第六十九章 宗太の転落の底
書類に判を押した二か月ほどあとに、宗太が、家に帰ってきた。
先生の許しは出ていた。落ち着いていますから、ご家族のそばで過ごされるのもいいでしょう、と。母が迎えに行って、二人で電車に乗って帰ってきた。
玄関で靴を脱ぎながら、宗太は、ただいま、と言った。ずいぶん静かな声だった。
その日から、宗太は、よく働いた。朝は誰よりも早く起きて、雨戸を開ける。庭の草をむしる。父の背中を流す。母が台所に立てば、横で野菜を切る。ずっと家にいて、家のことを一つずつ、丁寧にやっていた。
宗太がみそ汁を作った日のことを、私は覚えている。少ししょっぱかった。父は何も言わずに全部飲んだ。宗太は、それを見てうれしそうにしていた。
その頃の宗太は、たぶん生まれてはじめて、幸せそうだった。
あかりも、その頃の宗太に、よくなついていた。宗太は、あの子のために、木の切れはしで小さな椅子を作ってやったことがある。ずいぶん不格好なものだった。脚の長さが少しちがっていて、座るとかたかた鳴った。
あかりは、それを気に入って、しばらくどこへ行くにも持ち歩いていた。かたかた鳴るのがいい、と言って笑っていた。宗太は照れくさそうに、直そうか、と言った。あかりは、いい、これがいいの、と言った。
宗太が、あんなに長く笑っているのを、私は久しぶりに見た。
*
思えば宗太は、子どもの頃からそういう子だった。私は覚えている。まだみんなが小さかった頃、大人たちは宗太を見ると、必ずこう言った。ああ、伊織くんの弟さんね、と。
宗太はそのたびに、はい、と答えて、うれしそうにしていた。兄のおまけであることを、あの頃の宗太は少しも嫌がっていなかった。むしろ、誇らしかったのだ。
撮影所で兄のまねをして、大人みたいに腕を組んでみせていたことがある。誰かが、社長そっくりだ、と笑うと、宗太は、ちがう、兄さんのまねだ、とむきになっていた。
あの子は、ただ兄が好きだっただけだった。
でも、それは、長くは続かなかった。
ある日、宗太が朝から出かけていった。母が聞いても、ちょっと用があるから、としか言わない。きちんとした格好をしていた。父の古いネクタイを締めていた。
帰ってきたのは、夜だった。何も言わずに、まっすぐ自分の部屋へ行った。母が声をかけても返事をしなかった。
*
何があったのかを知ったのは、それから数日たってからだった。
宗太は、鎌のところへ行っていたのだ。誰にも言わずに、一人で。約束もなく、受付で名乗り、待たされ、それでも待って。何時間も、あのきれいな受付のソファに座っていたのだという。
そして、鎌は、会ってくれた。
その場に私はいない。あとから聞いた話だ。だから、どこまで本当かは分からない。
鎌は丁寧だったという。宗太を座らせ、お茶を出し、最後まで話を聞いたそうだ。
宗太は頭を下げて頼んだ。うちの人間は、もうそちらにお世話になっている。せめて父の名前だけは汚さないでほしい。番組の資料でも昔の映像でも、父を悪く使うのはやめてほしい、と。
鎌はうなずいて、こう言ったという。
──分かりました。それと、宗太さん。もしよろしければ、あなたも、うちで面倒を見ますよ。
優しい声だったそうだ。
宗太は、それを断った。断って、また頭を下げて帰ってきた。
*
その話が、外に出た。誰が流したのかは分からない。受付にいた人かもしれない。通りかかった誰かかもしれない。ともかく、写真が一枚出回った。ビルの前で深く頭を下げている、宗太の後ろ姿だ。
元・栄家当主、勝者に頭を下げる。そういう見出しがついた。
その写真の下に、たくさんの言葉が並んだ。今さら何を。自業自得だ。みじめだ。おもしろがっている人もいた。かわいそうだ、と言っている人もいた。どちらも宗太には同じだった。
私は、その写真を見ないようにした。でも、一度だけ見てしまった。
宗太の背広の背中が、ずいぶん大きく見えた。やせて、肩が余っていたのだ。父の上着と同じだった。
父は、その件について何も言わなかった。あれほど何かにつけて宗太をどなってきた人が、このときだけは一言も言わなかった。どなってくれたほうが、よかったのかもしれない。
宗太は待っていたのだと思う。父が何か言ってくれるのを。ばかなことをするな、でもよかった。よくやった、でもよかった。とにかく、自分のしたことに、父が何か言ってくれるのを。
父は、庭を見ていた。
*
その日から、宗太はしゃべらなくなった。雨戸も開けなくなった。草もむしらなくなった。一日じゅう部屋にいた。ご飯だけは、母が持っていくと食べた。
ある晩、私が部屋をのぞくと、宗太は暗いなかで古い映像を見ていた。
伊織の映像だった。兄が生きていた頃の番組の録画だ。宗太はそれを、何度も何度も繰り返し見ていた。私が入ってきても、顔を上げなかった。
私は、その横に座った。しばらく二人で、それを見ていた。
そのとき、宗太がぽつりと言った。
──おれ、兄さんの代わりに、ちゃんとやれてたのかな。
私は、答えられなかった。やれていた、と言えばうそになる。やれていなかった、と言えるはずもない。私は口を開いて、また閉じた。
宗太は、私の返事を待っていなかったと思う。画面を見たまま、こう続けた。
──兄さんなら、こんなことにはなってない。
私はそのとき、はじめて、あることに気がついた。この人は、生まれてから今まで、一度も、自分のことを聞かれたことがないのではないか。兄のおまけとして育ち、兄が死んだら兄の席に座らされ、そこで壊れた。そのあいだ、誰もこの人に聞かなかった。おまえは何をしたいのか、と。父も聞かなかった。母も聞かなかった。私も聞かなかった。
だから私は、聞いてみた。
──宗太は、ほんとうは、何になりたかったの。
宗太は、はじめてこちらを向いた。そして、ずいぶん長いあいだ黙っていた。それから小さな声で言った。
──分かんない。
考えたことなかった、と。
*
私は、それがこの人の底だったのだと思う。会社をなくしたことでも、頭を下げたことでも、写真を撮られたことでもない。四十年以上生きてきて、自分が何になりたかったのか一度も考えたことがない。それに、この年で気がついてしまったこと。それが宗太の底だった。
──もっとも、これも私が外から見てそう思うだけの話だ。宗太の底が、本当はどこにあったのか。それは本人にしか分からない。そして本人は、もう、それを言わない人になってしまった。
その晩、私は眠れなかった。思い出していたのは、ずっと前のことだ。兄が死んで、宗太が、あの席を継がされることになった日。宗太は、私のところへ来て、こう言った。おれには、無理だ、と。
あのとき私は、何と答えただろう。宗太ならできる、と言ったのだ。お兄ちゃんとはちがうやり方があるはずだ、と。宗太のいいところを、みんな、いつか分かってくれる、と。
私は、はげましたつもりだった。この家で、いちばんこの人の味方だったのは自分だと、そう思っていた。
でも、あれは、宗太をあの席に押した手の一つだった。父の命令と、世間の期待と、それから、妹のはげましと。この人を、逃げられなくしたものの一つに、たしかに私がいた。
そのことに、私は、四十年たって、暗い部屋のなかで、やっと気がついた。
*
次の朝、宗太はいなかった。自分で荷物をまとめて、始発であの施設へ戻っていた。台所の机に、書き置きが一枚あった。
めしが、うまかった。ありがとう。それだけだった。
母はそれを読んで、丁寧にたたんで、たんすの引き出しにしまった。宗太が自分の手で書いたものを私が見たのは、それが最後になった。




