第四十七章 妙子の覚悟
栄家が坂道を転がり落ちていくなかで、一人だけ、少しも取り乱さない人がいた。母の妙子だった。
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父が闘志を失い、宗太が酒におぼれ、家じゅうが暗い空気に沈むなかで、母だけは、いつもと変わらなかった。
朝、起きれば、家族のためにご飯を作る。家の中を、きれいに片づける。傾いた家計を、こつこつと切り盛りする。母は、まるで何ごともないかのように、淡々と、日々の務めをこなしていた。
私は、一度、夜中に、ふと目を覚まして、母が、一人、台所で、じっと立っているのを見たことがある。母は、暗がりのなかで、何をするでもなく、ただ静かにうつむいていた。その背中には、昼間にはけっして見せない、深い疲れと哀しみが、にじんでいた。でも私が声をかけようとすると、母は、すぐに、いつものおだやかな顔に戻り、あら、眠れないの、と微笑んだ。母もまた、人知れず、たった一人で、この家の重荷に耐えていたのだ。
でもそれは、母が何も感じていないから、ではなかった。
むしろ逆だった。母は、誰よりも深く、栄家の痛みを感じていた。ただ、母は、それをけっして表に出さなかった。自分まで取り乱してしまえば、この家は、本当に崩れてしまう。だから母は、じっとこらえて、家族を、いちばん奥のところで支えつづけていたのだ。
父が、鎌との対決に敗れ、闘志を失って、暗い部屋にこもるようになったときも、母は、けっして父を責めなかった。ただ、黙って、父のそばに、あたたかいお茶を置き、静かに寄り添った。あなたは、じゅうぶん、がんばった。母が、父に、そう声をかけているのを、私は、聞いたことがある。世間が、みな父を老害だと笑いものにしても、母だけは、最後まで、父のいちばんの味方でありつづけた。それが、母という人だった。
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私は、思った。母こそが、栄家の最後の砦なのだ、と。
華やかな光を浴びていたのは、父や、あかりだった。でもその光を、いちばん下で静かに支えていたのは、いつも母だった。表にはけっして出ない。名前も知られていない。でも母がいなければ、栄家は、とっくの昔に、ばらばらになっていただろう。
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母は、あの小さな家に移ってからも、相変わらず台所に立ちつづけた。
大きな屋敷の立派な台所は、もうない。せまい、質素な台所。でも母は、その小さな台所で、以前と同じように、家族のために料理を作った。そして時々、あのおにぎりを握った。
余っちゃったから。母は、そう言って、あかりに、おにぎりを渡した。あかりは、それを、おいしそうに頬張った。そのささやかな光景のなかに、栄家の、失われていない何かが、まだたしかに残っていた。
思えば、母のおにぎりは、栄家がまだ何者でもなかった頃から、この家族をつないできたものだった。貧しくても、豊かでも、母は、いつも同じおにぎりを握った。栄家が、どんなに栄えても、どんなに落ちぶれても、母のおにぎりの味だけは、少しも変わらなかった。それは、うつろいゆく栄光のなかで、ただ一つ、変わらずにあった、家族の心のよりどころだったのかもしれない。
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ある日、私は、母と二人きりになったとき、ふとこんなことを聞いてみた。
お母さんは、こわくないの、と。栄家が、これから、どうなるか分からないのに。
母は、少し笑って、こう答えた。
こわくないよ。だって、私は、決めているから。この家族と、いっしょにいる、って。上っていくときも、いっしょだった。だったら、落ちていくときも、いっしょ。それだけのことよ、と。
母は、まるで天気の話でもするように、さらりと、そう言った。でもそのなにげない言葉のなかに、はかりしれない覚悟が、こもっていた。ふつうの人なら、沈む船からは逃げ出す。少しでも助かる道を探す。でも母は、はじめから、逃げるつもりなど、なかった。母にとって、家族と別れて、一人だけ助かることなど、生きていることにならなかったのだ。だから母は、栄家が、どこへ行こうと、どこまで落ちようと、ただいっしょに行くと決めていた。
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その言葉に、私は、はっとした。
母は、覚悟を決めていたのだ。栄家が、どこまで落ちても。たとえ、いちばん低いところまで落ちても。母は、この家族と運命をともにする、と。
その静かな覚悟の深さに、私は、胸を打たれた。それは、ただのけなげさや健気さでは、なかった。もっと、根の深い、何があっても揺るがない、母の生き方そのものだった。
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私は、母が、なぜ、そこまで栄家に尽くせるのか、ずっと不思議に思っていた。
でもあるとき、気づいた。母が愛していたのは、栄一鶴というスターでは、なかったのだ。母が愛していたのは、まだ何者でもなかった頃の、あの無名の若い父。誰にも知られず、もがいていた、あの頃の父だった。
だから父が、すべてを失っても、母の愛は、少しも揺らがなかった。むしろ父が、また何者でもない、ただの人に戻っていくことを、母は、どこかで、静かに受け入れていたのかもしれない。
母は、よくこう言っていた。私は、あの人が、テレビに出る前の、いちばんしょんぼりしていた頃を知っている、と。誰にも認められず、明日をも知れなかった、あの頃の父。そのいちばんみじめな姿を、母は、いちばんそばで見てきた。そして、そんな父を、まるごと愛した。だから、栄光も、名声も、母にとっては、おまけのようなものだった。それらが消えても、母の愛する、あの人は、ちゃんと、そこに残っていたのだから。
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そして母は、とりわけあかりのことを気にかけていた。
母は、よくあかりを膝にのせて、その小さな頭を、そっとなでていた。まるで、この子だけは、何があっても守る、とでもいうように。
母と、あかりの、その姿を見ていると、私は、なぜか胸が締めつけられた。二人のあいだには、私にはうかがい知れない、深い、深い絆のようなものが、あるように感じられたのだ。
今にして思えば、母は、あのとき、すでに何かを感じていたのかもしれない。あかりの上に、これから訪れるであろう、大きな哀しみを。だからこそ母は、あんなにも、いとおしそうに、あの子を抱きしめていた。まるで、限られた時間を惜しむように。そして母は、心のどこかで、こう決めていたのだと思う。もし、あかりが、いちばんつらい目にあうときが来たら、そのときは、自分が、あの子のそばにいてやろう、と。誰にも、あの子を、ひとりぼっちにはさせない、と。
私は、母と、あかりの、その姿から、目をそらした。なぜか、見ていることがつらかったのだ。まるで、このおだやかな時間が、長くは続かないことを、私の心の奥が、すでに知っているかのように。母の、あの深い覚悟。あかりへの、あの痛いほどの愛おしさ。そのすべてが、遠い未来の、哀しい光景を、静かに指し示しているように、思えてならなかった。
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栄家という大きな船が、少しずつ、沈んでいく。
その船の、いちばん奥で、母は、静かに微笑みながら、家族の手を握りしめていた。
いちばん低いところに落ちるときも、いっしょにいる。その母の言葉が、私の胸に、深く刻まれた。
でもその母の覚悟が、いったい、どんなかたちで果たされることになるのか。このときの私は、まだ想像すらしていなかった。
母の、あの静かな微笑みの奥に、どれほど深く、どれほど哀しい覚悟が秘められていたのかを、私が本当に知ることになるのは、もっと、ずっとあとのことだったのだ。
その覚悟を思うたび、私は、今も、胸が締めつけられる。




