第四十三章 手放すもの
金の綻びは、やがて、栄家に、いちばんつらい決断を迫った。あの屋敷を手放す、という決断である。
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その屋敷は、栄家の栄光そのものだった。
父が頂点をきわめた頃に建てた、大きな家。広い庭。いくつもの部屋。そこは、栄家の繁栄の象徴だった。私も、あかりも、この家で育った。家族の思い出のすべてが、この屋敷にしみこんでいた。
この庭で、伊織兄さんと宗太と私は、よく追いかけっこをした。あの大きな木には、みんなでのぼって、父に叱られたこともあった。広間では、栄家のにぎやかな祝いごとが、幾度となく開かれた。あかりがはじめて歩いた場所も、この屋敷の廊下だった。数えきれない家族の記憶が、この家の柱や壁や床に、静かに刻まれていた。屋敷は、ただの建物ではなかった。それは、栄家が生きてきた時間そのものだったのだ。
でももう、この家を維持することはできなかった。莫大な借金を返すためには、この大きな屋敷を売るしかなかった。それは、栄家に残された、最後の大きな財産だった。それを手放すということは、栄家が、これまでの暮らしと決別する、ということだった。
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屋敷を出ていく日が決まると、私は、家の中を、ゆっくりと歩いて回った。
がらんとした広間。かつて、大勢の客でにぎわった、あの部屋。私たちが走り回った、長い廊下。庭の、大きな木。そのどれもが、栄家の栄えた日々を、静かに見つめてきた証人だった。
私は、一つ一つの部屋に、別れを告げた。ここで笑い、ここで泣き、ここで暮らしてきた。その、すべての日々に。
どの部屋にも、あの頃の笑い声が、まだ残っているような気がした。目を閉じれば、幼い伊織や宗太が駆けてくる足音が、聞こえてくるようだった。若く美しかった母の姿。まだ力にあふれていた、父の大きな笑い声。栄家がいちばん輝いていた、あの日々が、この屋敷には、たしかにあったのだ。でもそれは、もう二度と戻ってはこない。私は、目に涙がにじむのをこらえながら、静かに部屋を後にした。
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とりわけ、私の胸を締めつけたのは、あの台所だった。
豪華な屋敷には不釣り合いなほど、質素なあの台所。でもそこは、母の居場所だった。どんなに栄えても、母は、いつも、その台所に立って、家族のために料理を作りつづけた。父がいちばん心を休められたのも、その、あたたかい台所だった。
その台所とも、もうお別れなのだ。私は、そう思うと、たまらなくなった。
その台所で、母は、よくおにぎりを握ってくれた。豪華な料理人が腕をふるう大きな屋敷で、それでも、母の素朴なおにぎりが、家族にはいちばんのごちそうだった。余っちゃったから、と言って、母は、いつも少し多めに握った。その、あたたかいおにぎりの味を、私は、生涯忘れないだろう。栄華のなかで、家族をいちばん深いところでつないでいたのは、豪奢な屋敷でも財産でもなく、あの小さなおにぎりだったのかもしれない。
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父は、その日、一言も話さなかった。
自分が生涯をかけて築き、いちばん誇りにしていた、この屋敷。それを手放す。それは、父にとって、栄光の完全な終わりを意味していた。父は、玄関で、しばらく、屋敷を見上げていた。その背中は、ただ、じっと動かなかった。
私は、父に、そっと声をかけた。お父さん、行きましょう、と。でも父は、すぐには動こうとしなかった。父は、屋敷の玄関の柱に、そっと手を触れた。まるで、長年の相棒に別れを告げるように。そしてぽつりとつぶやいた。よく、がんばってくれた、と。それが、屋敷に向けた言葉なのか、それとも、自分自身に向けた言葉なのか、私には、分からなかった。ただ、その短い一言に、父の生涯のすべてが、こもっているように感じられた。
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そして私たちは、屋敷をあとにした。
長年、私たちを包んでくれた大きな家。それが、しだいに、遠く小さくなっていく。私は、車の窓から、その姿を、いつまでも見つめていた。栄家の栄光を彩っていた、あの屋敷は、もう、私たちのものではなくなった。
門が、ゆっくりと閉じられた。もう二度とくぐることのない、あの門。そのとき、私は、一つの時代が本当に終わったのだと、はっきり感じた。栄家の、長い栄光の物語は、この屋敷の門が閉じる音とともに、静かに幕を下ろしたのだ。
あかりは、その引っ越しを、不思議といやがらなかった。むしろ小さな家に移ることを、どこか楽しんでいるようにさえ見えた。大きな屋敷は、あかりにとっても、どこかよそよそしい場所だったのかもしれない。新しい、小さな家で、あかりは、はじめて、子どもらしいのびのびとした表情を見せるようになった。せまい、けれど、あたたかいその家のほうが、あの子には、合っていたのだ。私は、そんなあかりを見て、少しだけ救われる思いがした。
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私たちが移り住んだのは、小さな、ありふれた家だった。
かつての屋敷とは、くらべものにならない、質素な住まい。でも今の栄家には、それが精いっぱいだった。豪奢な屋敷から、小さな家へ。それは、栄家の都落ちが、ついに、目に見えるかたちで現実のものになった、瞬間だった。
これまで、栄家の凋落は、人の心が離れたり、お金がなくなったり、目に見えないところで進んでいた。でもこの引っ越しで、その凋落が、はっきりと、目に見えるかたちになったのだ。私たちは、もう、あのまばゆい栄光の世界の住人ではなかった。ごくふつうの、目立たない暮らしの中へと、静かに降りていこうとしていた。
新しい家の、せまい部屋で、荷物をほどきながら、私は、これが栄家の新しい暮らしなのだと、自分に言い聞かせた。もう後戻りはできない。私たちは、坂を下りきった、その先のふもとで、あたらしい、小さな生活を始めなければならなかった。
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でもと、私は思った。小さな家に移って、私は、なぜか、少しほっとしている自分に気づいた。
あの大きな屋敷は、栄家の栄光の象徴であると同時に、栄家を縛る重い鎖でもあったのだ。まん中に居続けなければ。この大きな家を守らなければ。私たちは、いつも、何かに追われていた。
その重荷から、今、ようやく解き放たれる。小さな家の、ささやかな暮らしの中に、私は、失われたものの大きさと、同時に、かすかな身軽さのようなものも、感じていたのだった。
思えば私は、ずっと、こういうふつうの暮らしに憧れていたのかもしれない。まん中のまぶしい光ではなく、目立たない、小さな家の、あたたかい灯り。栄家の栄光の外側に、いつもいた私にとって、この、ささやかな暮らしのほうが、ずっと性に合っていた。この、小さな家での静かな日々が、やがて、私のこれからの人生の土台になっていく。そのことを、このときの私は、まだ、はっきりとは知らなかったけれど。
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手放したのは、屋敷だけではなかった。
栄光。誇り。見栄。人々の羨望。そういう、栄家を栄家たらしめていた、あらゆるものを、私たちは、一つ、また一つと手放していった。
でもすべてを手放した、その先に、もしかしたら、本当に大切なものが見えてくるのかもしれない。私は、まだ、かすかに、そんな希望を抱いていた。
それでも私たちは、生きていかなければならなかった。栄光を失い、家を失っても、家族が身を寄せあって生きていくかぎり、栄家は、まだ終わってはいなかったのだ。
物理的な都落ち。それは、栄家にとって、いちばんつらく、でも、どこか解放でもある。そんな、複雑な季節の始まりだったのだった。




