第三十三章 揺らぐ茶の間
栄家の家訓はたった一つだった。茶の間のまん中に居続けろ。父はこの言葉を何よりも大切にし、家族にも繰り返し言い聞かせてきた。日本中の茶の間のまん中に居続けるかぎり栄家は安泰であり、そこから外れた者は忘れられて消えていくというのが、父の信じる唯一の真理だったのだ。
でも、その茶の間そのものが、いま栄家から静かに離れようとしていた。
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はじめは、視聴率という数字にあらわれた。かつて栄家のタレントが出るだけで跳ね上がっていた数字が、少しずつ落ちていった。人々はもう、以前ほど栄家の顔ぶれを見たいとは思わなくなっていた。テレビ局も、数字を取れなくなった栄家のタレントを、だんだん使わなくなっていく。まさに悪循環だった。
象徴的な出来事があった。毎年、大みそかに放送される、あの国民的な歌番組。栄家のタレントは、何十年ものあいだ、その常連だった。まん中の、いちばんいい時間帯を、いつも栄家が占めていたのだ。ところが、その年、栄家からの出演者は、ただの一人もいなかった。かわりにまん中を飾ったのは、鎌の陣営の若いタレントたちだった。長年、茶の間のまん中に居続けてきた栄家が、ついに、その、いちばん大切な舞台から締め出されたのだ。
でも、もっとこわかったのは、数字よりも人々の気持ちそのものの変化だった。
かつて茶の間の人々は、栄家を愛していた。栄一鶴が画面に出れば安心して笑い、あかりが歌えば涙ぐんだ。栄家は、日本人の茶の間に欠かせないあたたかい存在だった。
でも、その愛が、いつのまにか冷めていた。
栄家のタレントが出ても、人々の心はもう動かなかった。またこの人たちか、というような、うんざりした空気さえ漂うようになった。かつての熱狂が嘘のように、栄家は飽きられ、そして忘れられかけていた。
かつては、栄家の誰かが街を歩けば、たちまち人だかりができたものだ。握手を求められ、写真をせがまれ、あたたかい声援を浴びた。でも、その頃には、街を歩いても誰も振り返らなくなっていた。あら、昔よく見た人ね、というような、遠い記憶をたどる目で見られるだけ。愛されないことよりも、忘れられることのほうが、ずっとこたえるのだと、私はそのとき知った。
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やがて、無関心は、嘲笑に変わっていった。
ネットでは、栄家は時代遅れの象徴として笑いものにされるようになった。まだ栄家なんてやってるのか。いつまでしがみついてるんだ。老害のいい見本だ、と。かつて、あんなに愛されていた一家が、今では、嘲りの対象になっていた。
一度、父が、あるインタビューで、栄家はまだ終わっていない、と気丈に語ったことがある。すると、その言葉がネットで、格好の笑いものにされた。何を言ってるんだ、もう終わってるだろう。現実が見えていない老人だ、と。父の、精いっぱいの意地さえ、人々の退屈しのぎのおもちゃにされる。そこには、かつて栄家を愛してくれた人々の、あのあたたかさは、もう、かけらもなかった。
私は、その変わりようを見ながらこわいと思った。
人々の愛というのは、こんなにもあてにならないものなのか、と。
かつて、一億人が栄家を愛していた。でも、その愛は、けっして無条件のものではなかった。それは、栄家がまぶしく輝いているあいだだけの愛だった。栄家が輝きを失ったとたん、その愛はあっさりと冷めていった。そして、冷めた愛は、時に憎しみよりも冷たいものだった。
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私は、思う。栄家を本当に滅ぼしたのは、鎌でも舜でもなかったのかもしれない、と。
それは、この茶の間の人々だった。顔の見えない、無数の人々。彼らは、気まぐれに栄家を愛し、そして、気まぐれに栄家を捨てた。栄家という船を浮かべていたのも、その船を沈めたのも、同じ大きな海だった。人々の、うつろいやすい心という、あのつかみどころのない海だったのだ。
だから、恨む相手さえ、どこにもいなかった。鎌のような、はっきりした敵がいれば、まだ闘いようもある。でも、茶の間の人々は、姿を持たなかった。ただ、大きな気分となって、栄家を持ち上げ、そして、大きな気分となって、栄家を見放した。それは、誰のせいでもなく、そして、誰のせいでもある、いちばん、どうしようもない滅び方だった。
私は、この、顔のない海のことをずっと考えていた。この海は、悪意を持っているわけではない。ただ、気分で動くだけだ。今日、面白いと思ったものに群がり、明日、飽きたものから離れていく。そこに、理屈も、責任もなかった。一人一人は、ただ、なんとなく栄家に飽きただけ。でも、その、なんとなくが、何百万も集まったとき、それは、一つの一家を丸ごと飲み込む、巨大な力になった。誰も手をくだしていないのに、栄家は、その、顔のない気分の中で、静かに溺れていったのだ。
考えてみれば、栄家の栄光そのものが、この気まぐれな海の上に浮かんでいたのだ。人々に愛されることの上にしか、栄家という王国は成り立っていなかった。だから、その愛が去れば、王国もまた、砂の城のように崩れていくしかなかった。父は、その、いちばん脆い土台の上に、生涯をかけて大きな城を築いてしまったのだった。
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茶の間のまん中に居続けろ。
父の、あの家訓が、今、皮肉な響きを帯びていた。まん中に居続けることをあれほど望んだ一家が、今、その茶の間から静かに押し出されようとしている。
そして、いちどまん中から外れてしまえば、あとは坂道を転がり落ちるだけだった。人々は、まん中にいる者には熱狂するが、まん中から外れた者には、驚くほど冷淡だった。それもまた、あの家訓が教えていたことだった。まん中から外れた者は、忘れられて消えていく。皮肉にも、その言葉は、今、栄家自身の運命を言い当てていた。
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父も、茶の間が離れていくのを感じていたはずだ。
かつて、あんなに自分を愛してくれた人々。その人々が、今、自分に背を向けている。父にとって、それは、事業の失敗よりも、ずっとこたえることだったにちがいない。父が生涯をかけて求めていたのは、金でも権力でもなく、ただ、茶の間の人々に愛されることだったのだから。
その、いちばん欲しかったものが、今、指のあいだからこぼれ落ちようとしていた。
一度、父が、テレビの前で、じっと昔の自分の番組の再放送を見ていたことがある。画面の中には、茶の間のまん中で、まぶしく笑う、若い日の父がいた。一億人が、その笑顔を愛していた頃の父だ。今の父は、その画面を何も言わずに見つめていた。その横顔には、なんともいえない寂しさが浮かんでいた。あの頃は、たしかにあそこにいたのに。今は、もう、どこにもいない。父は、たぶん、そんなことを思っていたのだと思う。
その、忘れられていく人々のことを、せめて、私だけは覚えていようと思った。茶の間が栄家を忘れても、世界が栄家をなかったことにしても、私だけは、あの一家が、確かにまん中で輝いていた日々を、忘れずにいよう。それが、この記録を書いている、いちばんの理由なのかもしれなかった。
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栄家という光は、まだ、完全には消えていなかった。
でも、その光を見つめる人は、日ごとに減っていった。やがて、誰も、その光に気づかなくなる。そして、光は、誰にも見られないまま、静かに消えていく。
盛りは、必ず過ぎる。
その過ぎゆくさまを、私は、栄家の内側から、なすすべもなく見つめていた。かつて一億人が愛していた、その光が。少しずつ、茶の間から消えていくのを。




