第二十六章 妙子の述懐
栄家がいちばん苦しかったあの頃、私は母と二人きりで話す時間が、増えていた。
父が暗い部屋で一人おびえていた、あの頃。母は、そんな父を静かに見守っていた。そして、時々、私に父の昔の話を聞かせてくれた。有名になる前の、まだ何者でもなかった頃の父の話を。
母の語る父は、私の知っている父とはまるで違っていた。
テレビの中で堂々とふるまう父。事務所で人を怒鳴りつける父。私が知っているのは、いつも力に満ちた大きな父だった。でも、母の語る父は、もっと小さくて、頼りなくて、どこかいじらしい人だった。
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母が父と出会ったのは、父がまだ、鳴かず飛ばずの大部屋役者だった頃だ。
その頃の父はね、と母は懐かしそうに話した。それはもう、ぱっとしない若者だったよ、と。芝居は下手じゃなかった。でも、華がない。舞台に立っても、誰の目にも留まらない。大勢の中の、その他大勢。そういう目立たない若者だったのだ、と。
母は、こんな話もしてくれた。まだ二人が貧しかった頃、父は夜、眠れないことがよくあったという。布団の中で、じっと天井を見つめて。おれは、このまま誰にも知られずに終わるのかな、とつぶやく。母は、そんな父の背中を黙ってさすってやった。大丈夫。私は、あなたを知ってるよ。それじゃ、だめかい、と。すると父は、子どものように小さくうなずいたのだという。その頃の父は、まだ素直に弱音を吐ける人だった。有名になって鎧をまとう前の、やわらかい父だった。
でもね、と母は言った。
あの人には、昔から埋まらない穴があったんだよ、と。
私は、母の顔を見た。埋まらない穴。それは、私がうすうす感じていながら言葉にできずにいた、父のあの何かだった。
母は静かに続けた。
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あの人はね。誰にも見てもらえないことが、こわいんだよ、と。
母の話では、父は貧しい家に生まれ、子どもの頃から誰にも注目されずに育ったのだという。いてもいなくても、同じ。存在に、誰も気づかない。そういう子どもだった。
父の生い立ちのことを、私はほとんど知らなかった。父自身が、けっして語ろうとしなかったからだ。でも、母の話から、少しだけその輪郭が見えた。父の親は、子どもに関心のない人たちだったらしい。父がそこにいてもいなくても、気にも留めない。ほめられた記憶も、抱きしめられた記憶も、ほとんどない。そういうさびしい子ども時代を、父は過ごしたのだ。誰かに見てほしいというあの飢えは、そこから生まれたものだった。だから、父はいつも飢えていた。誰かに見てほしい。誰かに覚えていてほしい、と。
その飢えが、父を芸能の世界に駆り立てた。目立ちたい。忘れられたくない。その一心で、父はあがきつづけたのだ。
でもね、と母は少し悲しそうに笑った。
どんなに有名になっても、あの人のあの穴は埋まらなかったんだよ、と。
一億人に愛されても。日本中が父の名を知っても。父の中の、あの子どもの頃からの穴は埋まらなかった。むしろ、高くのぼればのぼるほど、落ちる恐怖は大きくなった。忘れられることへのおびえは深くなった。
父は、満たされることを知らない人だった。どれだけ手に入れても、まだ足りない。まだ、こわい。その渇きは、生涯、癒えることがなかった。
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私は母に聞いた。
お母さんは、どうして、そんなお父さんと一緒にいられたの、と。だって、お金も名声もなかった頃から。お父さんは、そんなに面倒な人だったんでしょう、と。
母は笑った。そして、こう言った。
面倒な人だったよ。でも、私は、あの、何者でもなかった頃のあの人が好きだったんだよ、と。
母は続けた。
みんなは、有名になった栄一鶴を愛してる。テレビの中の、あの大きなお父さんをね。でも、私が好きなのは、そっちじゃないんだよ、と。
私が好きなのは、あの、誰にも見てもらえなくて、さびしくて、でも必死に生きていた、あの若者なんだ。あの人の、あの埋まらない穴ごと、私は好きになったんだよ、と。
母の言葉に、私は胸が熱くなった。
一億人が、栄一鶴というスターを愛した。でも、母は、たった一人。何者でもない、一人の男を愛したのだ。その穴も、弱さも、ぜんぶひっくるめて。
本当に人を愛するというのは、こういうことなのかもしれない、と私は思った。きれいなところや、強いところだけを好きになるのはたやすい。でも、母は、父のいちばん醜いところ、いちばん弱いところを知っていて、それでも愛した。その人の、欠けた部分ごと、まるごと引き受ける。それが、母の愛だった。一億人の愛は、父の光に集まった。でも、母の愛は、父の闇にも届いていた。
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そういえば、と私は思い出した。
無名だった頃の父に、母がおにぎりを握ってあげた話。余っちゃったから、と言って、自分の分を父に渡した話。
あれも、母の愛だったのだ。派手ではない。でも、確かな。ただ、そっとそばにいて支える。母の愛は、いつもそういう静かなものだった。
栄家が大きくなってからも、母は変わらなかった。豪華な家に住んでも、着飾ることも、贅沢をすることもしなかった。相変わらず、台所に立って家族のごはんを作った。父が、どんなに偉くなっても、母の前ではただの夫だった。おかえり、と母が言う。ただいま、と父が答える。その、なんでもないやりとりの中でだけ、父は、スターでも総帥でもない、ただの一人の男に戻れたのだと思う。母は、父にとって、たったひとつの帰る場所だった。
父が、どんなに光の中で輝いても。あるいは、どんなに闇の中でおびえても。母は、いつも変わらず父のそばにいた。何者でもない父を愛したときと、同じ気持ちで。
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お母さんは、と私は聞いた。これから、栄家がどうなっても、お父さんと一緒にいるの、と。
母は、少しも迷わずにうなずいた。
当たり前だろう、と。あの人が、いちばん高いところにいたときも、一緒にいた。だったら、いちばん低いところに落ちるときも、一緒にいる。それが、夫婦ってものだろう、と。
そのときの、母の、静かな、けれど揺るがないまなざしを、私は今も忘れられない。
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私は、そのとき思った。
この家で、いちばん強いのは、もしかしたら母なのかもしれない、と。
父は、力でこの家を大きくした。でも、その父をいちばん深いところで支えていたのは母だった。表には、けっして出ない。名前も、ほとんど知られていない。でも、この小さな母が、栄家という大きな家の、いちばん奥の柱になっていた。
栄家が傾きはじめた今も、母は取り乱すことがなかった。まわりが、これからどうなるのかとおろおろするなかで。母だけは、いつもと同じように、静かに日々の暮らしをまわしていた。その、どっしりとした落ち着きが、崩れかけた家族を、かろうじてつなぎとめていた。
父の、あの埋まらない穴を。ただ一人、知っていて。それでも、変わらず寄り添いつづける。そんな、静かで深い強さが、母にはあった。
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母の述懐を聞いて、私は、父を少しだけ許せるような気がした。
あの、強引で身勝手な父も。その、いちばん奥には、誰にも見てもらえなかった、さびしい子どもがいるのだ。その子が、今も、忘れられることにおびえて泣いている。
母は、その泣いている子どもをずっと抱きしめてきたのだった。
一億人が、あの一家を愛していた。でも、その一億人の誰も、知らなかった。あの一家の、本当の姿を。それを知っていたのは、母のような、ごくわずかな人だけだったのだ。
だからこそ、私は、母のことも書いておきたいと思う。誰にも知られなかった、あの静かな愛のことを。




