↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一億人が、あの一家を愛していた ~ある芸能一族の栄光と滅びの記録~  作者: 智珠
第五部 滅び

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
69/106

第六十三章 熊野という個

あの番組のあと、私たちに向けられた声は、数えきれないほどになった。その声には顔がなかった。名前もなかった。どこの誰が言っているのかも分からない言葉が、何万と積み上がって、私たちの上に降ってきた。誰か一人が悪いのではない。みんなが少しずつ石を投げて、その山の下で、私たちが息をできなくなっていた。


でも、そのなかに一つだけ名前のある声があった。


熊野、といった。


はじめは、たくさんある名前の一つだと思っていた。でも、どの記事を見ても、どの書き込みをたどっても、必ずその名前に行き当たる。人々が語っている栄家の話は、たいてい、もとをたどればこの人が調べて書いたものだった。


私は、その人の作っているものを見てみた。


驚いたのは、その人が顔も名前も出していたことだった。隠れてはいなかった。画面のまん中に座ってこちらを見て、はっきりと名乗る。熊野といいます、と。年のころは四十くらいに見えた。髪も服も、どこにでもいる人だった。声は低くて、少しかすれていた。


私は、そういう人をもっとおそろしい人だと思っていた。憎しみをむき出しにして、口ぎたなくののしる人だと。でも、その人はちがった。


熊野は丁寧だった。ゆっくり話し、大声を出さず、笑いもしなかった。今日は、この件について調べました。そう言って資料を一つずつ画面に出していく。古い雑誌の記事。昔の番組表。当時の関係者の証言。


そして、こう付け加えるのだ。ここから先は、私の推測です。事実と分けて聞いてください、と。


        *


熊野は、まちがえたときには必ず、次の回で訂正した。前回の話の、この部分は誤りでした。申し訳ありません。そう言って頭を下げる。その律義さが、かえってこの人の言うことを重くした。


うそつきなら、まだよかったのだ。うそつきなら、こちらもうそだと言い返せる。でも、熊野の言っていることはほとんど本当だった。父がしたこと。栄家がしてきたこと。私が家のなかで見てきて、見て見ぬふりをしてきたことを、この人は外から一つずつ掘り出してきて、順番に並べていた。


そのどれにも、私は言い返せなかった。


不思議だったのは、この人がそれを、何の得にもならずにやっていたことだった。どこかの会社に雇われている様子もなかった。お金をもらっている気配もなかった。話しぶりからすると昼はどこかで働いているらしかった。仕事から帰ってきて、夜、机に向かい、古い資料を読み、調べ、まとめ、そしてまた次の日も同じことをする。それを来る日も来る日も、休まずに続けていた。


こんなに何の見返りもないことを、これほど根気よく続けられる人がこの世にいる。私は、それが分からなかった。この人を、そこまで駆り立てているものは、いったい何なのだろう、と思った。


一度だけ、それらしいものが見えた気がした。ある回で、熊野が、栄家に切られたある人の話をしていたときだ。その人がそのあとどうなったかを話す途中で、熊野の声が一度だけ、はっきり揺れた。言葉が止まって、少し間があいた。それから熊野は、失礼しました、と言って何ごともなかったように続きを読みはじめた。


その揺れが何だったのか。そのときの私には、分からなかった。


        *


私は、その人の出すものを、全部見るようになった。見なければいいのは分かっていた。それでも見た。夜、みんなが寝静まったあと、台所の隅で小さな画面をのぞきこんだ。次に何を言われるのかがこわかった。こわいのに、見ずにはいられなかった。


いつのまにか私は、この人の声を近所の人の声より、よく知っていた。話しはじめる前に一度、必ず小さくせきばらいをすること。資料をめくる紙の音。時々うしろで、遠くの電車の音がすること。会ったこともない人のそういうことを、私は覚えてしまっていた。


ある夜、熊野は、あかりのことを話した。その回はいつもより短かった。熊野は資料をあまり出さずに、静かに話した。あの子には、何の罪もありません。悪いのは、あの子を使ってきた大人たちです。あの子は、一日も早く、あの家から離れたほうがいい、と。


私は、画面の前でうなずいていた。気がついて、あわてて自分の頭を止めた。でも、遅かった。私はたしかにうなずいたのだ。私たち一家をここまで追い詰めた男の言うことに、母親の私が、心の底から同意していた。


その夜のことを、私は誰にも言えなかった。夫にも母にも言えなかった。今こうして書くのが、はじめてだ。


        *


一度、母に見つかったことがある。夜中に台所へ来た母が、画面をのぞきこんでいる私を見て立ち止まった。私はあわてて画面を伏せた。母は何も聞かなかった。ただ、水を一杯飲んで、こう言っただけだった。


──あんまり、遅くまで起きてるんじゃないよ。


そして、そのまま行ってしまった。母はたぶん、全部分かっていた。分かっていて、聞かないでいてくれたのだと思う。──もっとも、それも私がそう思いたいだけかもしれない。母は、ただ眠かっただけかもしれない。


そして、ある夜、私は、ぞっとした。


私は、この人と、同じことをしている。


世間はもう、栄家のことなど忘れかけていた。かつて一億人が愛した一族を、みんなきれいに忘れて次のものを見に行った。そのなかで、あの一家のことをいつまでも覚えていて、来る日も来る日も調べ、書き記している人間が、この世に二人だけいた。


一人は、私だ。愛しているから、忘れないでいる。もう一人が、熊野だった。この人は、憎んでいるから、忘れないでいる。私たちは正反対の場所にいて、まったく同じことをしていた。誰にも頼まれていない。何の得にもならない。それでもやめられない。あの一家を、この世からなかったことにさせない。それだけのために、二人とも、夜、机に向かっている。


そのことに気づいてから、私はこの人がこわくなった。憎いからではない。似ているからだった。


        *


もう一つ、私にはどうしても認めざるをえないことがあった。顔のない何万の声のなかで、この人だけが自分の名前を出していた。まちがえれば、その名前で謝った。恨まれるとしたら、その名前で恨まれる。言ったことの重さを、この人は自分一人で背負っていた。ほかの何万人はそうではなかった。石を投げてすぐ流れていって、自分が投げたことも忘れてしまう。


だから私は、この人だけを憎むことができた。ほかの誰も憎めなかったのに。名前があるということは、そういうことだった。


正直に書いておく。私は、熊野という人を何も知らない。どんな家に住んでいるのか。家族がいるのか。昼は何をしているのか。何一つ知らない。私が知っているのは、画面のなかのせきばらいと、紙の音と、遠くの電車の音だけだ。


だから、この先、私がこの人について書くことは、そのほとんどが私の勝手な想像になる。私は、この人をただの、ひどい人にしておきたかった。そのほうが憎むのに都合がよかったからだ。でも、あの一度だけ揺れた声を思い出すたびに、それがうまくできなくなった。


        *


その夜も、私は明けがた近くまで画面を見ていた。熊野の話が終わって、画面が暗くなる。そこに疲れた自分の顔が映った。テレビを消したときと同じだった。


台所の机の上には、私の書きかけの紙が置いてあった。いつか誰かに読んでもらうために少しずつ書きためている、この一家の記録だ。


私は、その紙を裏返して、灯りを消した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。