第四章 帰る場所
世界に見つけられた父は、あとは坂道を駆けあがるように有名になっていった。
あの生放送の次の週から、父のもとには、いくつもの番組の仕事が舞い込んだ。はじめは、ひな壇の端のほう。けれど父は、どの現場でも、あの場を読む才能を発揮した。共演者のいいところを引き出し、しらけかけた空気を笑いに変え、番組をあたたかくまとめてみせる。
そういう父の芸は、すぐにあちこちの番組で重宝されるようになった。半年もすると、父はもう、名の知れた若手タレントの一人になっていた。
テレビをつければ、どこかのチャンネルで父がしゃべっていた。街の看板にも、父の顔が出はじめた。ほんの一年前まで、通行人の役すらもらえなかった、あの父が。信じられない速さで、世の中に広まっていった。父は水を得た魚のように、生き生きとしていた。あの痺れるような感覚を、もう一度、もう一度と、父は追い求めるように仕事にのめり込んでいった。
でも。父の栄光の話をする前に。
私はどうしても、先に母のことを話しておきたい。
なぜなら、母がいなければ、栄家はなかった。私も兄も生まれていない。そして、たぶん父は、あんなにまぶしく輝くこともなかった。母はいつも、いちばん目立たない所にいた人だけれど。あの一家の本当の土台は、まちがいなく母だった。
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父と母が出会ったのは、父がまだ、鳴かず飛ばずの無名時代。あの生放送のずっと前のことだ。
母は当時、芝居小屋の多い下町の一角にある、小さな定食屋で働いていた。役者の卵たちが、安いまかない飯を食べに集まる、そういう店だった。
父もその店の常連の一人だった。といっても、お金のない父は、いつもいちばん安い定食を一つ頼んで、それで何時間も粘っている。そういう貧乏な客だった。
母はそんな父を、いやな顔ひとつせずに、いつもそっと、ご飯を大盛りにしてくれたのだという。
一度、父がどうしてもお金が足りなくて、定食を頼めずに、水だけで席に座っていたことがあったという。すると母は、何も言わずに、湯気の立つまかないのおにぎりを二つ、父の前にそっと置いた。「これ、余っちゃったから。よかったら」。本当は余ってなど、いなかった。母が自分の分を握って、父に渡したのだ。父はそのおにぎりのあたたかさを、何十年経っても忘れなかった。売れて、いくらでもごちそうが食べられるようになってからも。あのときのおにぎりが、いちばんうまかった、と父はよく言っていた。
「あの人はね」と、母はのちに私に言った。「お金はなかったけど、目だけはいつもまっすぐで、きれいだったのよ。いつかかならず、何者かになる。そう信じて疑ってなかった。そういう目をしてた」
母は派手なことが苦手な人だった。おしゃれにも、ぜいたくにも興味がない。ただまじめに働いて、まじめに暮らす。そういう、ふつうの幸せをいちばん大事にする人だった。
そんな母が、なぜ、あの危なっかしい、夢ばかり追っている貧乏な役者に惹かれたのか。私にはなんとなく、分かる気がする。母はたぶん、父のあのまっすぐな目の奥にある、だれよりもさみしがりで、だれよりも認められたがっている、その子どものような心を見抜いていたのだ。
母は父の才能に惚れたわけではなかった。まだその才能は、誰の目にも見えていなかったのだから。母が好きになったのは、売れる前の、何者でもない、ただの貧乏でさみしがりな一人の男。それは、のちに父を愛した一億人の、誰ともちがっていた。一億人はスターの父を愛した。母だけが、何者でもない父を愛したのだ。
だからこそ、と今の私は思う。父にとって母は、たった一人、自分の値打ちを人気や数字ではからない人だった。世間が父を愛したのは、面白いから。すごいから。役に立つから。でも母がそばにいてくれたのは、ただ父が父だから。それだけの理由だった。ただそこにいるだけで受け入れてくれるその場所を、父は生涯、手放したくなかったのだと思う。
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父があの生放送でブレイクして、急に有名になっても。
母は少しも変わらなかった。
周りの人たちが、父を先生と呼び、ちやほやしはじめても、母だけはあいかわらず、父をただの一人の男として扱った。
売れっ子になった父は、外ではいつも笑っていなければならなかった。どんなに疲れていても。どんなにいやなことがあっても。カメラの前では、あの明るい一鶴でいつづけた。でも、家の玄関をくぐったとたん、父はどっと疲れた顔になるのだという。母はそんな父に、何も聞かなかった。ただあたたかいご飯を出して、となりで他愛のない世間話をする。それだけだった。でも、それが父には、何よりの薬だった。
「外でどれだけ、すごい人になってもね」と、母は笑って言った。「うちに帰ってきたら、ただのお父さんよ。それでいいの」
父にとって、その母の変わらなさが、どれほど救いになっていたか。
外の世界はまぶしくて、そしてこわい。今日ちやほやしてくれた人が、明日には手のひらを返すかもしれない。人の心は風のように移ろう。そんな不安定な世界のまん中で、母のいる家だけが、父にとってたった一つ、変わらない帰る場所だったのだ。
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二人はやがて結婚した。父が少しずつ、売れはじめた頃だった。
そして、まもなく生まれたのが、長男の伊織。のちに栄家の良心と呼ばれる、あの兄だった。
父は、伊織が生まれたとき、人目もはばからず泣いたという。この小さな命に、自分の生きた証を見たのかもしれない。忘れられたくない、とあれほど願った父にとって、自分の血を分けた子どもの存在は、何にもかえがたいものだった。父は伊織を抱いて、「おまえは、おれがかならず幸せにしてやる」と、何度もつぶやいたという。
生まれたばかりの伊織を囲んで、父と母はよく笑っていたという。父が不器用な手つきでおむつを替え、母がそれを見て笑う。夜泣きの声に、二人で交代で起きる。まだ何の後ろ盾もない、狭いアパートの一室。でも、そこにはたしかなあたたかさがあった。
一度だけ、まだ赤ん坊の伊織を連れて、三人で海を見に行ったことがあるという。父はその日のことを、なぜか生涯よく覚えていた。冬の、静かな海だったそうだ。灰色の水平線を見つめながら、父はぽつりと言ったという。海ってのは、こわいな。あんなに広くて、静かで。でも、いっぺんのみ込まれたら、二度と上がってこられない気がする、と。母は笑って、それを聞いていた。そのときは、ただの、なんでもない一言だった。
こうして、栄家のいちばんはじめのかたちが、できあがっていった。父と母と、そして幼い兄。まだ小さな、けれどあたたかい一つの家族。
今思えば。
この頃が、栄家にとって、いちばん幸せな時代だったのかもしれない。
まだ大きな事務所もない。一族みんながスターになる、なんて話もない。ただ父が少しずつ売れて、家族がささやかに笑っている。そういう小さな幸せが、たしかにそこにあった。
でも母は、その頃から、時々、ふと不安そうな顔をするようになったという。
父が有名になればなるほど、父のあの、認められたいという思いが、だんだん大きくなっていくのを、母は誰より近くで感じていたからだ。
この人は、どこまで行くのだろう。どこかで止まってくれるのだろうか。
母は知っていた。父のあの明るさや、面白さのいちばん奥に、ぽっかりとあいた、埋まらない穴があることを。どれだけ愛されても、どれだけ有名になっても、その穴はけっして埋まらない。むしろ大きくなっていく。母はたった一人、それに気づいていた。だから母は、せめて家の中でだけは、父を有名人ではなく、ただの夫として包もうとした。それが母にできる、たった一つの守り方だった。
母のその小さな不安は、のちに、だれにも止められない大きなうねりになっていく。でも。それはまだ、もう少し先の話だ。
今はまだ、この、あたたかい家に、ささやかな幸せが満ちていた。父も母も、幼い兄も、この幸せがいつまでもつづくものだと、信じて疑わなかった。そういうまぶしい季節が、たしかにあったのだ。




