第六十二章 追い詰められて
放送の日が来た。
その夜、私たちは小さな居間に集まって、一台きりのテレビの前に座った。母は、めずらしく少しだけいいお菓子を買ってきていた。父は、あの大きすぎる上着を着たままだった。家で見るだけなのに、と母が笑うと、父は、そういうものだ、と言って聞かなかった。
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はじまりは、よかった。
画面には、あの小さな町が映った。夕暮れの広場。数十人の観客。手作りの舞台。そこで、あかりが歌っている。伴奏の音が途中で少し途切れても、あの子は少しも動じずに歌いつづける。歌い終わると、町の人たちが集まってきて、あかりの手を握る。おばあさんが、おにぎりを渡してくれる。
そのまま画面が切りかわり、私たちの家が映った。狭い台所。母の手もと。父が縁側に座っている後ろ姿。それらが、どこかあたたかい音楽といっしょに流れていく。
父は、身じろぎもせずに見ていた。時々、うん、とうなずいた。この撮り方はいい、と一度だけつぶやいた。あかりも、自分の映る画面を、少し照れくさそうに眺めていた。母が、静かにお茶を注いだ。
私も、そのときは思いはじめていた。私が心配しすぎていたのかもしれない、と。
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流れが変わったのは、番組の半ばを過ぎたころだった。
音楽が、ふっと消えた。画面が暗くなり、字幕が出た。この一家は、なぜここまで落ちたのか。あらためて検証する、と。
そこからは、まったく別の番組だった。
かつて父に切られた人たちが、次々と画面に出てきた。名前も顔も出して、静かに、当時のことを語っていく。仕事を一方的に取り上げられたこと。ある日突然、電話がつながらなくなったこと。そのどれも、私が知らない話ではなかった。そのどれもが、たぶん、本当のことだった。
父の昔の映像も、いくつも流れた。若い相手をどなりつけている場面。記者の質問をさえぎって、笑いながら席を立つ場面。どれも、ずいぶん前のものだった。でも切り取られて並べられると、それは一人の男の、変わらない性根のように見えた。
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そして、あかりが出てきた。
打ち合わせのとき、あの若いディレクターが聞いていた質問だ。いちばんつらかったことを話してください、という、あれだった。
画面のなかで、あかりが、ぽつぽつと話している。学校に行けなかったこと。夜おそくまで、車で移動したこと。疲れて、泣いてしまった日のこと。
あの子は、たぶん、ただ聞かれたことに答えただけだった。でもその言葉のあとに、すぐ父の映像がつながれた。おれが決めたことに、口を出すな。そうどなっている、昔の父の顔が。
そのつなぎ方で、すべてが決まった。
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母が、リモコンに手を伸ばした。
父が、低い声で言った。──消すな。
父は最後まで見た。上着を着たまま、背筋を伸ばして、まばたきもせずに。私は、父の顔を見られなかった。
番組が終わって、しばらく誰も何も言わなかった。テレビの音だけが、次の番組の明るい笑い声に切りかわっていた。母が立ち上がって、それを消した。急に、家じゅうが静かになった。
あかりが、小さな声で言った。あかり、へんなこと言っちゃった、と。私は、あわてて首を振った。あなたは何も悪くない、と言った。何度も言った。
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次の日から、私たちの世界は、また変わった。
反応は、思っていたのとは、まるでちがう向きだった。世間は、落ちぶれた一族を、あわれんではくれなかった。かわりに、こう言いはじめたのだ。あの家から、あの子を助けてやれ、と。
あかりを守れ。あの一族から、あの子を引き離せ。子どもを働かせるな。あの祖父が、いちばんの加害者だ。そういう声が、いっせいにあふれた。
その言葉のひとつひとつが、私の胸に刺さった。
なぜなら、それは、私がずっと言ってきたことと、同じだったからだ。私も、あの子を見世物にするなと言った。あの子から子ども時代を取り上げるなと、父に食ってかかった。同じことを、私も思っていた。
でも、私の口から出たときは、家族を守るための言葉だった。それが何万もの知らない人の口から出たとたん、その同じ言葉が、私たち一家を切り刻む刃になった。正しいことが、これほど人を殺せるものだとは、私は知らなかった。
そして、いちばんこたえたのは、そのあとに起きたことだった。
あかりの、あのわずかな仕事が、次々と取り消されたのだ。地方の小さなお祭り。町の商店街のイベント。あの子が、心から楽しそうに歌っていた、あの小さな舞台の一つ一つが、消えていった。
断りの電話は、どれも、丁寧で申し訳なさそうだった。そして、みんな同じことを言った。お嬢さんのためを思って、と。今は、そっとしておいてあげたほうがいい、と。
誰も、意地悪でそう言ったのではないと思う。みんな、本気であかりのためだと思っていたのだろう。そうやって、あの子は、たった一つ、心から笑える場所を取り上げられた。守るという言葉で、である。
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一度だけ、あの町のおばあさんから、家に手紙が来た。
短い手紙だった。テレビは見ました。よく分かりません。でも、あの日のあの子の歌は、よかったです。それだけが書いてあった。字は、たどたどしかった。
私は、その手紙を、母と二人で何度も読んだ。あんなに大勢の人が私たちについて語っているのに、私たちの本当のことを言ってくれたのは、たった一人の、名前も知らないおばあさんだけだった。
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そして私は、遅すぎるほど遅れて気がついた。
あの企画は、はじめから、これをやるためのものだったのだ。
落ちた一族には、もう、奪えるものなど何もなかった。仕事も、金も、地位も、とっくになくなっていた。ただ一つだけ、まだ残っているものがあった。人々の、ほんのわずかな同情だ。かわいそうな一家。落ちてもけなげに生きている人たち。その最後の一枚を、はぎ取ってしまえば、栄家はもう、二度と立ち上がれない。
そのために、いちばん都合のいい道具が、あかりだった。あの子を守れという、誰も逆らえない正しさを掲げてしまえば、あとは世間が勝手にやってくれる。誰も手を汚さずにすむ。
こんなやり方を思いつく人間が、この世にいる。私は、それが恐ろしかった。
そして、もう一つ、認めておかなければならないことがある。
私は、ずっと願っていた。誰かが、父を止めてくれればいいのに、と。あの子を舞台から下ろしてくれる誰かが、現れてくれればいいのに、と。私には、それができなかったからだ。娘のためだと言いながら、私は一度も、あの家に本気で逆らえなかった。
そして、その願いは、かなった。誰かが、父を止めた。あかりは、舞台から下ろされた。
──こう書いていても、私は自分が信じられない。私は、あの番組を憎んでいるのか。それとも、私のかわりにそれをやってのけた誰かを憎むことで、何もできなかった自分から目をそらしているだけなのか。今も、その区別がつかない。たぶん、この先も、つかないのだと思う。
でも、その顔は見えなかった。制作の人たちは、みんな親切だった。あのディレクターも、悪い人には見えなかった。誰に怒ればいいのかさえ、分からない。番組表の下のほうに並んだ、聞いたこともない会社の名前を、私はしばらくにらんでいた。それだけが、私にできたことだった。
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その夜、父は縁側に座っていた。
上着は、まだ着たままだった。私が声をかけると、父は、こちらを見ずに言った。──あれは、うまいやり方だな。
その言い方は、不思議なほど静かだった。怒ってもいなかった。悔しがってもいなかった。長くこの世界で生きてきた人が、うまい手を見せられて、ただ感心しているような声だった。
それから父は、ゆっくり立ち上がって、上着を脱いだ。しわを伸ばして、たたんで、押し入れにしまった。その手つきが、あまりに丁寧だったので、私は、かえって見ていられなかった。
父がふたたびその上着に袖を通すことは、二度となかった。




