第二十一章 移る人々
番組を一つ失ったくらいでは、栄家はまだ揺らがないように見えた。
でも、本当にこわいのは、目に見える大きな出来事ではなかった。目に見えないほど小さな、けれど絶え間ない、人の流出だった。堤防を崩すのは、大きな一撃ではなく、一滴ずつ漏れつづける水なのだ。
あの番組の一件があってから、栄家の人々は少しずつ事務所を去りはじめた。
はじめは、若手だった。まだ数字を持たない、これからの若者たち。彼らにとって、沈みかけた栄家にとどまる理由はもう、どこにもなかった。契約が切れると、彼らは静かに、鎌の事務所へと移っていった。
なかには、父が自分で見出して育てた若者もいた。数年前、父が街で見つけて、これは光るぞ、と連れてきた青年。父は、その子に期待をかけていた。でも、その青年も栄家を去った。去る前、青年は、私に申し訳なさそうに言った。社長には拾ってもらった恩があります。でも、このままここにいたら、僕は芽が出ないまま終わってしまう。ごめんなさい、と。父が愛情をかけて育てた若者さえ、沈む船からは逃げていく。それが現実だった。
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若手が抜けるくらいは、まだよかった。栄家には、長年支えてきたベテランがいる。あの人たちだけは、簡単には動くまい。父も私も、そう思っていた。
でも、そのいちばん動かないはずのベテランたちが、動きはじめたのだ。
なかでも、私がこたえたのは、あるベテラン俳優が栄家を去ったことだった。
その人は、父が事務所を立ち上げた、いちばん最初からの仲間だった。父とともに苦労し、父とともにのぼりつめた、古株中の古株。何十年も、栄家の顔の一人でありつづけた人だった。父にとっては、ただのタレントではなく、戦友のような存在だった。
その人が、ある日、静かに事務所をやめると告げた。
引き止めようと、父はめずらしく、自ら頭を下げたという。長い付き合いじゃないか。今さら、どこへ行くんだ、と。
その人は、深く頭を下げてこう言ったそうだ。
社長には、返しきれない恩があります。でも、私にも家族がいる。守るべき後輩がいる。この船が沈むのをただ待っているわけには、いかないんです、と。
父は、何も言えなかったという。
その人は帰り際、私にそっと声をかけてくれた。とっちゃん、大きくなったね、と。私が子どもの頃、その人はよく、私を膝に乗せてくれた。栄家がまだ、ひとつの家族のようだった頃の話だ。あの頃は、みんな貧しくても笑っていた。その人は遠い目をして言った。伊織くんがいた頃までは、まだ、この事務所にはあたたかいものがあった。でも、あの子がいなくなってから、ここは変わってしまったね、と。その言葉は静かだったけれど、私の胸に深く残った。
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引き止める言葉がなかったのではない。引き止める資格が、もう父にはなかったのだ。
かつて、数えきれないほどの人を数字が落ちたというだけで切ってきた父に。今さら、恩を盾に人を引き止めることなど、できるはずもなかった。
因果は、巡る。
父がかつて、恩を切り捨ててきた。その報いが今、そっくりそのまま父自身に返ってきていた。恩で人を切った者は、いざ自分が沈むとき、恩で人を引き止めることができない。父は、自分がまいた種を今刈り取っているのだった。
一人が去ると、次が去りやすくなる。人の心とは、そういうものだ。あの人も辞めるのか。では、自分も。そうやって、流出は少しずつ加速していった。栄家に残ることが、だんだん賢くない選択のように思われはじめた。沈む船に、好きこのんで残る者はいない。かつては、栄家にいることが誇りだった。それが今では、栄家にいることが、時代に取り残されることを意味しはじめていた。
それでも、去らない人も、わずかにいた。もう若くもなく、ほかに行くあてもない、そんな古参の何人かは、栄家に残った。社長には拾ってもらった恩がある、最後まで見届けさせてください、と。父は、その人たちの前でだけは、少しだけ昔の顔に戻った。すまないな、と、ぶっきらぼうに言って。沈みゆく船に、それでも残ってくれる者がいる。その事実だけが、あの頃の父にとって、たったひとつの救いだったのかもしれない。
それは、見ていてつらいものだった。あんなに強かった父が、頭を下げて、それでも人に去られていく。かつての父なら、けっして見せなかった姿だった。
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宗太は、去っていく人たちを必死に引き止めようとした。
一人ひとりを訪ね、頭を下げ、栄家に残ってくれと頼んだ。でも、宗太の言葉は、誰の心にも届かなかった。
宗太には、人を惹きつける華も、人を従わせる力もなかった。ただ、真面目に頭を下げるだけ。潮目の変わった今、その誠実さだけでは、傾いた船に人をつなぎとめることはできなかった。
ある人は、宗太にこう言ったという。
宗太さん。あなたは、いい人だ。でも、私たちがついていきたいのは、いい人ではないんです。この先も、食べさせてくれる人なんです、と。
その言葉は、宗太を深く傷つけた。
それでも、宗太はあきらめなかった。ある夜など、辞めると言ったベテランの家の前で、何時間も待っていたという。もう一度だけ、話を聞いてほしくて。でも、その人は、宗太に会おうとはしなかった。会えば情にほだされてしまう。それが、たがいにつらいと分かっていたからだ。宗太は、冷たい夜道に一人立ち尽くしていた。当主という肩書きだけを、背負って。
宗太は、そのことを私にこぼしながら、力なく笑った。姉さん、おれは、いい人にしか、なれないんだ、と。いい人。それは、この世界では無力の別名のようなものだった。
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こうして、栄家は少しずつ、その中身を失っていった。
人が去るというのは、ただ頭数が減るということではない。その人が持っていた経験や、人脈や、信頼が、まるごと失われるということだ。そして、去った人は、たいてい鎌のもとへ移る。栄家が失ったものが、そっくり鎌の力に変わっていく。
栄家という器から水がこぼれ、その水が、鎌という器を満たしていく。
鎌は、栄家から移ってきた人々をあたたかく迎えたという。よく来てくれた、と。かつて自分がそうされなかった、その優しさを、鎌は人に与えることで味方を増やしていった。父が失ったものを、鎌は拾いつづけた。
私は、その様子をなすすべもなく見ていた。
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不思議なもので、私は、去っていく人たちを恨む気にはなれなかった。
彼らは、裏切り者ではない。ただ、生きようとしていただけだ。自分と、自分の家族の暮らしを守ろうとしていただけだ。沈む船から逃げるのは、当たり前のことだ。むしろ、こんなに傾くまで栄家に残ってくれていたことを感謝すべきなのかもしれない。
恩というのは、不思議なものだ。人は、恩を感じていても、その恩だけでは生きていけない。恩と暮らしを天秤にかけたとき、多くの人は暮らしを選ぶ。それを薄情だと責めることは、私にはできなかった。誰だって、自分の人生を生きなければならない。栄家のために、自分の人生を沈めてくれと頼む権利など、私たちにはなかったのだ。
悪いのは、彼らではなかった。人が去りたくなるような場所に、栄家を変えてしまった、そのことのほうだった。
事務所は、日ごとに静かになっていった。
かつては、大勢のタレントやスタッフでごった返していた。廊下は、いつもにぎやかだった。それが今は、がらんとして、人の声もまばらになった。
あんなにたくさん、いたのに。
人は、こんなにも静かにいなくなっていくものなのか。まだ、滅びる前から。栄家は、少しずつ無へと近づいていた。
ある日、私は、がらんとした事務所の壁を見た。そこには、栄家の栄光の歴史が、写真で飾られていた。父がはじめて主演した番組。一家そろっての、正月特番。伊織の代表作。あかりの初舞台。にぎやかで、まぶしい、思い出の数々。でも、その写真の中で笑っている人の多くが、もうここにはいなかった。写真だけが、あの頃のにぎわいを、静かに覚えていた。
私は、その写真をしばらく見ていた。そして、思った。いつか、この写真も外されるのだろう。栄家という事務所が消えてなくなる、その日には。
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盛りは、必ず過ぎる。
そのことを私は頭では、分かっていたつもりだった。でも、こうして目の前で、一人、また一人と人が去っていくのを見るのは。想像していたよりも、ずっと静かで、ずっとこたえることだった。
派手な滅びなど、まだなかった。ただ、静かに、水が漏れつづけていた。
その静かな流出のなかで。私は、確かに感じていた。栄家という大きな船が、少しずつ確実に、沈みはじめていることを。
そして、その船から流れ出た水はすべて、あの影の王のもとへと注ぎ込まれていくのだった。




