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一億人が、あの一家を愛していた ~ある芸能一族の栄光と滅びの記録~  作者: 智珠
第五部 滅び

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第七十三章 熊野の激情

熊野は、なぜ栄家を追いつづけるのか。そのことを、あの人は一度も言わなかった。何年ものあいだ一度もだ。淡々と資料を並べ、丁寧に話し、間違えれば訂正する。それだけを、ただ続けていた。


きっかけは、つまらないことだった。どこかの誰かが、熊野についてこう書いたのだ。あの人も、結局は数字がほしいだけだ。人の不幸で稼いでいる。正義のふりをした商売だ、と。


そういう声は、それまでにもあった。熊野はいつも黙って流していた。でも、その日はちがった。


その夜、熊野はいつもの時間に画面に出てきた。はじまりは、いつもと同じだった。同じ場所。同じ机。話す前の小さなせきばらいも同じだった。


今日は資料を用意していません。熊野はそう言った。今日は、私の話をします、と。


熊野の父親は、小さな会社をやっていたという。社員は数人。テレビの現場で使う道具を作る仕事だった。番組で使う棚や看板や、小さな作りもの。表には何も残らない仕事だ。それでも父親は、その仕事を誇りにしていた。


いちばん大きな取引先が、栄家だった。


熊野が中学生の頃には、家に少しずつ余裕が出てきていたそうだ。父親は、自分の会社の名前が番組の終わりの字幕に出た日、それを録画して、何度も家族に見せたという。


熊野は、その録画のことを、細かく話した。番組の終わりに、下のほうを小さな字が流れていく。そのなかに父親の会社の名前がある。ほんの一秒ほどだ。父親は、そこで再生を止めて、ここだ、と指をさす。


熊野は、そのとき、うるさいと思ったそうだ。中学生だった。父親が同じ場面を何度も見せるのが恥ずかしかった。


でも、と熊野は言った。あのとき、もっとちゃんと見ておけばよかった、と。


        *


その取引が、ある日、なくなった。理由は、はっきり言われなかった。ただ、電話が一本かかってきて、それで終わりだったのだと熊野は言った。


──今回の件は、うちとしては、もう決まったことなので。すみませんが、次からは、別のかたにお願いすることになります。


熊野は、その言葉をそらで言った。


私は、息が止まった。私は、その言葉を知っていた。あの三分の映像だ。兄が若い声で、事務的に言っていた、あの言葉だった。


電話の向こうにいた人の名前を、熊野はあのとき読み上げていた。声を揺らして、失礼しました、と言って次へ進んだ。


あれは、この人の父親だったのだ。


そのあとに起きたことを、熊野は順番に話した。何も、劇的なことは起きなかった。


取引がなくなって、社員が減った。父親は、あちこちに頭を下げて回った。うまくいかなかった。少しずつ借りが増え、少しずつ家のなかから物が減った。母親が働きに出た。


熊野は、進みたかった学校をやめて働きはじめた。


父親は、それから十年ほど生きた。そのあいだ、ずっと謝っていたという。家族に。何度も何度も。すまない、と。そして、小さな部屋で静かに死んだ。誰にも知られずに。


        *


ここまで、熊野の声は平らだった。いつもの、低くて少しかすれた声のままだった。資料を読むときと何も変わらなかった。でも、次の一言で、その声がはじめて壊れた。


──誰も、うちの父のことを、どこにも書かなかったんです。


熊野はそこで、長いあいだ黙った。画面のなかでうつむいて、肩で息をしていた。それから顔を上げて、話を続けた。目のふちが赤くなっていた。


栄家が滅びたときには、日本じゅうが騒ぎました。何万という人が、あの一家について語りました。今も語っています。


でも、私の父のことは、どこにもありません。父の会社があったことも、その名前が字幕に出たことも、それがある日なくなったことも。何にも残っていない。熊野は、そう言った。


──私は、忘れられるのが、いちばん許せないんです。


その回の終わりに、熊野は、もう一つだけ話した。なぜ、顔と名前を出しているのか。それを、はじめて説明したのだ。


隠れて言えば楽になります。熊野はそう言った。でも、隠れて言われた言葉は、誰のものでもなくなる。誰のものでもない言葉が人を潰していくのを、私は見てきました。


だから私は名前を出します。まちがえたら、その名前で謝ります。恨まれるなら、その名前で恨まれます。


──父も、名前のある人でしたから。


        *


私は、画面の前で動けなくなった。


それは、父の言葉だった。忘れられるということが、どういうことか分かっていない。父は私にそう言った。あの人は一生、それにおびえて生きた。まん中に立ちつづけようとして、そのために人を切った。


その切られた側の人間が、四十年後にまったく同じことを言っている。忘れられたくない。覚えていてほしい。なかったことにされたくない。父も熊野も、そして私も、みんな同じことを言っていた。


その夜から、私は熊野を憎めなくなった。憎みたかった。ずっと、この人だけは憎んでいいのだと思ってきた。名前を出しているから。顔を出しているから。だから、この人にだけは、こちらの痛みをぶつけていいのだと。


でも、あの声を聞いてしまった。


──もっとも、これも私の勝手な受け取り方かもしれない。あの晩の熊野が、どこまで本気で、どこからが人に見せるための涙だったのか。私には分からない。分からないのに、私は信じてしまった。信じたかったのだと思う。私は、いつもそうなのだ。


        *


家に帰ってから、私は、母にもその名前を言ってみた。母は洗い物の手を止めた。そして、すぐに答えた。


──ああ、あの人ね。看板を作ってくれてた。


母は覚えていた。会社の場所も、その人の顔も、奥さんが一度あいさつに来たことも。父が名前も知らなかった相手を、母は全部覚えていた。


私は母に聞いた。あの頃、頭を下げに回ってたでしょう。あそこにも行ったの、と。


母は、しばらく黙ってから、うなずいた。行ったよ、と母は言った。でも、もう会社はなかった。建物も別のものになっていた。近所で聞いても、どこへ行ったか誰も知らなかった。


──だから、あの人には、まだ、謝れてないの。


母はそう言って、また洗い物に戻った。


数日後、私は、実家に帰った。縁側の父の横に座って、私はその名前を言ってみた。熊野が読み上げた、あの人の名前だ。お父さん、この人のこと、覚えてる、と。


父は庭を見たまま、しばらく考えていた。本当に考えている顔だった。思い出そうとしている顔だった。


そして、こう言った。


──知らんな。


        *


私はそれ以上、何も言えなかった。父は少ししてから、独り言のように付け足した。


──おれは、名前は覚えん質でな。


そう言って、また庭を見た。


熊野は、四十年前に切られた人たちの名前を一人残らず調べ上げた。何百という名前を、順番に、正確に覚えている。


その名前を終わらせた男は、一つも覚えていなかった。


帰りの電車で、私はずっと考えていた。熊野が調べているのは栄家の罪だ。それは、まちがっていない。父はやった。兄も、言わされたとはいえ、やった。でも、あの人が本当にさがしているのは、たぶん罪ではない。


自分の父親が、この世にたしかにいたという、その証拠だ。


そして、それを一つも残さなかったのが、うちなのだった。

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