第二十三章 宗太の空回り
宗太は無能な男では、けっしてなかった。
これは、はっきりと書いておきたい。世間は、宗太を父に及ばない頼りない二代目として笑った。でも、そのそばで必死な姿を見ていた私には分かっていた。宗太は宗太なりに、傾いた栄家を立て直そうと懸命に考えていたのだ。
父のやり方は、もう通用しない。力で人を押さえつけ、数字だけで人を切り捨てる。そんなやり方が時代に合わなくなっていることを、宗太は誰よりも肌で感じていた。
だから宗太は、父とは逆のことをしようとした。
人を大切にする。切り捨てるのではなく、育てる。恩を忘れず、信頼で人をつなぎとめる。鎌が影の中でやっているのと同じことを宗太もまた、栄家の中でやろうとしたのだ。
それは、正しい考えだったと、私は今でも思う。
でも、宗太の改革は、ことごとく空回りした。
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理由は、二つあった。
一つは、伊織の影だった。
宗太が何か新しいことをやろうとするたびに、まわりはこう言った。伊織さんなら、どうしただろう、と。宗太のやり方は、いつも亡き伊織のやり方と比べられた。そして、たいてい伊織のほうがよかった、と言われた。宗太は、自分のやり方を貫くことができなかった。いつも、兄の影におびえていた。
会議の席で、こんなことがあった。宗太が、ある提案をした。すると、古参の一人がぽつりと言った。伊織さんが生きてたら、こんなやり方はしなかったでしょうね、と。悪気は、なかったのかもしれない。でも、その一言で、会議の空気がしんと冷えた。宗太の提案は、それきり誰もまともに取り合わなくなった。宗太は、うつむいて、それ以上何も言えなかった。死んだ人間には、勝てない。生きている宗太は、いつも、亡き兄という完璧な幻に負けつづけた。
もう一つは、父の干渉だった。
宗太が当主として、何かを決める。でも、その決定を父がひっくり返す。おまえには分かっていない、と。父は、当主の座を宗太に譲ったはずだった。それなのに、実際の権限は、何一つ手放していなかった。
宗太が人を大切にしようとすれば、父は、甘い、と一喝した。そんな甘さで、この修羅場が乗り切れるか、と。宗太が恩を守ろうとすれば、父は、商売を分かっていない、と切り捨てた。
いちばんこたえたのは、人前でそうされることだった。宗太が、社員たちの前で何かを指示する。すると、そこに父が現れて、その指示を、みんなの見ている前でひっくり返すのだ。宗太の言うことは、聞くな。おれの言うとおりにしろ、と。社員たちは、気まずそうに目を伏せた。当主であるはずの宗太の言葉が、父の一言で、紙くずのように無効にされる。その光景を何度も見せられて、社員たちは、しだいに宗太を当主として見なくなっていった。
父も、本当は宗太に任せなければ、と頭では分かっていたのだと思う。でも、できなかった。父は、手放すことがこわかったのだ。当主の座を、実権を、少しでも宗太に渡せば。自分が、いよいよ、いらない人間になってしまう。忘れられる恐怖に、生涯追われつづけた父にとって。それは、耐えられないことだった。だから父は、口では、おまえが当主だ、と言いながら。心の底では、けっしてその椅子を明け渡そうとはしなかった。宗太の空回りの根っこには、父の、その消えない恐怖があったのだ。
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一度、こんなことがあった。
宗太が、ある若手を続けて使おうと決めた。まだ数字は出ていないが、才能がある。時間をかけて育てたい。そう宗太は考えたのだ。
でも、父がそれを覆した。数字の出ない人間に、金はかけられない。切れ、と。
宗太は、必死に抵抗した。あの子には、可能性があります。もう少しだけ、待ってください、と。でも、父は聞かなかった。結局、その若手は切られた。そして、その子は鎌の事務所へ移り、数年後、みごとに花を咲かせた。
宗太が、正しかったのだ。
でも、正しくても、宗太にはそれを通す力がなかった。
その若手が去っていくとき、宗太は私にこぼした。姉さん、おれ、あの子に、育ててやるって約束したんだ。守れなかった。当主のくせに、自分が守ると言った子ひとり、守れないんだ、と。宗太の声は、震えていた。宗太は、人との約束を大切にする人だった。だからこそ、それを守れないことが宗太を深く傷つけた。父なら、そんな約束など、はじめからしなかっただろう。宗太の優しさが、そのまま宗太の苦しみになっていた。
私には、宗太の気持ちが痛いほど分かった。私も、この家でうまく生きられなかった人間だから。栄家は、強い者しか認めない家だった。優しさも、誠実さも、まん中に立てなければ、何の価値もないものとして扱われた。宗太も、私も、この家のものさしでは測れない人間だった。ただ、私は、早くに外へ逃げられた。でも、宗太は逃げられなかった。当主という鎖で、この家につながれてしまったのだ。
だから私は、せめて宗太の味方でいようと思った。この家で、たった一人でも、宗太を責めない人間でいたかった。
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こうして、宗太は二つの力に挟まれた。
前からは、伊織の影。うしろからは、父の干渉。宗太が何かをしようとするたびに、その二つが宗太を押しつぶした。
やがて、宗太は何も決められなくなっていった。
どうせ、決めても父にひっくり返される。どうせ、何をやっても兄と比べられる。そう思うと、宗太は、決断することがこわくなった。決めては迷い、迷っては、また人の顔色をうかがう。
世間は、そんな宗太を優柔不断だと笑った。
でも、宗太を優柔不断にしたのは、宗太自身ではなかった。当主の椅子に座らせながら、その椅子に何の力も持たせない。そういう栄家のいびつな構造が、宗太から決断する力を少しずつ奪っていったのだ。
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私は、そんな宗太が見ていられなかった。
ある日、私は宗太に言った。宗太くん、もっと自分を信じていいのよ。あなたの考えは、まちがっていない、と。
宗太は、力なく笑った。
姉さん、ありがとう。でも、この家では、正しいかどうかは関係ないんだ。力があるか、ないか。それだけなんだ。そして、おれには、その力がない、と。
その言葉は、悲しいほど正確に、宗太の置かれた状況を言い当てていた。
宗太は、日ごとにやつれていった。
当主という重い肩書きだけを背負って。でも、その肩書きに見合うだけの力も、自由も、与えられずに。ただ、責められ、笑われ、比べられる。宗太は、少しずつすり減っていった。
その頃から、宗太は、酒の量が増えていった。夜、一人で飲む。昼間の、あのすり減るような時間を忘れるために。私は、それに気づいていた。でも、やめなさい、とは言えなかった。それくらいしか、宗太には逃げ場がなかったからだ。当主という逃げられない檻の中で、宗太は、少しずつ酒に沈んでいった。
その姿は、見ているだけで胸が締めつけられた。かつて、兄の背中をまぶしそうに追いかけていた、あの明るい少年は、もうどこにもいなかった。
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私は、思う。
もし、宗太が伊織の弟でなければ。もし、父の干渉がなければ。宗太は、案外いい経営者になっていたのかもしれない、と。
でも、宗太は伊織の弟だった。そして、父の息子だった。その二つの重さから、宗太は生涯、逃れることができなかった。
器でない者に、器を強いる。その悲劇は、静かに、けれど確実に、宗太という一人の人間を壊しつづけていた。
そして、その壊れていく音は、滅びへと向かう栄家の通奏低音のように、ずっと底のほうで鳴りつづけていたのだった。




