第五十一章 あかりの象徴化
栄家が落ちぶれていく、そのなかで、あかりは、奇妙なかたちで、人々の注目を集めつづけていた。
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かつて、あかりは、栄光の一族の、まばゆいアイドルとして愛されていた。でも栄家が傾いてからは、人々は、あかりに、まったく別の役割を求めるようになった。
滅びゆく名家の、けなげな末娘。落ちぶれても、なお、いじらしく頑張る、悲劇の少女。人々は、あかりを、そういう物語のなかにはめこんで、消費しはじめたのだ。
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不思議なもので、人々は、栄家の栄光には飽きても、栄家の悲劇には、いつまでも飽きなかった。
かわいそうな、あかり。あんなに小さいのに、一族の重荷を背負って。そのけなげな姿に、人々は涙した。そしてその涙を流すことを、どこか楽しんでいるようにさえ見えた。あかりの不幸は、人々にとって、格好の見世物になっていた。
あるとき、テレビのドキュメンタリー番組が、あかりを特集した。落ちぶれた名家の、けなげな少女、という、お決まりの筋書きだった。カメラは、あかりの疲れた横顔を、これでもかと映し出し、悲しげな音楽をかぶせた。ナレーションは、あの子のけなげさを、これみよがしにたたえた。それを見て、涙する視聴者たち。でも私には、それが、あかりの本当の姿を伝えているとは、とても思えなかった。彼らは、ただ自分たちの見たい物語を、あかりに演じさせているだけだったのだ。
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やがてあかりは、一人の人間であることをやめ、一つの象徴になっていった。
悲劇の一族の、最後の光。それが、あかりに与えられた、新しい役割だった。テレビは、あかりを、そういう物語の主人公として描いた。あかりが笑えば、けなげだと言われ、あかりが、少しでも疲れた顔を見せれば、悲劇の少女だと、もてはやされた。
もう、そこには、ただの子どもとしてのあかりは、どこにもいなかった。
あかりは、そんな、まわりのまなざしを、どこまで感じていたのだろう。ある日、あの子が、ぽつりと、こう言ったことがある。ママ、あかり、かわいそうな子なの、と。その一言に、私は、言葉を失った。あかりは、いつのまにか、自分が、かわいそうな子、という役割を演じさせられていることを、うすうす感じとっていたのだ。まだ、こんなに小さいのに。人々の期待する、悲劇の少女を、あの子は、けなげに演じようとしていた。それが、私には、たまらなく哀れだった。
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私は、それが、たまらなくこわかった。
私にとって、あかりは、ただの、可愛い娘だった。すべり台が好きで、絵本が好きで、ホットケーキが好きな、ふつうの女の子。
でも世間は、そんなあかりの素顔には、まるで興味がなかった。世間が見たいのは、悲劇のヒロインとしてのあかりだけだった。私の大切な娘が、人々の勝手な物語のなかで、一つの記号に変えられていく。それは、見ていて、身を切られるようにつらかった。
私は、何度、テレビを消したくなったか分からない。画面のなかで、悲劇のヒロインを演じさせられている、あかり。それは、私の知っている、あの子ではなかった。家では、あんなに無邪気に笑う、あの子が、カメラの前では、まるで別人のように、けなげな少女の顔をしていた。私の娘が、私の知らない誰かに、少しずつ作り変えられていく。母として、これ以上の恐怖は、なかった。
私は、こうも思った。もし、この先、あかりの身に、何か悲しいことが起きたとしても、人々は、きっとそれすら消費するのだろう、と。悲劇の少女に、ふさわしい、悲劇の結末。人々は、涙を流しながら、心のどこかで、それを、待ち望んでさえいるのかもしれない。そんな残酷な想像が、頭をよぎるたびに、私は、あの子を抱きしめて、この恐ろしい世界から、どこか遠くへ連れて逃げたい衝動にかられた。でも私には、それが、できなかった。
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あかり、という名前。
光や灯りを意味する、その名を、私と夫は、この子が生まれたとき、世界を明るく照らす子になってほしい、と願ってつけた。
でも今、あかりは、まったく別の意味で、光になっていた。滅びゆく一族を照らす、最後の灯り。暗い悲劇のなかで、けなげにともりつづける、小さなともしび。
その名の皮肉に、私は震えた。あかり、という光は、栄家の、いちばん暗い時代を照らすために、あるのだろうか、と。
私は、あの子に、この名をつけたことを、少しだけ、後悔さえした。もし、もっと目立たない、ふつうの名前だったら、あの子は、こんなふうに、光として消費されずにすんだのだろうか、と。でもそれは、ちがう、と思い直す。名前のせいではない。あの子を光に仕立て上げたのは、あの子を消費する、まわりの人々のほうだった。あかり、というやさしい名は、ただあの子の運命を、あまりにも正確に言い当ててしまっていた。それだけのことだったのだ。
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そして私は、ふと恐ろしいことを思った。いちばん美しく光るともしびは、消える直前のともしびだ、と。
風前の灯火。消える間際に、ひときわまばゆく燃え上がる。人々が、あかりに惹かれるのも、もしかしたら、あの子の光に、そういう、はかない美しさを感じているから、なのかもしれない。
そう思うと、私は、いてもたってもいられなくなった。
私は、あのぎおんが、去るときに残していった言葉を思い出していた。野原の草は、きれいに咲いている草も、枯れている草も、ぜんぶおんなじ。覚えていてくれる人が、一人でもいれば、じゅうぶん、と。あかりは、今、いちばんきれいに咲いている。でもきれいに咲いた花ほど、散るのも早い。私は、せめて、あの子の、このまばゆい姿を、しっかりと目に焼きつけておこうと思った。いつか、この光が消えたときに、誰か一人でも、あの子の本当の姿を覚えている者が、いるように。
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栄家は、すべてを失った。でもあかりだけは、最後まで、人々の見世物として消費されつづけた。
落ちぶれることすら、この子には、許されなかった。ただ、静かにふつうの子どもに戻ることさえ、世間は、許してくれなかった。あかりは、悲劇の象徴として、舞台の上に立たされつづけた。そのまばゆい光を、人々に消費されながら。
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私は、あの子を、その残酷な舞台から、降ろしてあげたかった。ただの、あかりに、戻してあげたかった。
でも私には、それができなかった。世間が作り上げた、悲劇の光という物語。その大きな流れの前で、母親の私は、あまりにも無力だった。
そんな私を見て、いちばん心を痛めていたのは、母だった。母は、よく、あかりを、そっと抱き寄せて、世間のまなざしから隠すようにしていた。だいじょうぶ。あかりは、あかりのままで、いいんだよ。母は、あの子に、そうささやいた。それは、栄家の家訓とは、正反対の言葉だった。まん中に居続けろ、ではなく、あなたは、あなたのままで、いい、と。母だけが、世間が押しつける、光という役割から、あの子を守ろうとしていたのだ。
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あかり、という光は、いま、栄家の滅びゆく空に、ひときわまばゆく、輝いていた。
でもその光が、どんな結末を迎えることになるのか。私は、考えないようにしていた。考えれば、こわくて、おかしくなりそうだった。
ただ、母として、祈ることしかできなかった。どうか、この光が、消えませんように、と。どうか、あの子が、ただのあかりで、いられますように、と。
でもその祈りが届かない日が、すぐ、そこまで来ていることを、心のどこかで、私は、感じはじめていたのだった。




