第三十一章 父と鎌の初対決
父が、ついに鎌と直接会うことを決めたのは、栄家の傾きがもう、隠しようもなくなった頃だった。
それは、父にとって、屈辱的な決断だったはずだ。かつて、自分が裏方として使い、そして切り捨てた男。その男に、今、頭を下げて会いに行く。父の、あの高いプライドが、それをどれほど嫌がったことか。でも、栄家を救うためには、もうそれしか道がなかったのだ。
そこまで父を追い詰めたのは、やはりあの恐怖だったのだと思う。忘れられることへの恐怖。栄家が滅べば、栄一鶴の名も、いつか消えてしまう。それだけは、父にはどうしても耐えられなかった。だから、父はプライドを捨てた。かつて自分が見下していた男に、頭を下げてでも、栄家を、そして自分の名を残そうとした。それは、あがきだった。でも、その、なりふりかまわないあがきの中にこそ、父の、いちばん深い弱さがあらわれていた。
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会う場所は、鎌が指定した。
かつてなら、考えられないことだった。何かを決めるのは、いつも父だった。会う場所も、時間も、条件も、すべて父が決め、相手はそれに従うしかなかった。でも、今は逆だった。父が、鎌の指定した場所に、鎌の指定した時間に、出向いていく。その一事だけで、二人の力関係が、すっかり入れ替わってしまったことが分かった。
それだけではなかった。かつて、父の事務所を訪れる者は、みな、緊張した面持ちで父の言葉を待ったものだ。でも、その日、待つ側に回っていたのは父のほうだった。約束の時間より早く着いて、父は、鎌が現れるのをじっと待っていたという。かつての栄一鶴なら、人を待たせることはあっても、人を待つことなど、けっしてなかった。時代が変わったのだ。そして、その変化を、父自身が、誰よりも痛いほど感じていたにちがいなかった。
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後になって、私は、その日のことをそばにいた人から聞いた。
久しぶりに顔を合わせた二人は、しばらく無言だったという。
父は、鎌の顔をじっと見ていた。かつて、自分の下で黙々と働いていた、あの地味な裏方の男。その男が、今は業界の頂点に立っている。父の目には、信じられないという思いと、どこか悔しさのようなものが浮かんでいた、と。
一方の鎌はといえば、ただ静かに父を見返していた。その顔には、勝ち誇るでもなく、恨むでもない、不思議なほど穏やかな表情が浮かんでいた、という。
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先に口を開いたのは、父だった。
父は、鎌にこう切り出したという。昔のよしみだ、一度、手を組まないか、と。栄家と鎌の事務所が力を合わせれば、この厳しい時代も乗り越えられる。おまえの力と、うちの看板を合わせれば、と。
それは、事実上の降伏の申し出だった。かつて業界に君臨した栄一鶴が、かつて自分が切り捨てた男に助けを求めている。父にとって、これ以上の屈辱はなかっただろう。
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鎌は、しばらく黙って父の話を聞いていた。そして、静かに口を開いた。
社長、と鎌は言った。まだ、父のことをそう呼んだ。
覚えておいでですか。私が、この業界に入ったばかりの頃。あなたに言われた言葉を。
父は、怪訝な顔をした。鎌は続けた。
あのとき、あなたは、私にこうおっしゃった。おまえのような華のない裏方は、いくらでも替えがきく。使えなくなれば、切るだけだ、と。
父は、はっとした。かつて、自分が何気なく口にした言葉。とうに忘れていた、その言葉を。鎌は、何十年も覚えていたのだ。
私は、その話を聞いて、胸が痛くなった。若い頃の鎌は、父にとって、いちばん信頼できる右腕だったはずだ。父の無茶な要求にも、黙って応え、父の成功を影で支えつづけた。でも、父は、栄家が大きくなるにつれて、鎌のような地味な裏方を軽んじるようになった。そして、ある日、あっさりと鎌を切り捨てた。父にとっては、大勢いる部下の一人を切っただけ。でも、鎌にとっては、人生を捧げた相手からの裏切りだった。その痛みが、鎌をあそこまで駆り立てたのだ。
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私は、あの言葉を忘れたことはありません、と鎌は言った。
でも、恨んではいません。むしろ、感謝しているのです。あの言葉があったから、私は学びました。人を道具のように切り捨てる者は、いつか、自分も切り捨てられる、ということを。
だから、私は、あなたとは逆の道を歩むことにしました。人を切らず、育てる。恩を忘れず、大切にする。その結果が、今の、これです、と。
鎌は、静かに、しかしはっきりと言った。
申し訳ありませんが、手を組むことはできません。あなたと組めば、私が、これまで大切にしてきたものを裏切ることになりますから、と。
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父は、何も言えなかった、という。
反論の余地がなかったからだ。鎌の言っていることは、すべて正しかった。父は、自分のまいた種を今、刈り取っているだけだった。何十年も前の自分の一言が、めぐりめぐって、今、栄家の息の根を止めようとしていた。
かつて、光の中にいた父。かつて、影にいた鎌。その二人が、今、こうして向かい合っている。でも、その立場は、すっかり逆転していた。光は消え、影が残った。父が、かつて鎌に言い放った、その言葉のとおりに。
私は、思う。父と鎌は、本当はよく似た二人だった。二人とも、忘れられることを恐れていた。二人とも、この世界で生き残るために必死だった。でも、その同じ恐怖に対して、二人は正反対の答えを出した。父は、人を力で押さえつける道を選び、鎌は人を大切にする道を選んだ。そして、時が経って。父の道は滅びに、鎌の道は繁栄に、たどり着いた。同じ場所から出発した二人が、まったく逆の場所に行き着いたのだ。
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別れ際、鎌は、一つだけ、父に言葉をかけたという。
社長。あなたは、すごい人でした。私が、この世界でいちばん尊敬していたのは、あなたです。あなたのようになりたくて、私は必死に働いてきた。
でも、あなたは、大事なことを一つだけまちがえた。
人の心です。あなたは、人の心を力で動かせると思っていた。でも、人の心は、力では動かない。それだけをあなたは、最後まで分からなかった、と。
その言葉を残して、鎌は、静かに去っていった。
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父は、一人、その場に残された。
その日、家に帰ってきた父の顔を私は、今も忘れられない。それは、何かに打ちのめされたような、すべてを悟ったような、奇妙に静かな顔だった。
父は、その夜、一言も口をきかなかった。ただ、暗い部屋で、一人、じっと座っていた。
それから、父は、目に見えて元気を失っていった。あの、ぎらぎらとした闘志が。あの、人を圧倒する迫力が。少しずつ、父から抜け落ちていった。まるで、鎌との、あの対決で、何か大切な芯のようなものが折れてしまったかのようだった。父は、まだ、当主の座にはいた。でも、その心は、もう、闘うことをやめかけていた。長い、長い戦いに、父は、ついに疲れ果ててしまったのだ。
その頃から、父は、事務所に行くことも少なくなった。行っても、以前のように社員を叱咤することもなくなった。ただ、社長室の椅子に、ぼんやり座って、窓の外を眺めている。そんな日が、増えていった。かつて、あんなに精力的だった父の、その姿を見るのは、家族としてつらいものだった。
たぶん、父は、その日はじめて、本当の意味で負けを認めたのだと思う。事業の、数字の上の勝ち負けではない。人としての、生き方そのものの勝ち負けを。
そして、その勝負はもう、二度と取り返しのつかないところまで来ていたのだった。




