第六十四章 敦という若者
あの番組のあと、栄家に残っていた者は、ほとんどいなくなった。もともと、ひとにぎりしか残っていなかった。その最後のひとにぎりが、静かに去っていった。誰も責められなかった。あんな番組が流れたあとで、この家の名前を背負って仕事をするのは、そのまま自分の首を絞めることだったからだ。
それでも一人だけ、去らなかった若者がいた。敦といった。
二十歳になったばかりの若者だった。背が高くて少し背中を丸めていて、口数が少ない。声をかけると、はい、と短く返事をして、それからゆっくり笑う。そういう子だった。
その子のことを、私はずっと前から知っていた。というより、その名前を、私はどうしても忘れられなかった。敦を見つけたのは、兄の伊織だったのだ。
もう十年以上前になる。兄がまだ生きていた頃だ。地方のちいさな催しに出た帰りに、兄が一人の子どもを連れてきたことがあった。九つか十くらいだったと思う。人見知りで、ずっとうつむいていた。
兄はめずらしく興奮していた。あの子は来る。ぜったいに来る。おれは、そういうのが分かるんだ。そう言って笑っていた。あんなに子どもみたいな顔で笑う兄を見たのは、あれが最後だったかもしれない。
でも兄は、その子を世に出す前に逝ってしまった。
残された敦は、どこへも行かなかった。あの人が見つけてくれたから、と言って、この傾いていくばかりの事務所にずっといた。何の約束もなかったのに。ろくな仕事もなかったのに。
*
その頃の栄家の事務所は、もう事務所とも呼べないものになっていた。小さな部屋を借りているだけで、机が二つと古いソファがあるきりだった。人の出入りは、ほとんどない。電話も鳴らない。
その部屋の隅に、いつも敦の古いギターが立てかけてあった。塗りがはげて、角がぶつけて丸くなっている安物だった。子どものときからのものだと聞いた。誰もいない時間に、敦はそのギターを抱えて、小さな音で弾いていた。歌詞のないところは、ふんふんと鼻でつないでいた。
一度、私が入っていくと、敦はあわてて手を止めた。すみません、うるさかったですか、と。私は、続けて、と言った。敦は少し照れて、それからまた弾きはじめた。
あの日聞いた曲のことを、私はいまでもはっきり覚えている。うまい歌だとか、そういうことではなかった。ただ、その声を聞いていると、狭くて薄暗いその部屋の空気が少しずつ変わっていった。窓の外の音が遠くなって、時間がゆっくりになるような感じがした。
弾き終わって、敦は言った。まだ途中なんです。誰にも聞かせたことないんですけど、と。じゃあ、なぜ私に聞かせてくれたの、と聞くと、敦は少し考えてから答えた。徳子さんは伊織さんの妹さんだから、と。
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母は、敦をよくうちに呼んだ。若い子は食べさせないとだめだから、と言って山のようにおにぎりを握る。敦は、はじめのうちこそ遠慮していたけれど、そのうち、本当によく食べるようになった。三つも四つも平らげて、ごちそうさまでした、と深く頭を下げる。
その姿を見て、母が笑っていた。父も縁側から、ちらちらと見ていた。あの子は、よく食うな。父がそう言ったことがある。それだけの言葉だったけれど、父が誰かのことをそんなふうに言うのを聞いたのは、ずいぶん久しぶりだった。
沈んでいくばかりだったあの家に、その頃たしかに小さな灯りがともっていた。それは、この口数の少ない若者が持ってきたものだった。
一度だけ、敦が人前で歌うのを見たことがある。あかりの、地方の小さな仕事の前座のようなかたちだった。会場は、公民館の一室で、集まったのは三十人ほど。折りたたみの椅子が並んでいるだけの、粗末な場所だった。
前のほうの席では、おじいさんが二人、世間話をしていた。子どもが走りまわっていた。誰も、この若者に期待などしていなかった。
でも、敦が一曲目を歌いだして、少ししたころ、その部屋が、しんとなった。
世間話が止まった。走っていた子が、立ち止まった。誰も、拍手のしかたも分からないまま、ただ、その声を聞いていた。歌い終わったあと、少し間があって、それから、ばらばらと拍手が起きた。
私は、うしろの壁ぎわで、それを見ていた。兄が言ったことは、本当だった、と思った。あの子は、来る。この子は、本当に、来る人だった。
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あかりは、敦になついた。じゅんくん、と呼んで、そばをはなれなかった。移動の電車のなかで、あかりが、その曲を教えてほしいとせがんでいたことがある。敦は、指を動かして、ここをこう押さえるんだ、と教えていた。あかりの小さな手では、まるで届かなかった。二人で、それを見て笑っていた。
窓の外を、田んぼが流れていった。私は、向かいの席から、その二人を見ていた。
今、それを思い出すのは、少しつらい。
一度、聞いてみたことがある。どうして、こんな家に残るの、と。今ならまだ間に合う。よそへ行けば、あなたならどこでもやっていける。私はそう言った。本気で言った。
敦は少し黙ってから、こう答えた。
──おれ、あの日、伊織さんに、名前を呼ばれたんです。
それだけだった。それ以上は、何も言わなかった。
私は、それからその言葉を何度も思い返した。誰にも見つけてもらえなかった子どもが、たった一度、名前を呼ばれた。この子にとって、それはたぶん、私たちが思うよりずっと大きなことだったのだ。──いや、これも私がそう思いたいだけかもしれない。あの子が本当は何を考えていたのか、私は結局、最後まで聞けなかった。
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そして、あることが起きた。ある小さな取材で、記者が敦にこう聞いたのだ。あなたも、あの一家の被害者ではないのか、と。今なら何でも話していい。世間は、あなたの味方につく、と。
敦は、こう答えた。
──おれは、あの人たちに、拾ってもらいました。それだけです。
たったそれだけの答えだった。うまい言い方でもなかった。誰かを言い負かすつもりもなかったと思う。
でも、その短い言葉は思いがけず広まった。あの一家に、まだかばう人間がいる。そのことが人々の気にさわったらしかった。
その数日後、私はいつものように、あの人の話を見ていた。熊野は、その回のおわりに初めて、その名前を口にした。栄家に残っている、若い人がいます。まだ二十歳だそうです。私は、この人自身を責めるつもりはありません。ただ、この人があの家の何を守ろうとしているのか。それは、はっきりさせなければならないと思います。
熊野は、いつものとおり静かに、丁寧にそう言った。声も荒らげなかった。
私は画面を消した。手が、少し冷たくなっていた。
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私は、敦を光のように書いてしまう。分かっている。私は、この若者のこともたいして知らない。何度か話しただけだ。あの家に来て、おにぎりを食べて、ギターを弾いていた。私が見たのは、それだけだ。
たぶん私は、あの子のなかに兄を見ていた。兄が最後に見つけて、最後に笑った子。その子が兄のかわりに、まだそこにいる。そう思いたかったのだと思う。それに、これを書いている私は、この先に何が起きるのかをもう知っている。だから、どうしても、あの頃のあの子を実際より美しく書いてしまう。そういうものだ。
その夜、私が事務所を出るとき、部屋にはまだ灯りがついていた。窓の下を通ると、あのギターの音がかすかに聞こえてきた。まだ途中だと言っていた、あの曲だった。前に聞いたときより、先のほうまで進んでいた。
私は少しのあいだ立ち止まって、それを聞いていた。それから、駅のほうへ歩きだした。




