第十九章 流出の始まり
栄家の力が目に見えて欠けはじめた、その最初の出来事を、私はよく覚えている。
一つの番組だった。
父がまだ売れはじめた頃から続く、長寿のバラエティ番組。栄家の看板の一つであり、二十年以上、茶の間の日曜の夜をあたためてきた番組だった。父にとっては、ただの仕事ではなく、自分の栄光の原点のような番組だった。
その番組は、父がまだ何者でもなかった頃、はじめて自分の名前で持たせてもらった、思い出の枠だった。父は、その小さな枠を必死に育てた。深夜の、誰も見ないような時間から始まって、少しずつ視聴率を上げ、ついに日曜の夜という、いちばんいい時間を勝ち取った。父にとって、その番組は、自分がどん底からのぼりつめた、その道のりそのものだった。だから父は、どんなに忙しくなっても、その番組だけは、最後まで自分で出つづけていた。
その番組の制作の座組が、そっくり鎌の側に移ることになったのだ。
きっかけは、契約の更改だった。番組を作る制作会社が、次の契約から、栄家ではなく鎌の陣営と組む。そう決めたのだ。表向きの理由は、新しい風を入れたい、という当たり障りのないものだった。でも、本当の理由をみんな知っていた。
沈みかけた船より、これから昇る船を選んだ。ただ、それだけだった。
*
その報せが入ったとき、いちばん動いたのは宗太だった。
当主として、この流出だけは食い止めなければならない。宗太は、そう思ったのだろう。私は、たまたま実家にいて、その宗太の姿を見ていた。
宗太は必死だった。制作会社に、何度も足を運んだ。長年の付き合いを、恩を、頭を下げて訴えた。どうか、考え直してほしい。この番組は、栄家にとって特別なんです、と。
でも、宗太が頭を下げれば下げるほど、相手の態度はそっけなくなっていった。
宗太には、あの父のような凄みがなかった。逆らえば干す、というあの恐ろしい圧が、宗太にはなかった。優しくて真面目なだけの当主の頼みなど、潮目の変わった今、誰も本気で聞いてはくれなかった。
「宗太さん。あなたには悪いが、これは、時代の流れなんです」
制作会社の人にそう言われたとき。宗太は、返す言葉がなかったという。
のちに宗太は、私にそのときのことを話してくれた。制作会社の会議室で、宗太は頭を下げつづけたという。長年お世話になりました、この番組は父の宝なんです、どうか、と。でも、相手の目は、もう冷めていた。宗太さん、あなたはいい人だ。でも、いい人だけでは、この世界は渡っていけない。そう諭すように言われたという。宗太は、その言葉がいちばんこたえた、と言った。父なら、そんなふうには言われなかった。父なら、相手が震え上がって話を聞いた。その差が、宗太には、どうしようもなくこたえたのだ。
*
宗太は最後に、父に泣きついた。
父さん、力を貸してほしい。あの番組だけは、渡したくない、と。
すると父は、鼻を鳴らしてこう言った。
「おまえが当主だろう。自分でなんとかしろ。おれの若い頃は、こんなこと一人で片づけた」
突き放されて、宗太はうつむいた。
でも、父も内心は穏やかではなかったはずだ。あの番組は、父自身の栄光の原点なのだから。父は、宗太を突き放したあと、自分でも動いた。かつての力を使って、制作会社に圧をかけた。うちを裏切れば、業界にいられなくすると。
昔なら、それで話は終わっていた。誰もが、父の力に震え上がった。
でも、今回は、違った。
制作会社は、父の圧に屈しなかった。それどころか、その圧の様子が、どこからか外に漏れた。栄一鶴が力ずくで、番組を奪おうとしている。時代遅れの老害のやり方だ。そういう声が、業界に広まってしまったのだ。
おそろしいのは、その声を広めたのが、誰か一人ではなかったことだ。誰が言い出したのでもない。ただ、みんながなんとなく、そう思いはじめた。栄一鶴は、もう古い。あの強引なやり方は、今の時代には通用しない、と。かつて、父の力を恐れ、へつらっていた人々が、潮目が変わったとたん、手のひらを返した。面と向かって逆らう者はいない。でも、陰では、みんなが父を、時代遅れの老人として笑いはじめていた。
父の圧は、もう恐怖ではなく、嘲笑の対象になりつつあった。
*
結局、番組は鎌の側に移った。
新しい座組で、その長寿番組は続いていくことになった。栄家の色は、きれいに消された。二十年以上、日曜の夜をあたためてきたあの番組から、栄家の名前が消えたのだ。
その放送の初回を、私は父と一緒に実家のテレビで見た。
見慣れた番組が、少しだけ新しくなって映っていた。中身は、ほとんど変わらない。でも、そこに栄家の人間はもう、一人もいなかった。
父は何も言わずに、その画面を見ていた。
その横顔を、私は見ていられなかった。かつて、自分が作り、自分が育てた番組。その番組が、自分を切り捨てて平然と続いていく。父は、その現実をじっと見つめていた。
「……おれが、いなくても」と、父は、ぽつりと言った。「番組は、続くんだな」
その一言に、私は胸を突かれた。
父が、いちばん恐れていたこと。自分がいなくても、世界は平然と回っていく。忘れられていく。その恐怖が今、目の前で現実になっていた。父が二十年かけて育てたものが、父をいともたやすく置き去りにしていった。
そして、その番組で空いた、日曜の夜の枠を。まんまと手に入れたのは、鎌の陣営だった。鎌が育てた若い才能が、その枠で新しい番組を始めることになった。父が二十年かけて耕した畑を、鎌がそっくり刈り取っていったのだ。父は、それを知っていた。知っていて、何もできなかった。
その置き去りにされた父の背中は、私がはじめて見る、小さな背中だった。あんなに大きく見えた父が、テレビの前で、少しだけ縮んで見えた。その背中を見た夜のことを、私はきっと、忘れないと思う。
*
その夜、私は宗太と、少しだけ話した。
宗太は憔悴しきっていた。当主として、初めての大きな戦い。それに完敗したのだ。
「姉さん。おれ、何もできなかった」と、宗太は言った。「頭を下げても、誰も聞いてくれない。おれには、父さんみたいな力がないんだ。……兄さんなら、きっと違ったんだろうな」
また、兄だった。宗太は、何かにつまずくたびに、伊織の影と比べてしまう。
「宗太くん、それは……」
「分かってる」と、宗太は力なく笑った。「比べても、しょうがない。でも、比べずにはいられないんだよ。この席は、兄さんの席だから」
私は、かける言葉が見つからなかった。
宗太が座らされた、その当主の席は。守るための力を、何一つ与えてはくれなかった。ただ、兄と比べられ、無力を思い知らされるための席だった。器でない者に、器を強いる。その残酷さが、こんなにも早く、目に見えるかたちで宗太を追い詰めていた。
*
一つの番組を失っただけ、と思う人もいるだろう。
でも、私には分かっていた。
これは、始まりに過ぎない。一つ、また一つと、栄家から、こうして力がこぼれ落ちていく。長年つないできた仕事が、人が、信頼が。少しずつ、けれど確実に、鎌の側へと流れていく。
堤防に、最初の、小さな穴が空いた。
その穴は、まだ小さい。でも、水は、いちど漏れはじめたら止まらない。やがて、その穴は広がり、堤防は、音を立てて崩れていく。
栄家の長い凋落は。この、一つの番組の流出から、静かに始まったのだ。
そして、その流れの行き着く先で。あの男が、鎌が、静かに待ち構えていた。




