第五十三章 宗太の限界
宗太はついに壊れてしまった。
あの炎上のときの失策以来。父に、あれほど罵倒されて以来。宗太の心は、坂道を転がるように崩れていった。
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もともと、酒に逃げていた宗太は、今では、朝から酒を手放せなくなっていた。飲まなければ、手が震える。飲まなければ、一日を始めることすら、できない。宗太は完全に、酒にのみこまれていた。
はじめのうちは、私も、母も、なんとか、宗太にお酒をやめさせようとした。でも宗太にとって、お酒は、もうただの酒ではなかった。それは、つらすぎる現実から目をそらすための、たった一つの逃げ場だった。お酒を取り上げれば、宗太は、その逃げ場さえ失ってしまう。だから私たちは、無理にやめさせることも、できなかった。ただ、少しずつ壊れていく弟を、なすすべもなく見ているしかなかった。その無力さが、たまらなくつらかった。
宗太は部屋から出てこなくなった。一日じゅう、暗い部屋にこもって、カーテンも開けず、ただぼんやりとしていた。食事も、ほとんど口にしない。話しかけても、生返事しか返ってこない。宗太の心は、もうどこか遠いところへ、行ってしまったかのようだった。
ある日、私が、宗太の部屋をのぞくと、宗太は、暗がりのなかで、じっと壁を見つめていた。宗太くん、と声をかけても、返事はなかった。ただ、その頬には、涙のあとのようなものが、光っていた。宗太は、声もあげずに、たった一人で泣いていたのだ。かつては、あんなに、よく笑う、あかるい人だったのに。その変わりはてた姿を見て、私は部屋の外で、こらえきれずに泣いた。
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宗太は、心を病んでいた。
かつての、真面目で優しかった宗太はもうそこにはいなかった。宗太は時々、うわごとのようにつぶやいた。おれは、だめな人間だ。おれが、栄家をだめにした。おれなんか、生まれてこなければよかった、と。
その自分を責めつづける言葉を聞くたびに、私は、胸が張り裂けそうになった。
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私と母は、なんとか、宗太を助けようと、必死だった。
私たちは、宗太を、お医者さんに連れていった。心の専門のお医者さんだ。宗太は、ひどい心の病にかかっている、と診断された。しばらく、静かなところで、休養が必要だ、と。
私たちは、宗太を、しばらく、療養のための施設に預けることにした。せめて、そこで、ゆっくりと、心を休めてほしかった。それが、家族にできる、精いっぱいのことだった。
お医者さんは、私たちに、こう言った。宗太さんは、長いあいだ、たった一人で、大きすぎる重荷を抱えつづけてきた。その張りつめていたものが、今、いちどに切れてしまったのです、と。焦らず、時間をかけて、少しずつ、心を癒していくしかない、と。私と母は、その言葉に、すがるような思いでうなずいた。すぐには、よくならなくてもいい。ただ、あの優しかった宗太が、いつか、また、少しでも笑ってくれる日が来ることを、私たちは、ただそれだけを願った。
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こうして、宗太は、当主の座からも、事実上、退くことになった。
栄家には、もうまともに家を率いることのできる者が、いなくなった。父は、老いて力を失い、宗太は、心を病んで療養に入った。栄家という船は、ついに船長を完全に失ったのだ。
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私は、療養施設のベッドに、力なく横たわる宗太を見舞った。
かつては、兄の伊織のうしろを、元気について回っていた、あの明るい少年。それが、こんなにもやつれ、うつろな目をした、一人の男になってしまった。
宗太くん。私は、そのやせた手を握って、声をかけた。でも宗太はただぼんやりと天井を見つめているだけだった。私のことも、もうよく分からないようだった。
それでも私はできるだけ、宗太に会いに行った。何も、話さなくてもよかった。ただ、そばにいて、その手を握っているだけで、よかった。一度、帰りぎわに、宗太が、ほんの、かすかに、私の手を、握り返してくれたことがある。言葉は、なかった。でもその弱々しい力のなかに、私は、まだ宗太の心が、残っていることを感じた。あの子は、まだ消えていない。そう思うと、私は、涙がこぼれた。
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私は思わずにはいられなかった。宗太を、こんなふうにしてしまったのは、いったい、誰なのだろう、と。
宗太はただ静かに生きていきたかっただけの人だった。当主になんて、なりたくなかった。まん中で輝きたいなんて、少しも思っていなかった。
でも栄家という一族が、伊織の死という悲劇が、そして、まわりの期待が、器でない宗太に、あまりにも重い荷を、むりやり背負わせた。そしてその荷が、とうとう宗太を押しつぶしてしまったのだ。
私はあらためて、栄家の家訓のことを考えた。茶の間のまん中に居続けろ。そのたった一つのものさし。まん中に立てる者だけが、価値がある。まん中に立てない者は、いらない。栄家は、ずっと、その残酷なものさしで、家族さえ、はかってきた。宗太は、そのものさしで、いつも、伊織と比べられ、いつも、足りない、と言われつづけた。でも、人の価値は、まん中に立てるかどうかで決まるものでは、けっしてない。宗太には、宗太にしかない、優しさが、あった。ただ、栄家だけが、それを見ようとしなかったのだ。
母は、宗太の、あの変わりはてた姿を見ても、けっして取り乱さなかった。ただ、静かに、宗太の手を握り、あなたは、何も悪くないよ、と、繰り返し繰り返し、語りかけた。あなたは、じゅうぶん、がんばった。もう、いいんだよ、と。母のその言葉を、宗太が、どこまで聞いていたのかは、分からない。でも、母はけっしてあきらめなかった。いつか、宗太の心が、その言葉を受け取ってくれる日を、母は、信じていたのだ。
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栄家は、宗太を、当主として、ずっと責めつづけた。
なぜ、もっと、しっかりできないのか。なぜ、伊織のように、できないのか。でも宗太は、宗太のままで、よかったはずなのだ。器に合わない役割を、無理やり押しつけられなければ、宗太は、ふつうに、穏やかに、生きていけたはずなのだ。
私はこの栄家という大きな機械が、一人の優しい人間を、すりつぶしてしまったことに、深い怒りと、かなしみを覚えた。
私は、子どもの頃の宗太のことを、よく思い出す。兄の伊織が、何かで、ほめられるたびに、宗太はうらやましそうに、でも、うれしそうに、拍手をしていた。宗太は兄のことが、大好きだった。兄のように、なりたかった。ただ、それだけの、素直な子だったのだ。その素直さゆえに、宗太は兄の死後、その大きすぎる期待を、まっすぐ受け止めようとして、そして、つぶれてしまった。もっと、要領よく、逃げることができていたら、宗太は、こんなふうには、ならなかったのかもしれない。でも、それができないのが、宗太という人だったのだ。
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宗太の限界。それは、栄家の滅びが、ついに家族の心にまで及んできたことの、あらわれだった。
事業が傾き、家を失い、そして、今、家族の一人が、心を壊していく。栄家は、外側から、そして、内側から、少しずつ、崩れ落ちていった。
私はただ祈ることしかできなかった。どうか、宗太が、少しでも、心の安らぎを取り戻せますように、と。あの、優しかった宗太が、いつか、また、おだやかに笑える日が、どうか、来ますように、と。でも栄家に残された時間は、もうあまりにも少なかったのだった。
弟の心が癒えるより先に、栄家そのものが尽きてしまうことを、私は、恐れていたのだった。




