第三十二章 消えない過去の芽
それは、ほんの小さな出来事から始まった。
あとになって振り返れば、あれこそが、栄家を最後に、いちばん深いところまで蝕んでいく、新しい種類の毒の、はじまりだったのだ。でも、そのときの私たちは、まだその恐ろしさにまるで気づいていなかった。
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ある日、ネットの中に、一本の古い映像が、流れはじめた。
それは、何十年も前のテレビ番組の一場面だった。まだ父が、飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃。ある若手のタレントが、生放送で、小さな失敗をした。すると、その場にいた父が、みんなの前で、そのタレントをこっぴどく叱りつけたのだ。
こんな簡単なこともできないのか。おまえのような人間は、この世界にはいらない。今すぐ消えろ、と。
若いタレントは、真っ青な顔でうつむいていた。スタジオの空気は凍りついていた。それでも、父は容赦しなかった。当時は、それが栄一鶴の厳しさの美学として、まかり通っていたのだ。
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その映像が、なぜ今になって掘り起こされたのかは、分からない。
たぶん、誰かが、栄家の凋落を面白がって。父の、過去の映像を探し出してきたのだろう。そして、その、いちばん見苦しい一場面を切り取って、ネットに、流したのだ。
映像は、瞬く間に、広まった。
これが、あの栄一鶴の、正体だ。こんなふうに、人を平気で、踏みにじってきた男なんだ。時代が変わって本当によかった。こういう人間が消えていくのは、当然の報いだ、と。
顔の見えない、無数の人々が、父を断罪しはじめた。
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私は、その映像を見て複雑な気持ちになった。
たしかに、映像の中の父はひどかった。人をあんなふうに、追い詰めるやり方は、まちがっている。それは、私も、そう思う。
でも、と、私は、思った。
あれは、何十年も前の出来事だ。あの頃と今とでは、世の中の常識がまるで違う。当時は、あれが、あたりまえだった。それを今の、ものさしで、断罪するのは、はたして、公平なのだろうか、と。
それに、映像の中の父は、そのあと、あの若手をどう扱ったのか。誰も知らない。もしかしたら、あとでこっそりフォローしたのかもしれない。でも、ネットに流れているのは、その、いちばん醜い一場面だけ。前後の事情は、すべて切り落とされていた。
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でも、私が本当に恐ろしいと感じたのは、そういうことではなかった。
私が、ぞっとしたのは、こういうことだった。
何十年も前の一つの出来事が。とうに、みんなが忘れていたはずの、過去の一場面が。こうして、今、突然、生々しくよみがえってくる。まるで昨日、起きたことのように。
昔なら、こんなことは、なかった。
人が、何か、まちがいを犯しても。時間が、経てば、それは、少しずつ、忘れられていった。人の記憶は、あいまいで、やがて薄れていくものだったから。過去は、過去として、静かに遠ざかっていった。
でも、今は、違った。
ネットの中に、一度刻まれたものは、けっして消えなかった。何年経とうと。何十年経とうと。それは、ずっとそこに残りつづける。そして、いつでも、誰かの手によって、生々しく掘り起こされる。過去は、もう過去にはならなかった。それは、永遠に現在でありつづけるのだ。
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私は、思った。
これは、とても、こわいことだ、と。
私たち、栄家の人間は、これまで、あまりにも、たくさんのことをしてきた。栄光の日々の中で。人を切り、人を傷つけ、たくさんの、まちがいも、犯してきた。その、すべてが、今、ネットという消えない場所に記録として残っている。
そして、その記録は、いつでも、掘り起こされ、私たちに、牙をむく。まるで、地面の下に無数の地雷が埋まっているように。いつ、どこで爆発するのか、誰にも分からない。
昔の芸能人は、ある意味で幸せだったのかもしれない。全盛期に、どんなにわがままをしても、どんなに人を傷つけても。引退して時が経てば、みんないい思い出として、美化してくれた。晩年は、名優として穏やかに過ごすことができた。でも、今の時代は、そうはいかない。過去のすべてが記録として残り、いつまでも、その人を追いかけてくる。栄光を手にした者ほど、その、逃げ場のない過去の重みに苦しめられる時代になっていたのだ。
そして、それは、父のような古い世代だけの話ではなかった。今、まばゆく輝いている舜のような若者たちも、同じだった。彼らの今の言動も、すべて記録として残っていく。いつか、彼らが少しでもつまずいたとき、その過去が牙をむいて襲いかかってくる。消えない過去という地獄は、これから先、すべての人を平等に飲み込んでいく。誰も、そこからは逃れられないのだ。
人は、誰でも、まちがいを犯す。完璧な人間など、どこにもいない。だからこそ、昔の人は、たがいのあやまちを、時とともに水に流してきたのだ。それは、弱さではなく、優しさだった。人が、やり直すためのゆとりだった。でも、今の時代は、そのゆとりを失いつつある。一度のあやまちも、永遠に許されない。そんな息苦しい世界を、私たちは、自分の手で作りだしてしまったのかもしれない。
父の、あの映像は、その最初の小さな一つにすぎなかった。
私は、ふとあかりのことを思った。まだ幼いあかりも、毎日、カメラの前に立っている。その、あどけない姿も、すべて記録として、この世界のどこかに残りつづける。いつか、その記録が、あの子を傷つける日が来るのではないか。そう思うと、私は、たまらなく不安になった。この、消えない過去という毒は、いちばん守りたいものにまで、いつか届いてしまうのかもしれなかった。
考えてみれば、私たちはとほうもない時代を生きているのかもしれない。かつて人が忘れることで手にしていた安らぎを、今はもう誰も手にできない。すべてが記録され保存されつづける世界では、人は生涯、自分の過去から逃げきることができない。栄光の大きさは、そのまま、いつか掘り返される過去の量でもあった。高くのぼった者ほど深く沈み、多くを持った者ほど多くを失う。この新しい地獄の前では、かつての栄一鶴の強さも、もはや何の役にも立たなかった。父を守ってきた力も金も名声も、ネットの中に刻まれた一場面の前では、まるで無力だったのだ。
栄家には、これから、いったいいくつの過去が掘り起こされるのだろう。父の、あの一件は、ほんの始まりにすぎない。この先の栄家を思うと、私は、暗い予感で胸がふさがれるのだった。
私にできたのは、ただ、その毒が少しでもゆっくり回ってくれることを祈ることだけだった。でも、祈りだけでは何も変えられないことも、私はうすうす分かっていた。芽は、もう出てしまっていた。あとは、それが育っていくのを、ただこわごわと見ているしかなかったのだ。
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消えない過去。
それは、この時代が生み出した、新しい種類の地獄だった。
かつて、人は、過去を水に流すことが、できた。でも、今は、もう、できない。過去は、消えることなく、いつまでもその人につきまとう。どんなに遠い昔の小さなあやまちも、けっして許されず、忘れられず、いつか必ず報いとして返ってくる。
その、静かな恐怖が、これから、栄家をじわじわと、蝕んでいく。
でも、そのことに、私たちが本当に気づくのは、もっとあとになってからのことだった。
今はまだ、それは、ネットの片隅で、静かに、芽を出したばかり。誰も、その芽が、やがて、栄家を飲み込む、大きな、災いに、育つとは、思っていなかったのだ。




