第三十四章 あかりの小さな抵抗
あの、いつも笑っていたあかりが、はじめてはっきりと、いやだと口にしたのは、ある冬の朝のことだった。
その日も、あかりには朝から仕事が入っていた。まだ外は暗く、私が起こしにいくと、あかりは布団の中で丸くなったまま、動こうとしなかった。あかり、時間だよ、と声をかけても、いつものように、はい、とは返ってこなかった。
かわりに、布団の中から、小さな声が聞こえてきた。
行きたくない。
私は、はっとしてあかりの顔をのぞきこんだ。あかりは、目にいっぱい涙をためて、私を見上げていた。ママ、あかり、今日は行きたくない。おうちにいたい。ずっと、おうちでママといたい、と。
そして、あかりはこうも言った。あかり、ほんとうはね、公園で、お友だちと、すべり台がしたいの。それから、いっぱい絵本が読みたい。ママといっしょに、ホットケーキが焼きたい。あかりのお願いは、それだけなの、と。それは、どれも、ふつうの子どもならあたりまえにできることばかりだった。でも、あかりには、その、ささやかな願いすら叶えることが難しかった。あの子が望んでいたのは、スターの座でも大勢の拍手でもなく、ただの、あたりまえの子ども時代だったのだ。
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それは、あかりの、精いっぱいの抵抗だった。
ふだん、けっしてわがままを言わない、あの聞き分けのいいあかりが、はじめて、自分の本当の気持ちを口にしたのだ。それだけ、あの子は限界に近づいていた。毎日、笑顔を作りつづけ、疲れていても頑張りつづける。その、けなげな我慢が、とうとうあふれてしまったのだ。
私は、あかりをぎゅっと抱きしめた。そのとき、あかりの体が、思っていたよりもずっと小さく、そして熱いことに気づいた。
思い返せば、その少し前から、あかりには疲れの色が濃くなっていた。以前はあんなに旺盛だった食欲も落ち、夜中にうなされることも増えていた。ときどき、遊んでいる最中にふっと動きを止めて、ぼんやりと宙を見つめていることもあった。まだ幼いこの子の体と心に、大人でも音を上げるような重荷が、少しずつ積み重なっていたのだ。それでも、あかりは、人の前では、けっしてそれを見せなかった。だからこそ、あの朝の、行きたくない、というひとことは、私の胸に深く突き刺さった。
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この子を休ませてあげたい。
私は、心からそう思った。今日くらい、仕事を休んで、一日中、家でゆっくりさせてあげたい。ただのふつうの子どもとして、絵を描いたり、テレビを見たり、昼寝をしたり。そんな、あたりまえの一日をこの子に過ごさせてあげたい、と。
私は、あかりを抱いたまま父のところへ向かった。
お父さん。あかりは、今日、少し熱があるみたいです。ずいぶん疲れています。今日の仕事は、休ませてください、と。
でも、父の答えは冷たかった。
だめだ。今日の収録は、何か月も前から決まっていたものだ。大勢のスタッフが、あかりのために動いている。あかり一人が休めば、みんなに迷惑がかかる。それに、今の栄家に、仕事を断る余裕はない、と。
私は、食い下がった。でも、あの子は、まだ子どもです。無理をさせたら、いつか壊れてしまいます、と。
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すると、父はこう言った。
甘いことを言うな。この世界は、そんなに優しくない。あかりは、栄家の大事な看板だ。あの子が頑張らなければ、栄家は終わりなんだ。あの子には、その責任がある、と。
まだ、こんなに幼い子どもに。責任、という言葉を平気で押しつける。私は、父のその言葉にぞっとした。父はもう、あかりを一人の孫としてではなく、栄家を支える道具としてしか見ていないのかもしれない、と。
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結局、私は、父を説得できなかった。
とぼとぼと、あかりのところへ戻ると、あかりはもう泣きやんでいた。そして、私の顔を見ると、けなげにもこう言ったのだ。
ママ、ごめんね。あかり、わがまま言った。だいじょうぶ、あかり、行くね。お仕事、頑張るね、と。
私は、その言葉に、胸が張り裂けそうになった。
あかりは、母である私が困っているのを見て、自分のつらさをまた飲みこんでしまったのだ。まだ、こんなに小さいのに。この子は、いつも、まわりの大人のことばかり気にかけている。自分のことは、いつも後回しにして。
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その日、あかりは、いつものように支度をして、仕事に出かけていった。
玄関で、私に小さく手を振って。ママ、いってきます、と笑って。
その笑顔が、私にはたまらなかった。あの笑顔の裏に、どれほどの我慢が隠されているか。それを知っているのは、たぶん、私だけだったから。
その日の収録で、あかりは、いつもどおり完璧に歌って踊ったのだという。誰も、あの子がその朝、泣いていたことなど知らなかった。カメラの前のあかりは、あくまで明るく、けなげな、みんなのあかりだった。その話を、あとで聞いて、私は、かえって胸が苦しくなった。あんなに小さな体で、あんなにけなげに大人たちの期待に応えつづけている。その、いじらしさが、たまらなかったのだ。
私は、自分の無力さが情けなかった。母親なのに、この子を守ってあげることができない。栄家という大きな流れの前では、母親の愛など、あまりにも無力だった。
私は、何度も考えた。いっそ、あかりを連れて、この家を出ていってしまおうか、と。どこか遠くの、誰も栄家を知らない土地へ。そこで、あかりをふつうの子どもとして育てられたら、どんなにいいだろう、と。でも、私には、その勇気がなかった。父に逆らって、あかりを連れ出せば、栄家は、いよいよ立ちゆかなくなる。宗太も、母も、路頭に迷うかもしれない。私一人の思いで、一族みんなの運命を変えてしまうことなど、できなかった。だから、私は、ただ耐えるしかなかったのだ。
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あかりの、あの小さな抵抗は、すぐに、また、けなげな笑顔の下に隠されてしまった。
でも、私は知っていた。あれは、消えたのではなく、ただ、あの子の心の奥にしまいこまれただけだ、と。そして、我慢は、しまいこむほど、少しずつたまっていく。いつか、その我慢が、あの小さな体に収まりきらなくなる日が来るのではないか。
そう思うと、私は、いてもたってもいられなかった。
あの、あふれそうな我慢を、あの小さな体は、いったい、いつまで抱えていられるのだろう。私は、こわかった。まるで、細い糸で重いものを吊り下げているような。その糸が、いつ、ぷつりと切れてしまうか分からない。そんな危うさを、私はあの子の中に感じていた。
不思議なことに、あかりをいちばん追い詰めていたのは、悪意ではなかった。むしろ、たくさんの人の愛だった。何百万もの人があかりを愛し、あかりの歌を待っていた。その、あたたかいはずの愛が、幼いあかりの上に重くのしかかっていた。愛されればされるほど、あの子は逃げ場を失っていく。光をあびればあびるほど、その光は、あの子自身を焼いていく。あかり、という、光や灯りを意味する名前が、これほど皮肉に思えたことはなかった。
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その夜、仕事から帰ってきたあかりは、疲れきって、すぐに眠ってしまった。
私は、その寝顔を見つめながら、心の中であの子にあやまりつづけた。守ってあげられなくて、ごめんね。こんな思いをさせて、ごめんね、と。
窓の外では、冬の月が冷たく光っていた。その光の下で、あかりは小さな寝息を立てていた。まるで、これから自分を待ち受ける運命を何も知らないかのように。ただ、安らかに。ただ、あどけなく。




