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一億人が、あの一家を愛していた ~ある芸能一族の栄光と滅びの記録~  作者: 智珠
第五部 滅び

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第六十六章 デジタルタトゥーの刃

それは、二十年近く前の、たった三分ほどの映像だった。


どこかの局の、収録の合間に撮られたものらしかった。画質はあらく、音も遠い。人が行き来する控え室のような場所で、若い男が一人電話をしている。


兄の伊織だった。まだ三十にもならない頃の兄だ。私が知っている、あの少し疲れた顔をする前の兄。声も記憶より高かった。


その兄が、電話の向こうの相手にこう言っていた。


──今回の件は、うちとしては、もう決まったことなので。ええ。すみませんが、次からは、別のかたにお願いすることになります。


淡々とした、事務的な声だった。相手が何か言っている。兄はそれをさえぎるように続けた。


──おっしゃることは分かります。ただ、うちにも都合がありますので。はい。では。


それだけだった。兄は電話を切って、少しのあいだそこに立っていた。うしろで誰かの笑い声がした。映像は、そこで終わっていた。


        *


その三分が、私たちに、とどめを刺した。


父の映像なら、もう何度も流れていた。今さら父が何をどなっていようと、人々は驚かなかった。父は、はじめからそういう男だと思われていた。


でも、伊織はちがった。兄はあの一家の、たった一つきれいな名前だった。世間が栄家を憎んでいたあいだも、伊織さんだけは別だ、と言われていた。若くして亡くなったこともあって、兄の名前だけは、まだ守られていた。父が切ろうとした会社の社長が、かつてこう言ってくれたこともある。あの人は、栄家でたった一人、人の痛みが分かる人でした、と。


その名前が、この三分でなくなった。


人々の言い方は、それまでとは少しちがっていた。やっぱりな、という言い方だった。あの一家に、きれいな人間なんて、はじめからいなかった。いちばんいい人だと言われていた男がこれだ。結局、みんな同じだったんだ、と。


一つの動画が二十年をさかのぼって、一人の死んだ人間の全部を書きかえてしまった。


        *


熊野は、その回でいつになく慎重だった。この方は、すでに亡くなっています。ですので私は、この方個人を責めるつもりはありません。ただ、記録として、こういうことがあったという事実だけは残しておく必要があると考えました。


そう前置きして、熊野は電話の相手だった人の名前を読み上げた。


その名前を読んだとき、熊野の声がまた揺れた。前に一度だけ聞いた、あの揺れと同じだった。熊野は少し間を置いて、失礼しました、と言い、そのまま次の資料に移った。


私は、その名前を聞いたことがなかった。栄家に切られた人など、数えきれないほどいた。そのなかの一人だった。私にとっては名前だけの人だった。


死んだ人は、何も言えない。それが、いちばんこたえた。


もし兄が生きていたら、あれには前後の事情があった、と言えたかもしれない。あの日、あの電話をかける前に何があったのか。誰の指示だったのか。あのあと兄が何をしたのか。一言でも言えたかもしれない。


でも、兄はいない。


死んだ人のことは、残っている記録がそのまま、その人になる。生きている人なら、まちがいだと言い返せる。あやまることもできる。変わったところを見せることもできる。死んだ人には、そのどれもできない。三分の映像が、四十年の生涯より重くなる。


        *


父は、その映像を一度だけ見た。見終わって、父はしばらく黙っていた。それから低い声で言った。


──あれは、おれが言わせたんだ。


伊織は反対した。何度も反対した。それでも、おれが言えと言った。あいつはおれの命令で、あの電話をかけた。父はそう言った。


私は、それを信じた。あの頃の父と兄なら、たしかにそうだっただろうと思った。


でも、それを言える場所はどこにもなかった。父が今さら何を言っても、罪をのがれようとしているだけだと思われる。それに証拠が何もない。あるのは、あの三分だけだった。


敦も、それを見た。事務所で、あの子は画面をじっと見つめていた。それから、はっきりと言った。


──これ、おれの知ってる伊織さんじゃないです。


でも、敦はそのあと何も言えなかった。あの子が知っている伊織は、地方の催しの帰りに一人の子どもを見つけて、目を輝かせていた男だ。名前を呼んでくれた人だ。


その伊織を証明するものは、この世のどこにもない。あの子の頭のなかにしかないのだ。


こちらには思い出しかなく、向こうには記録がある。それが、あの戦いのどうしようもないところだった。


        *


その頃、私は、兄のことばかり思い出していた。たとえば、こんなことがあった。


兄がまだ生きていた頃、夜おそくに実家へ寄ると、兄が台所に立っていた。電気もつけずに、冷えたご飯を立ったまま食べていた。一日じゅう働いて、帰ってきて、誰も起こさないように、暗い台所で。


私が声をかけると、兄は驚いて、それから笑った。見つかったか、と言った。ないしょな。母さんに言うと、また何か作りはじめるから、と。


それだけの話だ。この話には、映像がない。録音もない。証言してくれる人もいない。あの夜、あの台所にいたのは、兄と私だけだった。


私が死ねば、この話は、この世から消える。でも、あの三分は、残る。私が死んでも、たぶん、残る。


私は、その三分を、何度も見た。何十回も見た。兄の顔を少しずつ止めながら見た。私の知っている兄が、どこかに映っていないかと思ったのだ。


そして、見つけた。電話を切ったあと、兄が立ちつくしている、その数秒だ。画面のはしで、兄の右手がわずかに震えていた。


私は、それを知っている。あの手だ。父の無理な命令をいくつも背負わされていた頃、兄の手は、若いのに老人のように震えるようになっていた。私は、それを何度も見ていた。


私は、そこに兄を見つけた気がした。事務的な声で人を切ったあと、この人は手を震わせていたのだ、と。


──でも、それは映像のあらさかもしれない。画面のちらつきかもしれない。私は、そう見たかっただけかもしれない。何十回も見てやっと見つけた数秒を、証拠だと言い張るつもりはない。


それでも、私は、そこを何度も止めて見た。


        *


私は、ずいぶん前に、こう思ったことがある。人は忘れられていく。あれほど愛された一家のことを、みんなきれいに忘れていく。


でも、それは半分でしかなかった。人々は、私たちが誰だったかは忘れる。父が何を作ったのか。兄がどんな人だったのか。あの子がどんな声で歌ったのか。そういうことは、あっさり忘れられていく。


それなのに、私たちが何をしたかだけは、いつまでも消えない。誰かが名前を打ちこめば、いつでも出てくる。二十年前の三分が、そこにある。十年たっても、たぶんそこにある。


忘れられて、それでいて、消えない。私たちは、その二つを、同時に生きていた。


消せないのなら、いったいどうすればいいのか。そのときの私には、まだ何も分からなかった。


母だけは、その映像を見なかった。私が話そうとすると、母は手を振ってさえぎった。そして、それだけ言った。


──あの子は、そんな子じゃないよ。


証拠も理屈もなかった。母は、ただそう言い切った。そして、そのまま台所へ立って米をとぎはじめた。


しゃっ、しゃっ、という、あの音がした。私は、その音を、しばらく聞いていた。

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