第三章 見つけられた日
父の人生を根っこから変えたのは、たった数分間の出来事だった。
あれは、父が二十代の終わり頃。相変わらず無名の大部屋役者として、その日暮らしをしていた頃のことだ。
ある日、父のもとに一本の電話がかかってきた。
当時、人気のあった生放送のバラエティ番組。その収録現場で、出演予定だった若手の一人が、直前に体調を崩して来られなくなったのだという。
穴を埋める人間が急いで必要だった。ただし、台詞も見せ場もない。ただスタジオの隅に立って、番組をにぎやかすその他大勢の一人。そういう役だった。
事務所は、手の空いている若手を片っ端から当たった。そして、たまたまその日、何の仕事もなかった父に声がかかったのだ。
その日の父は、朝から気持ちが沈んでいた。前の日も試験に落ちていた。家賃の払いも、そろそろ危なかった。もう役者などやめて、田舎に帰ろうか。そんな考えがはじめて頭をよぎった、まさにその日だったのだという。だから、電話が鳴ったとき、父は正直、気乗りがしなかった。どうせまた、隅に立っているだけの役だ。それでも、断る余裕はなかった。日当が欲しかった。ただそれだけの理由で、父はスタジオへ向かった。
*
生放送のスタジオはまぶしかった。ずらりと並んだ照明。何台ものカメラ。ひな壇には、父でも名前を知っている有名なタレントたちが座っていた。
父はそのいちばん隅に立たされた。本当に、ただそこに立っているだけ。カメラが父を映すことは、まずない。台詞も、当然ない。ほかの大勢の若手と同じように、ただ番組をにぎやかすための背景。それが、その日の父の役目だった。
周りの若手たちは、みんなどこか余裕があった。事務所の後ろ盾があったり、少しは顔が売れていたり。父だけが、本当に何もなかった。誰も父に話しかけない。父も誰にも話しかけられない。まぶしいスタジオの、そのいちばん暗い隅で、父は自分だけが場違いな、よそ者のような気がしていた。ここにいるみんなは、いつかテレビのまん中にいく人たちだ。おれだけが、ここにいてもいなくても同じなんだ。あの酒場の夜と同じ思いが、父の胸をまたよぎった。
番組が始まった。
順調に進んでいた。ひな壇の大物タレントが軽妙にしゃべり、会場が沸く。父はそのいちばん外側で、ただみんなに合わせて笑っていた。
ところが。番組の半ばで、ちょっとした事故が起きた。
その日の目玉だった大がかりな企画。それが、生放送の最中にうまくいかなくなったのだ。段取りが狂い、進行が止まった。
司会者が何か言おうとして、言葉につまった。ひな壇の大物たちも、たがいに顔を見合わせるばかりで、誰も口を開かない。スタッフがあわてて、袖で走りまわっているのが、父の位置からは見えた。たった数秒。けれど、生放送の数秒は永遠のように長い。
生放送で、いちばんこわいのはこの間だ。何も起きない時間。お茶の間の視聴者が、一斉にチャンネルを変えたくなる、その瞬間。
スタジオの空気が凍りついた。
*
そのとき。
スタジオの隅から、一つの声があがった。
父だった。
何を言ったのかは、父自身もあとからよく覚えていないと言っていた。ただ、体が勝手に動いたのだという。凍りついた空気を、誰かがどうにかしなきゃいけない。その一心で、父はとっさに、自分の失敗談をおどけて話しはじめたのだ。
「すいません。ぼく、そこの隅で、ただ立ってる係の者なんですけど」と、父は言ったのだという。「実は、こんな立派なスタジオ、生まれてはじめてで。さっきから、この照明がまぶしすぎて、涙が出そうなんです。いや、感動じゃなくて、物理的に」
そんな調子で、父は話しつづけた。楽屋の弁当を三個も食べて怒られた話。緊張のあまり、大物さんへの挨拶を盛大に噛んだ話。どれもみじめで情けない話なのに、父が話すと、なぜかあたたかい笑いになった。
はじめは戸惑っていたスタジオが、やがて、どっと沸いた。
父の話はとまらなかった。
一つ笑いが起きると、父はその空気をすかさずつかんだ。次に何を言えば、もっとみんなが笑うか。それが父には、手に取るように分かるのだった。
父はあとで、こう言っていた。「客席ってのはな、一つの大きな生き物なんだ。どこで笑いたがってるか。どこでほっとしたがってるか。それがなんとなく分かる。あの日は、スタジオぜんぶが、助けてくれって叫んでた。だからおれは、ただそれに応えただけだ」
ひな壇の大物たちも、つられて笑いだした。凍りついていたスタジオが、いつのまにか、父一人を中心に、大きな笑いの渦になっていた。
その笑いの渦のまん中で、父は生まれてはじめて味わう感覚に震えていたという。何百、何千という目が、今、自分一人を見ている。自分の一言に、大勢の人が笑い、うなずく。ああ、これだ、と父は思った。おれはずっと、これが欲しかったんだ。この、大勢に見られているという、痺れるような感覚が。
あとで分かったことだが、この数分間、番組の視聴率はぐんと跳ね上がっていたのだという。チャンネルを変えかけていたお茶の間が、この無名の若者の話に、次々と引き込まれていったのだ。
*
番組が終わったあと。
父のもとに、次々と人がやってきた。番組のスタッフ。ひな壇にいた大物タレント。そして、いくつもの事務所の人間。
みんな、口々に言った。あの、隅にいた若者は誰だ、と。
その翌日から、父の暮らしは一変した。
昨日まで、誰にも見向きもされなかった無名の男。その顔と名前が、たった一晩で、日本中のお茶の間に知れわたっていた。街を歩けば、あ、あの人だ、と指をさされる。
テレビ局には、あの若手は誰なのか、という問い合わせが殺到したという。次の週には、いくつもの番組から出演の依頼が舞い込んだ。事務所の電話は鳴りやまなかった。昨日まで通行人ですらなかった男が、一夜にして、みんなが名前を呼ぶ人になった。
その日から、父の名前が、街のあちこちで聞こえるようになった。すれ違う人が振り返る。喫茶店に入れば、店員が緊張した顔で近づいてくる。昨日とまったく同じ顔、同じ服なのに、世界の父を見る目が、一晩でまるきり変わってしまった。父はその変わりようが、うれしくもあり、そして少しだけ、こわくもあったという。
あの酒場の隅で、忘れられていくことにおびえていた、あの父が。
ついに、世界に見つけられたのだ。
*
今思えば。
あの数分間に、父のすべてが詰まっていた気がする。
凍りついた場をとっさに読み、人が何を求めているかを見抜き、笑いへと変えてみせる。それは、のちに父が一族を頂点にまで押し上げる、あの恐ろしいほどの才能の、まぎれもない片鱗だった。
父は、大衆の心を操る天才だった。何をすれば人が笑い、何をすれば人が泣くか。それが父には、生まれつき分かっていた。
けれど、と今思う。それは、天からの贈り物であると同時に、父を縛りつける鎖でもあったのかもしれない。人の心が読めてしまうから、父はいつも、人にどう見られているかを気にせずにいられなかった。愛されたい。忘れられたくない。その思いは、この日を境に、際限なくふくらんでいくことになる。
その才能が、あの日はじめて、世界に見つかった。
そして、ここから、栄家のまぶしい物語が始まっていく。
でも、そのいちばんはじめの光の中で、父はまだ知らなかった。大衆の心ほど移ろいやすく、そしてこわいものはないということを。
いつか、その同じ心が牙をむいて、自分たち一家を根こそぎのみ込む日が来ることも。そのときは、まだ想像すらできなかったのだ。




