第十七章 器
伊織が遺したものは、あまりにも大きかった。
栄家の看板俳優。そして、事務所を継ぐはずの跡継ぎ。あの兄はその両方を、たった一人で背負っていた。その兄が、いなくなった。
あかりを次の顔にしても、それだけでは足りなかった。あかりはまだ幼い。象徴にはなれても、事務所を動かすことはできない。父にはもう一人必要だった。伊織のかわりに、栄家という王国を実際に背負って立つ者が。
父の目は、残された息子へと向いた。
次男の宗太だった。
*
ある日、父は宗太を呼び出した。そして、こう告げた。
「宗太。おまえが伊織のかわりだ。今日から、栄家を継ぐのはおまえだ」
宗太の顔から、血の気が引いたという。
宗太は、自分が兄の器でないことを、誰よりもよく知っていた。子どもの頃から、ずっとそうだった。兄には生まれつきの華があった。カメラの前に立つだけで人を惹きつける、あの何かが。宗太にはそれがなかった。どれだけ努力しても、兄の背中はいつも遠かった。どうせおれは兄さんのおまけだ。宗太はいつも心のどこかで、そう思っていた。
その、おまけだったはずの自分が、ある日突然、兄のかわりを命じられた。
「父さん、おれには無理だよ」と、宗太は言ったという。「おれは兄さんじゃない。兄さんみたいにはできない」
「やるんだ」と、父は言った。「ほかに誰がいる。おまえしかいないんだ」
それは頼みではなかった。命令だった。そして、その言葉の裏には、こんな響きがあった。伊織なら、こんなことは言わなかった。おまえは伊織に遠く及ばない。だが今は、おまえで我慢するしかない――。
宗太は、それを感じ取っていたと思う。
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その日から、宗太の苦しい日々が始まった。
宗太は、兄が遺した仕事を次々と引き継いでいった。兄が主演していたドラマ。兄が司会をしていた番組。兄が背負っていた、事務所の重い責任。そのすべてが、宗太の細い肩にいちどきにのしかかった。
とりわけ宗太を苦しめたのは、事務所の仕事だった。何百人ものタレントの人生を左右する、あの重い決断。伊織はその決断を、いつも人の痛みを分かったうえで、それでも背負っていた。でも宗太には、背負うことも、割り切ることも、どちらもできなかった。決断を先延ばしにし、板挟みになって、ただすり減っていく。父はそんな宗太を、じれったそうに見ていた。おまえは優柔不断だ、伊織はこうじゃなかった、と。
でも、宗太は兄にはなれなかった。
当たり前だった。宗太は宗太なのだから。それなのに、周りは宗太に兄を求めた。
「伊織さんなら、もっとこうしたのに」
現場で、そんな声が宗太の耳にも届いた。視聴者も同じだった。宗太が後を継いだドラマは、伊織のときほどの数字が取れなかった。すると、世間は容赦なかった。やっぱり兄には及ばない。おまけの弟。二番手。そういう言葉がインターネットにあふれた。
一度、こんなことがあった。宗太が、あるドラマの主演に抜擢された。伊織が生前、演じるはずだった役だった。放送が始まると、視聴者の反応は冷たかった。伊織さんで見たかった。宗太じゃ物足りない。そんな感想が次々と書き込まれた。宗太はその一つひとつを、夜中に一人で読んでいたという。読まなければいいのに。でも、読まずにはいられなかった。自分がどう見られているのかを、確かめずにはいられなかった。
宗太は必死だった。兄に少しでも近づこうと、寝る間も惜しんで稽古をした。事務所の仕事も必死に覚えようとした。でも、やればやるほど、兄との差がはっきりと見えてしまう。それは宗太にとって、どれほどつらいことだったろう。
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いちばんむごかったのは、宗太が兄を心から愛していたことだ。
宗太は、兄を憎んでなどいなかった。むしろ、誰よりも慕っていた。子どもの頃、兄はそんな宗太を、いつもかわいがってくれた。宗太、大丈夫だ、おまえにはおまえのいいところがある、と。
その大好きな兄が、死んだ。
ただでさえ、その悲しみで宗太は打ちのめされていた。それなのに、悲しむ間もなく、その兄のかわりを演じさせられる。毎日、兄と比べられ、兄に及ばないとけなされる。大好きな兄の名前が、自分を傷つける刃になっていく。
これほど残酷なことが、あるだろうか。
もし宗太が兄を憎んでいたなら、まだ楽だったかもしれない。見返してやる、と思えたかもしれない。でも、宗太は兄を愛していた。だから、兄と比べられるたびに、宗太は二重に傷ついた。兄に及ばない自分を責める気持ち。そして、その大好きな兄を、まるで自分の重荷のように感じてしまう自分を、嫌悪する気持ち。その二つに、宗太はさいなまれていた。
*
私は、そんな宗太のことが放っておけなかった。
私も宗太と同じだったからだ。私もあの一家の中で、光をまとえなかった。兄のように輝けなかった。だから、宗太の苦しみが、私には痛いほど分かった。
ある日、私は憔悴しきった宗太に声をかけた。
「宗太くん。無理、してない?」
宗太は、力なく笑った。
「姉さん」と、宗太は言った。「おれさ、ずっと兄さんみたいになりたかった。でも、なれなかった。……今も、なれない。兄さんの席に座らされて、毎日、思い知らされるんだ。おれは兄さんじゃないって。おれは、こんなにもちっぽけなんだって」
宗太の目に、涙がにじんでいた。
「兄さんがいなくなって、はじめて分かったよ」と、宗太は言った。「兄さんがどれだけすごかったか。どれだけ大きなものを、背負ってたか。……おれには、その半分も背負えない。父さんは、おれに兄さんになれって言う。でも、おれには無理なんだよ、姉さん」
私は、宗太にかける言葉が見つからなかった。
ただ、その震える背中を、そっとさすることしかできなかった。
「宗太くん」と、私は言った。「あなたは、お兄ちゃんにならなくていいのよ。あなたは、あなたのままでいい」
それは昔、母が私に言ってくれた言葉だった。とっちゃんは、とっちゃんのままでいい、と。あのとき、その言葉にどれだけ救われたか。だから私は、それを宗太にも伝えたかった。
でも、宗太はさみしそうに首を振った。「ありがとう、姉さん。でも、この家では、それが許されないんだ」
その一言が、私の胸を深くえぐった。宗太の言うとおりだった。栄家では、ありのままでいることが許されない。まん中に立てない者は、存在すら許されないのだ。
*
今思えば。
父は、大きなまちがいを犯していた。
伊織の空いた席を、宗太で埋めようとしたこと。それはそもそも、無理な話だったのだ。伊織は伊織にしかなれない。宗太は宗太にしかなれない。人は、誰か別の人のかわりにはなれないのだ。
それなのに、父はその席を埋めることに必死だった。空席を認めたくなかった。だから、無理やり宗太をその席に押し込んだ。
その結果、どうなったか。
伊織の席は、埋まらなかった。そして、宗太という一人の人間が、壊れていった。
父は、伊織を失っただけでは足りなかった。その伊織の死をきっかけに、今度は宗太まで、少しずつ壊しはじめていた。器でない者に、器を強いる。それは、ゆっくりとした、けれど確実な破壊だった。
まん中に居続けろ、という、あの呪いのような家訓。それが今、宗太を追い詰めていた。まん中に立てない者には、価値がない。そう教えられて育った宗太は、まん中に立てない自分を、誰よりも責めていた。
そして、この無理な継承が、のちに栄家の滅びの坂道を、さらに加速させることになる。器でない船頭が、沈みかけた船の舵を握らされる。その悲劇は、もう始まっていた。
でも。そのいちばん悲しいところは、宗太自身が誰よりも、それを分かっていたということだった。




