長い間があいている。湯のみを置く音がして、それから、また話が始まる。
そして敦は、あの話をした。あの三分の映像のことだ。熊野の父親に電話をかけた男のことだ。
敦は、こう言った。あの人は、伊織さんといいます。おれを見つけてくれた人です。
あの電話は、伊織さんが決めたことじゃないんです。会長に言えと言われて、かけたんです。伊織さんは、そのあと、ずっと──
そこで敦は、言葉を切った。自分が何を言っているのか、途中で気づいたのだと思う。
目の前にいるのは、その電話で人生を変えられた家の息子だ。その人に向かって、電話をかけた側の事情を話している。
すみません、と敦は言った。今のは、言うことじゃなかったです、と。
でも、そのあと、あの子はこう続けたのだ。
──ただ、伊織さんのことは、あの三分しか残ってないので。
あれが全部だと思われたままなのが、どうしても、いやなんです。
*
熊野はそこで一度、機械に手をのばしたという。止めようとしたのだ。でも、止めなかった。
あとになって、熊野はそのときのことを、こう書いている。
自分は二十歳のときに学校をやめた。父の会社がなくなって、働くしかなかったからだ。あの頃の自分が何を持っていて、何を持てなかったか。それを、ずっと数えて生きてきた。
目の前の若い男は、ちょうど同じ年だった。
そして、この男もまた栄家のせいで、持てるはずのものを持てずにいる。世間から石を投げられ、やせて、それでも他人の家のドアを叩いて回っている。
──この子も、あの家に、人生を取られた側なのではないか。
そう思った、と熊野は書いている。
音のなかに、一か所だけ、私がどうしても聞いていられないところがある。
話が長くなった途中で、熊野が席を立つ。冷蔵庫の開く音がして、何かを皿に出す音がする。そして、こう言うのだ。
──食べなさい。やせすぎだ。
敦は、はじめ、遠慮している。いえ、大丈夫です、と。それでも熊野が黙って置いたらしく、しばらくして、食べる音がする。
食べ終わって、敦は言う。ごちそうさまでした、と。
そして、頭を下げたのだと思う。音では見えないけれど、あの子は、必ずそうする。母のおにぎりを食べたときと、同じように。
自分の家を壊した一族の、最後の一人。その若い男に、熊野は、ものを食べさせた。
*
帰りぎわ、玄関で熊野は敦に聞いたそうだ。なぜ、そんなことをして回るのか、と。敦は少し考えてから、いつものように答えた。
──だって、誰かがやらないと。
そして頭を下げて、出ていった。
その音を、私はあとで何度も聞いた。ドアが閉まる音。階段を下りていく足音。それが、だんだん小さくなって消える。
そのあとが、長い。何も聞こえない時間が、ずいぶん続く。機械は、まだ動いている。
やがて、その静けさのなかに音が入る。低い、ひとつの声だ。言葉にはなっていない。長く息を吸って、それから、こらえきれずに漏れたような音だった。
一度だけだった。すぐに、また静かになった。
熊野は、そこを消さなかった。あの人は全部を残す人だ。まちがえたら訂正し、恨まれるなら名前で恨まれると決めた人だ。だから、自分のその音まで切らずに残した。
──と、私は思っている。
あるいは、ただ編集する気力がなかっただけかもしれない。あるいは、そこを残せば人の心が動くと計算していたのかもしれない。私には確かめようがない。
私に分かるのは、その音がたしかに残っていた、ということだけだ。




