第五十八章 家族の亀裂
追い詰められた家族というのは、時に、いちばん近い者どうしで、傷つけあってしまうものだ。
すべてを失い、小さな家に身を寄せあって暮らすなかで、栄家の家族のあいだにも、少しずつ、ひびが入りはじめていた。
広い屋敷で、それぞれが、離れて暮らしていた頃には、見えなかった、たがいのいやな部分が、狭い家では、いやおうなく目についた。誰かのため息。誰かの、無言のいらだち。そういう、小さなとげが、日々の暮らしのなかで、少しずつ、たまっていった。もう、失うものは、何もないはずなのに、私たちは、それでも、たがいの心を、少しずつ、すり減らしあっていた。貧しさや、不便さよりも、その家族どうしの、ぎすぎすとした空気のほうが、ずっと、こたえた。
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いちばん、家族を苦しめたのは、皮肉にも、父だった。
老いて、闘志を失った父は、時々、ひどく荒れることがあった。こんなはずではなかった。どうして、こんなことになったんだ。父は、やり場のないいらだちを、まわりにぶつけた。かつての威厳は、なくなっても、父の、その身勝手さだけは、少しも変わっていなかった。
父は思うようにならない現実への怒りを、いちばん身近な、母や、私にぶつけた。飯が、まずい。部屋が、狭い。昔は、こうではなかった。父の口をつくのは、不満ばかりだった。落ちぶれてもなお、王様のようにふるまおうとする父の姿は、正直、見ていて、みじめだった。でもそれは、父なりの、必死のあがきだったのかもしれない。せめて、家のなかでだけは、かつての栄一鶴で、ありたい。そう思わなければ、父は自分を保てなかったのだろう。
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そして私の胸の奥にも、父への複雑な思いが、くすぶりはじめていた。
私は宗太のことを思うたびに、父を責めたくなる自分を、抑えられなかった。
宗太を、あそこまで追い詰めたのは、父の、あの心ない罵倒だった。伊織とくらべ、木偶の坊、とののしり、宗太の、いちばん痛いところをえぐった。もし、父が、あんなことを言わなければ、宗太は、あんなふうには、ならなかったかもしれない。そう思うと、私は、老いた父に、やさしくできない自分がいた。
頭では、分かっていた。父はもう老いて、弱っている。責めたところで、どうにもならない。それに、宗太を壊したのは、父一人の罪では、ない。栄家という一族の体質、そのものが、宗太を追い詰めたのだ。でも心は、理屈の通りには、動いてくれなかった。愛する弟が、あんなふうになってしまった、そのやり場のない悲しみと怒りが、どうしても、いちばんわかりやすい、父へと、向かってしまう。私はそんな、自分の狭さが、いやだった。
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ある日、とうとう、私は父に、きつい言葉をぶつけてしまった。
お父さんが、宗太くんを、あんなふうにしたんじゃ、ないですか、と。
言ってしまってから、私は、はっとした。父の顔が、ゆがんだ。老いた父は、何も言い返さずに、ただうつむいてしまった。そのしょんぼりとした背中を見て、私は激しい後悔におそわれた。でも一度、口にした言葉は、もう取り消せなかった。
その夜、私はなかなか寝つけなかった。あんなに弱っている父に、なぜ、あんな、ひどいことを言ってしまったのか。父を責めることで、私は、いったい、何をしたかったのだろう。たぶん、私はただこのやりきれない気持ちの、はけ口がほしかっただけなのだ。そしていちばん弱くなった父を、そのはけ口に選んでしまった。それは、かつて、父が、宗太にしたことと、何も変わらない。私も、また、栄家という機械の、歯車の一つだったのかもしれない。
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こうして、栄家の家族は、少しずつ、ばらばらになりかけていた。
苦しいときこそ、身を寄せあうべき家族。でもその苦しさが、かえって、私たちを、たがいに傷つけあわせていた。滅びが、ついに、家族の絆さえ、むしばみはじめていたのだ。
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でもそんな、崩れかけた家族を、ぎりぎりのところで、つなぎとめていた人がいた。母だった。
母は父の荒れる姿を見ても、けっして責めなかった。ただ、黙って、父のそばに寄り添った。
そして私が、父にきつく当たってしまったときも、母は、そっと私の肩に手を置いて、こう言った。
徳子。お父さんも、つらいのよ。みんな、つらいの。だからこんなときこそ、責めあっては、だめよ、と。
母の言葉は、けっして、私を責めるものでは、なかった。母はただ、静かに、私の、いちばんつらいところを、分かってくれていた。徳子も、つらいのよね。がんばってるものね。母はそう言って、私の背中を、そっとさすってくれた。そのあたたかい手のぬくもりに、私はこらえていたものが、いっきにあふれて、母の胸で、子どものように泣いてしまった。母はそんな私を、何も言わずに、ただ抱きしめてくれていた。
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母の、その静かな言葉に、私は、はっとさせられた。
そうだ。今、いちばんつらいのは、みんな、同じなのだ。父も、私も、宗太も、あかりも。みんな、この滅びのなかで、必死にもがいている。それなのに、たがいを責めあって、どうするのだろう。
母はいつもそうやって、ばらばらになりかけた家族の心を、もう一度、一つに、つなぎなおしてくれた。
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私はあの晩、父にあやまった。
お父さん。さっきは、ひどいことを言って、ごめんなさい、と。父は少し驚いたような顔をして、それから、小さく、首を横に振った。
いや。おまえの言う通りだ。おれが、宗太を、あんなふうにしたんだ。父はかすれた声で、そう言った。その目には、うっすらと、涙がにじんでいた。
あの父の涙を見て、私は、悟った。父もまた、宗太のことを、誰よりも悔いていたのだ、と。ただ、そのことを、まっすぐに認めるのが、こわくて、いらだちや、身勝手さで、必死にごまかしていただけなのだ。私が、それを口にしたことで、父は、はじめて、自分の罪と向きあうことができた。皮肉なことに、私の、あのきつい一言が、父と私のあいだの、長年のわだかまりを、ほんの少しだけ、溶かしたのかもしれなかった。
考えてみれば、栄家という家族は、ずっと、母によって支えられてきた。栄えているときも、滅びていくときも、母は、いつも、いちばん奥で、静かに、この家族を束ねていた。父が、光のまん中で輝いているときには、その存在は、目立たなかった。でも、光が消え、家族が、ばらばらに壊れかけた今になって、はじめて、母という、その見えない柱の大きさが、わかった。母がいるかぎり、私たちは、どんなに追い詰められても、完全には壊れない。私は、そのことに、深く救われていた。でも、それは、母という一人の人に、あまりにも重いものを背負わせることでも、あったのだ。
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私は思った。もし、母がいなかったら、栄家の家族は、とっくの昔に、ばらばらに壊れてしまっていただろう、と。
母という、たった一人の存在が、かろうじて、この崩れかけた家族を、つなぎとめている。母は、栄家の、まさに、最後の砦だった。
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でも私は、まだ気づいていなかった。その母が、家族を守るために、どれほどの覚悟を、その静かな胸のうちに秘めているのかを。
母の、その深い覚悟が、やがて、とほうもないかたちで、あらわになる日が、刻一刻と、近づいていたのだった。
このとき私は、母のその重荷の深さを、まだ何も知らなかった。母は、家族を守るという、たった一つの覚悟を、たった一人で、静かに背負っていたのだのだった。そのことに、私が気づくのは、もっとあとになってからのことだった。




