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一億人が、あの一家を愛していた ~ある芸能一族の栄光と滅びの記録~  作者: 智珠
第五部 滅び

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第六十八章 所属タレントの離散

人がいなくなるのは、思っていたより、静かなことだった。


はじめに来たのは、水上さんだった。二十年以上、栄家にいた人だ。大きなスターではなかったけれど、いつもどこかの番組の隅にいて、決まった役どころで笑いを取る。そういう、たしかな人だった。


その人が菓子折りを持って、事務所に来た。


長いあいだ、お世話になりました。そう言って深く頭を下げた。頭を上げたとき、目が赤かった。おれは、ほんとうは最後までいたかったんです。でも、女房が、と言いかけて、そこで止まった。


私は、行ってください、と言った。うちにいたら、もう仕事は来ません。あなたには家族がある。水上さんが最後まで残ってくれたことは、私が覚えています。だから、行ってください、と。


水上さんは、もう一度頭を下げて出ていった。ドアが閉まってから、私は菓子折りをしばらく見ていた。この人はたぶん、これを買うお金にも困っていたはずだった。


        *


それから、堰が切れた。一人が出ていくと、次の人が出やすくなる。まだ迷っていた人も、あの水上さんが出たのなら、と思ったのだろう。次の週には五人、その次の週には十人と、書類が机に積まれていった。


みんな丁寧だった。恨み言を言う人は一人もいなかった。むしろ、申し訳ない、と言って泣く人のほうが多かった。私はそのたびに、こちらこそすみません、と言って頭を下げた。


そのうち、あいさつもなく、ただ来なくなる人が出はじめた。


私が気づくのは、いつもずいぶんあとだった。ある日ふと、そういえば、あの人を何週間も見ていない、と思う。連絡を取ろうとすると、もうつながらない。そういうことが何度もあった。


一人だけ、ちがう出方をした人がいた。若い男の子だった。まだ二十代の半ばで、少し前にやっと名前が売れはじめたところだった。その子がある番組に出て、栄家のことを話したのだ。


自分は、あの事務所でずっと苦しんできた。言いたいことも言えなかった。ようやく自由になれました。そういうことを、涙ながらに話していた。司会者が、よく決断しましたね、とねぎらっていた。


私は、それをテレビで見ていた。正直に書くと、はじめは腹が立った。この子がまだ何者でもなかった頃、うちで面倒を見たのはたしかだった。それを、こんなふうに言うのか、と思った。


でも、その怒りは、その晩のうちにしぼんでしまった。


私は思い出したのだ。ずっと前、事務所のパーティーで、その子の奥さんに会ったことがある。まだ結婚したばかりで、お腹が大きかった。この人がいつか売れてくれたらいいんですけど、と言って、恥ずかしそうに笑っていた。


あの子には、その人と子どもがいる。


栄家にいたというだけで仕事が来なくなるなら、あの子には、あれを言うしかなかった。うちを踏んで、そのぶん高く見せる。それが、生き延びるいちばん確かなやり方だった。


だから私は、あの子を責められなかった。


        *


出ていった人たちが、そのあとどこへ行ったのか。しばらくして、私はそれを知ることになった。


テレビをつけると、見慣れた顔がいくつも映っていた。水上さんも、いつもの役どころで、いつものように笑いを取っていた。ほかにも、うちにいた人が何人も、前と同じような仕事をしていた。


その人たちの名前の下にある事務所の名前が変わっていた。鎌のところだった。


鎌は、何もしなかった。うちの人間を引き抜きにかかったことは、一度もない。そういう話は最後まで聞かなかった。あの人はただ、行き場をなくした人たちを静かに受け止めただけだ。困っているなら、うちで面倒を見ますよ、と。


その言い方は、たぶん、とても優しかったのだと思う。


こうして、父が四十年かけて集めた人たちが、ほとんどそっくり鎌のものになった。争いも金もいらなかった。栄家という建物が崩れて、そこに住んでいた人たちが隣の家に移った。それだけのことだった。


私はそのとき、はじめて分かった気がした。鎌は、栄家を壊そうとしていたのではない。栄家が持っていたものを、そのままの形で受け取ろうとしていたのだ。壊れるのを待っていれば、中身は傷つかずに手に入る。


        *


あかりのことも、決めなければならなかった。あの子も、書類の上では、この事務所に属していた。会社がなくなれば、あの子は、どこにも属さない子になる。


私は、あかりに、それを話した。おかあさんたちの会社が、なくなること。だから、お仕事を頼まれても、受けてくれる人が、もういないこと。


あかりは、しばらく考えてから、聞いた。


──じゃあ、あかり、もう歌わなくていいの。


私は、返事に詰まった。あの子が、それを、ほっとして言ったのか、さびしくて言ったのか。声だけでは、分からなかった。


いいのよ、歌いたいときに歌えば。私は、そう答えた。


あかりは、うん、と言った。それだけだった。あのとき、あの子の顔を、ちゃんと見ておけばよかった。今でも、そう思う。


会社をたたむ日、事務所で、簡単な集まりをした。母が、おにぎりをたくさん作って持ってきた。誰が来るか分からないから、と言って、ずいぶん多く作っていた。


来たのは、三人だった。


税理士の先生と、辞めたあとにわざわざ来てくれた水上さんと、敦だった。


母はうれしそうに、おにぎりをすすめた。水上さんは二つ食べて、ごちそうさまでした、と言った。誰も湿っぽいことは言わなかった。天気の話をして、少し笑って、それで終わりだった。


おにぎりは、たくさん余った。


        *


父は、その集まりに来なかった。母が、朝、声をかけたのだという。みんな来るから、顔だけでも出したら、と。父は、縁側に座ったまま、首を横に振った。


──おれが行ったら、みんな、気をつかうだろう。


母は、それ以上、何も言わなかった。


四十年かけて集めた人たちが、最後に集まる日に、その人たちを集めた男が、家で一人、庭を見ていた。私は、あとでそれを聞いて、しばらく何も手につかなかった。


父が、はじめて、自分より人のことを先に考えた日だったのかもしれない。──いや、これも、私の書きすぎだ。父は、ただ、人前に出るのがこわかっただけかもしれない。それは、もう、確かめようがない。


私は、みんなが去ったあと、事務所に残っていた。机が二つ。古いソファ。壁には、色のあせた昔のポスターが、まだ何枚か貼ってあった。父が若かった頃の番組のものだ。


私はノートを開いて、名前を書きはじめた。栄家にいた人たちの名前だ。思い出せるかぎり全部書いた。長くいた人も、すぐに辞めた人も、私が一度しか会ったことのない人も。名字しか思い出せない人は、名字だけ書いた。


そのなかに、あの若い子の名前も書いた。なぜ書いたのか、自分でも、うまく説明できない。憎かったわけではない。ゆるしたわけでもない。ただ、あの子もたしかにここにいた。それは本当のことだった。本当のことは、書いておかないとなくなってしまう。


──と、今ならそう書ける。でも、あのときの私がそこまで考えていたかどうかは、あやしい。ただ、手が止まらなかっただけかもしれない。


        *


書いているあいだ、部屋の隅で、小さな音がしていた。敦が、あのギターを弾いていた。誰もいない事務所で、いつもと同じように小さな音で。私が名前を書き終わるまで、その音はずっと続いていた。

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