第四十四章 寛さんの孤島
栄家の長い歴史のなかで、ずっとその裏側を支えてきた一人の男がいた。みんなから寛さんと呼ばれる、古参のプロデューサーだった。父がまだ若かった頃から栄家の番組づくりを支えてきた、いちばん古い戦友である。
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私は、子どもの頃から寛さんを知っていた。
撮影所に連れてこられても、私には居場所がなかった。父も兄も、大人たちに囲まれて、まぶしい照明の下にいる。私はただ、廊下の隅の丸椅子に座って、それを遠くから見ているだけだった。そんなとき、通りがかりにぽんと私の頭へ手をのせ、こっそりお菓子を握らせてくれたのが、寛さんだった。おじょうちゃん、退屈だろう。そう言って、よれよれの上着のポケットから、あめ玉を一つ出してくれる。栄家という厳しい世界のなかで、私にそんなふうに声をかけてくれた大人は、寛さんくらいのものだった。
父が近づくと、大人たちはさっと背筋を伸ばして黙りこむ。でも、寛さんのまわりだけは、いつも、どこか空気がゆるんでいた。──もっとも、私が覚えているのは、子どもの目に映った寛さんでしかない。あの笑顔の裏で、この人が何を抱えていたのか。そこまでは、私は何も知らないのだ。
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栄家が炎上の渦に飲み込まれるなかで、世間は、誰か、はっきりとした責任者を求めていた。
人を道具のように使い、切り捨ててきた、栄家の悪しき体質。その責任を誰か一人に負わせて断罪しなければ、人々の怒りは収まらなかった。そして、そのいけにえに選ばれたのが、寛さんだった。
ある日、ワイドショーをつけると、寛さんの顔が大きく映し出されていた。栄家の闇を操った黒幕、といった見出しがついている。私は息をのんだ。画面のなかの、いつものよれよれの上着。でも、その顔はこわばって、別人のようだった。あの、あめ玉をくれた人が、今、日本じゅうから悪人として指をさされている。私はテレビの前で、しばらく動けなかった。
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たしかに寛さんは、栄家の非情なやり方に関わってきた。父の命令で、多くの汚れ仕事もしてきただろう。
でも、それは寛さん一人の罪ではない。すべては父の方針であり、栄家全体の体質だった。それに──これは人づてに聞いた話だが──寛さんは、切られていく人たちに、陰でそっと手を差し伸べていたのだという。栄家を追われた者が次の仕事を見つけられるよう、ひそかに口をきいてやることもあったらしい。父の冷たさを、寛さんのあたたかさが、かろうじて埋めていた。そういう面も、たしかにあったのだ。でも、そんな目立たない善行を、世間はいっさい見ようとはしなかった。
いちばんの責任者である父は、すでに落ちぶれ、世間の関心から外れていた。だから人々の怒りの矛先は、まだ業界に残っていた寛さんへと向かった。寛さんは、栄家のすべての罪を、たった一人で背負わされたのだ。
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そして寛さんは、業界から完全に追放された。
どのテレビ局も、どの制作会社も、もう寛さんとは仕事をしようとしなかった。あの人と関われば、自分たちも批判される。だから、みんなが寛さんを避けた。いつだったか、寛さんが何十年もかけて育てた番組の、記念の特番があった。画面の隅を流れていく、歴代スタッフの名前。そのどこにも、寛さんの名はなかった。まるで、はじめから、いなかったかのように。何十年もこの世界で生きてきた人が、ある日突然、その居場所をすべて失う。それは、まるで、絶海の孤島に、たった一人流されたようなものだった。
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私は、風の噂に、寛さんのその後を聞いた。
あれほど多くの人に囲まれていた寛さんのまわりから、潮が引くように、人が消えた。仕事も、地位も、仲間も。すべてを失った寛さんは、都会を離れ、どこか遠くの小さな町に移り住んだのだという。長年連れ添った奥さんにも先立たれ、今は、たった一人で暮らしているらしい。噂では、古いアパートで、ねこを一匹だけ飼っているのだと聞いた。朝、近所の商店街をゆっくり歩き、誰にも気づかれず、誰ともたいした言葉を交わさない。かつて何百人ものスタッフを動かし、何千万もの人を笑わせた番組を作った、その同じ人が、である。
聞くところによれば、寛さんは、誰のことも恨まなかったそうだ。長いあいだ、いい仕事をさせてもらった。栄家には感謝しかない。そう言っていた、と。──もっとも、それが本当に寛さんの言葉なのか、それとも、伝わるうちに、誰かが美しく整えたのか。私には、確かめようがない。ただ、もしそれが本当なら、と思うと、私はかえってやりきれなかった。こんな人が、なぜ、こんな目にあわなければならないのか。
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父は、寛さんの追放を、どんな思いで見ていたのだろう。
その頃の父は、ほとんど家から出なくなっていた。テレビで寛さんの名が出るたび、父はぐっと奥歯をかみしめ、黙りこむ。何か言いたげに口を開きかけては、また閉じる。かつて、ひと声で何十人もの人間を動かした父が、今は、いちばん古い戦友の名前一つに、身じろぎもできずにいた。
自分のいちばん古い戦友が、自分の罪を代わりに背負って消えていく。それでも父には、寛さんを助ける力は、もう残っていなかった。ただ、あるとき、暗い顔で、こうつぶやいたのだという。すまない、寛。おれのせいで、と。──私は、その場にいたわけではない。あとになって、母から聞いた話だ。だから、父が本当にそう言ったのか、どんな声で言ったのか、私は知らない。ただ、もし言ったのなら、その一言には、父の分かっていたことが、すべてこもっていたはずだ。本当に非難を浴びるべきは、自分だったということが。
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寛さんは、たった一人、孤島に取り残された。
もう誰も、寛さんのことを思い出さなかった。栄家の栄光を陰で支えつづけた、その長い年月も、たった一つのスキャンダルの前では、何の意味も持たなかった。
本当は、私は、寛さんに会いに行きたかった。一度だけ、移り住んだ町の名を人づてに聞き出し、便せんを広げ、ペンを持ったこともある。長いあいだ、ありがとうございました、と。でも、その先が書けなかった。何度書いても、言葉がうそくさく思えた。落ちぶれた栄家の娘の礼など、寛さんには、ただ昔をむごく思い出させるだけではないか。結局、私はその便せんを、そっと引き出しにしまった。今も、出せないままだ。せめて私だけは、寛さんのことを覚えていよう。この人が、たしかに栄家のために生きて、そして、栄家のために、すべてを失ったことを。
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でも、孤島に流された者にとって、いちばんつらいのは、孤独そのものではないのかもしれない。
それよりつらいのは、いつか迎えの船が来るかもしれない、という、かすかな希望のほうだ。はじめから望みがなければ、人は、あきらめて運命を受け入れられる。でも、わずかでも希望があるかぎり、人は、その細い糸にすがりつづけ、そして、裏切られつづける。
寛さんの本当の絶望は、まだ、これから始まるのだった。




