第三十六章 最初のスキャンダル
栄家の凋落を決定的なものにした、その最初のひびは、思いがけないところから入った。
きっかけは、一本の告発だった。栄家にまだ残っていた、あるタレントが、長年、自分の付き人や若いスタッフに、ひどい扱いをしていた。その事実が、ある日、内部の誰かによって告発されたのだ。
告発の内容は、生々しかった。ささいなことで怒鳴りつけ、人格を否定するような言葉を浴びせ、深夜まで理不尽な用事を言いつける。まるで召使いのように人を扱う。そういう、日常的ないじめのような仕打ちが、こまごまと書き連ねられていた。
告発したのは、そのタレントのもとで何年も働いてきた、若い付き人だったという。その人は、はじめは、あこがれの世界で働けることが、うれしくてたまらなかったらしい。でも、来る日も来る日も心ない言葉を浴びせられ、人としての尊厳を少しずつ削られていった。もう限界だと声をあげたとき、その人の心は、すでにぼろぼろになっていた。告発の文章からは、その、長いあいだ耐えつづけた人の静かな悲鳴がにじみ出ていた。だからこそ、それを読んだ人々の胸を、強く打ったのだ。
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その告発は、瞬く間に広まった。
もともと栄家によい感情を持っていなかった人々が、これ幸いと飛びついた。やっぱり栄家は、こういう体質なんだ。人を人とも思わない、傲慢な一族なんだ、と。一人のタレントの問題は、あっという間に、栄家という一族全体の問題として語られはじめた。
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かつての栄家なら、こんなことにはならなかった。
昔の父には、こういう火種を消すだけの力があった。告発が表に出そうになれば、父は、あらゆる手を使ってそれを揉み消した。メディアに圧力をかけ、告発した者を黙らせ、なかったことにしてしまう。それが、かつての栄一鶴の力だった。
私は、子どもの頃、そういう場面を何度か見たことがある。父が、電話一本で、大きな騒ぎを静かに収めてしまう。その、魔法のような力に、私は、恐ろしさすら感じたものだった。
今でも、忘れられない光景がある。まだ私が子どもだった頃、栄家のタレントが、大きな不祥事を起こしたことがあった。ふつうなら、芸能生命が終わってもおかしくない事案だった。でも、父は、動じなかった。父は、関係する各所に、次々と電話をかけた。その口調は、けっして荒らげることなく、むしろおだやかだった。でも、その電話が、一本、また一本とかかるたびに、大きくなりかけていた騒ぎが、まるで潮が引くように静まっていった。数日後には、その不祥事は、まるでなかったことのように消えていた。それが、かつての栄家の力だったのだ。
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でも、今の父には、もう、その力はなかった。
父は、今度も、昔のやり方で事を収めようとした。あちこちに電話をかけ、かつてのつてを頼ろうとした。でも、誰も、父の言うことを聞かなかった。
かつて父を恐れ、父に従っていた人々は、もう、どこにもいなかった。父の電話に出ない者さえいた。栄一鶴の名は、もう、何の力も持たなくなっていたのだ。
私は、一度、父が電話をかけている姿を、たまたま見かけたことがある。それは、昔とはまるで違う姿だった。父は、相手に、必死に何かを頼んでいた。頼む、この件を、なんとか穏便に。昔のよしみじゃないか、と。でも、電話の向こうの相手は、冷たかったのだろう。父の声は、だんだん小さくなっていった。そして、最後には、力なく受話器を置いた。かつて、電話一本で世界を動かした父が、今は、その電話で頭を下げても、誰にも相手にされない。その姿を見て、私は、胸が締めつけられた。
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火は、消えるどころか、どんどん燃え広がっていった。
一つの告発は、次の告発を呼んだ。あの一族は、昔からこうだった。私も、ひどい目にあわされた。そういう声が、次々とあがってきた。栄家の、長年のおごりや非情が、今、一気に噴き出してきたのだ。
不思議なもので、いったん流れが決まると、人々は、われもわれもと栄家を叩きはじめた。真偽の定かでない噂まで、まるで事実のように広まっていく。栄家というだけで、何をしても悪く受け取られる。かつては、栄家というだけで、何をしても好意的に見られていたのに。その振れ幅の大きさに、私は、めまいがするようだった。人々の心は、光から闇へと、いっせいに傾いていた。そして、いったん傾いた心は、もう二度と、元には戻らなかった。
今にして思えば、あのスキャンダルは、単なる一つの不祥事ではなかった。それは、これまで栄家の栄光が、いかに危ういものの上に成り立っていたかを、いっきにあらわにする出来事だった。人々の好意という、あのあてにならないものの上に、栄家は、大きな城を築いていた。そして、その好意が去ったとたん、城は、内側から崩れはじめた。スキャンダルは、その崩壊の引き金を引いたにすぎない。栄家は、もう、とっくに内側から朽ちはじめていたのだ。
私は、思った。これは、ただの一つのスキャンダルではない、と。
これは、潮目が完全に変わったことの、しるしだった。かつて、栄家がまん中にいた頃は、多少の無理も非情も、力で覆い隠すことができた。人々も、まぶしい光に目がくらんで、その影を見ようとしなかった。
でも、光が消えた今、人々は、その影ばかりを見るようになった。そして、これまで覆い隠されてきた、栄家のすべての負の側面が、堰を切ったようにあふれ出してきたのだ。
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因果というものを私は、思わずにはいられなかった。
栄家は、これまで、たくさんの人を傷つけてきた。父の、あの家訓のもとで。使えない者を切り、逆らう者をねじ伏せてきた。その、積もり積もった恨みが、今、栄家が弱ったところを狙って、いっせいに返ってきている。
考えてみれば、告発されたタレントの、あの高慢なふるまいも、もとをたどれば、栄家という一族が長年育ててきた体質だったのかもしれない。人を力で従わせる。下の者を道具のように扱う。その、栄家のやり方を、そのタレントは、ただ忠実になぞっていただけ、とも言えた。父がまいた種は、タレントたちにも、しっかりと根を下ろしていたのだ。だから、これは、あのタレント一人の問題ではなく、栄家という一族そのものの問題だった。人々がそう感じたのも、けっしてまちがいではなかったのだ。
まいた種は、いつか刈り取らねばならない。栄家は、今、その、長年の種の刈り取りの時を迎えていたのだ。
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告発されたタレントは、まもなく、栄家を去っていった。
でも、問題は、それで収まらなかった。むしろ、そこから、本当の崩落が始まったのだ。
栄家の中は、重い空気に包まれた。父はいらだち、宗太は、おろおろするばかりだった。どう対応すればいいのか、誰にも分からなかった。かつては、こういう危機のとき、父が、すべてを取り仕切ってくれた。でも、その父は、もう、かつての力を失っている。かといって、当主の宗太に、この嵐を乗り切る力はなかった。舵取りを失った船のように、栄家は、ただ大きな波に翻弄されるばかりだった。この混乱が、さらに大きな失敗を呼び込むことになるとは、このときの私は、まだ知らなかった。一つのひびが、次々と新しいひびを生み、やがて、栄家という大きな建物全体を揺るがしていく。
その、最初のひびが入った日、私は、栄家の、本当の終わりの始まりを感じていた。
その長い長い坂道を、栄家は、いよいよ本格的に、転がり落ちはじめたのだった。




