第十六章 次の顔
父が動きだした。
ある日、父が私の家を訪ねてきた。伊織が逝ってから、はじめてのことだった。玄関に立った父を見て、私は身構えた。あの話だ、と直感した。
「あかりをうちで預からせてくれ」と、父は言った。挨拶もそこそこに、いきなりそう切り出した。「あの子には、才能がある。栄家の次の顔にする。この国で、いちばん愛される子役にしてやる」
私は玄関の上がり口で、あかりをうしろにかばった。
「お断りします」と、私は言った。声が震えないように、必死だった。「前にも言いました。あかりは、普通に育てます。芸能界には、入れません」
父の目が、すっと細くなった。
「とくこ」と、父は静かな声で言った。その静かさが、かえってこわかった。「おまえは、分かってない。これは、あかりのためでもあるんだ。あの子には光を浴びる力がある。それを埋もれさせるのは、罪だ」
「あかりの気持ちは、どうなるんですか」
「子どもに、何が分かる」と、父は言った。「大人が、いちばんいい道を選んでやるんだ。それが親の、いや、一族の務めだ」
*
それから、父のなりふりかまわぬ攻勢が始まった。
父は、あらゆる手を使ってきた。
まず、お金だった。あかりを預けてくれれば、この先何不自由ない暮らしをさせてやる、と。私の夫の仕事のことまで持ち出して、便宜を図る、とも言った。私たちは、それをきっぱりと断った。
次に、父は情に訴えてきた。伊織が死んで、自分がどれだけつらいか。栄家が、どれだけ追い詰められているか。おまえまで、私を見捨てるのか、と。父が涙ながらに、そう言うのを見て、私の心は揺れた。
でも、私は耐えた。
ここで折れたら、あかりが光に焼かれる。ぎおんのように、伊織のように。あのまぶしくてこわい世界に、あの子を渡してはいけない。私は、必死に自分へ言い聞かせた。
*
私は、あらゆる方法で抵抗した。
夫と相談して、しばらく遠くの町に身を隠すことも考えた。あかりを連れて、父の手の届かない所へ。でも、それはうまくいかなかった。父の力は、あまりにも大きかった。日本中のどこにいても、父の目は届いた。
私は、親戚に助けを求めた。でも、栄家の親戚は、みんな父の事務所に世話になっている。誰も、父に逆らえなかった。むしろ、私を説得しようとする者さえ、いた。あかりちゃんが、スターになれるなんて、こんな幸せなことはない、と。
私は、たった一人だった。
あかりを守ろうとしているのは、この世界で、私と夫の二人だけ。あとは、みんな父の側か、あるいは我関せず、だった。
母だけは、私の味方だった。「とくこの言うとおりよ」と、母は父に言ってくれた。「あかりは、あの子の好きに育てさせてあげて」。でも、その母の声さえ、今の父には届かなかった。
私は最後に、父へ正面から頼んだ。土下座までした。お願いします、あかりだけは、と床に額をつけて。でも父は、私を見下ろして静かに言った。おまえもいつか分かる。これがあの子のためなんだ、と。その声には、もう私の言葉が届く隙間はどこにもなかった。父は悲しみと焦りで、自分の信じたいことしか信じられなくなっていた。
*
そして、勝敗を決めたのは。
父でも、私でもなかった。
世間の流れだった。
伊織の死は、日本中に大きな悲しみを残していた。人々は、あのあたたかい笑顔を失った、その喪失感をまだ抱えていた。そんなとき、テレビがある特集を組んだ。
栄伊織、その愛と、遺されたもの。
そういう追悼の番組だった。そして、その番組の中で、栄家の新しい世代として、あかりの姿が映し出されたのだ。
私は、その映像をあとで知って、愕然とした。父が、私に無断であかりを番組に出したのだ。ほんの数秒。伊織の思い出を語る家族の映像の中に、あかりがちらりと映っただけ。でも、それで十分だった。
世間は、あかりに飛びついた。
亡き伊織の面影を宿す、幼い少女。悲劇の一族に遺された、小さな光。人々は、その物語に涙した。あかりちゃんが、伊織さんの分まで頑張ってほしい。あかりちゃんに、日本を元気にしてほしい。
そういう声が、日本中からあふれた。
おそろしいのは、誰も悪気などないことだった。あかりを求める人たちは、みんな善意だった。悲しみに沈む一族を励ましたい。あの子の笑顔に元気をもらいたい。そのあたたかい気持ちが集まって、一つの大きな流れになる。そして、その流れは誰にも止められない。一人ひとりは、やさしいのに。その総和が、一人の幼い子を、逃げ場のない場所へと追い詰めていく。
*
私は、その流れの前になすすべがなかった。
一人の母親が、いくら反対しても。世間があかりを求めてしまえば、それはもう、止められなかった。父は、その、世間の声を盾にした。
「見ろ」と、父は言った。「みんなが、あかりを求めてる。この子には、日本中を元気にする力があるんだ。それをおまえのわがままで、つぶすのか」
わがまま。
娘を守りたいという母の願いが。父の口にかかると、わがままになってしまう。
父は、自分が正しいと本気で信じていた。これがあかりへの愛だと、疑ってもいなかった。だからこそ、誰にも止められなかった。もし、これがただの悪意なら、まだ抗えたかもしれない。でも、愛には、抗えない。善意にも、抗えない。いちばん恐ろしいのは、悪ではなく、まちがった愛と、まちがった善意なのだと。私はこのとき、思い知った。
私は、言い返せなかった。父の言葉ではなく、その背後にある、何万、何十万という世間の声に。私は、抗う術を持たなかった。あかりを求める、その顔の見えない大きな声に。
そして、ある日。
あかりは、はじめてテレビのまん中に立った。
*
その日の収録を、私はスタジオのすみで見ていた。かつて、ぎおんの最後を見たのと同じ場所で。
まぶしいライトのまん中に、あかりが立っていた。
まだ幼いあかりは、事情など何も分かっていなかった。ただ、大勢の大人が自分に笑いかけてくれる。カメラが自分を映してくれる。それがうれしくて、あかりは無邪気に笑っていた。
収録の前、あかりは私にこう言った。ママ、あのね、テレビに出るの。おじいちゃんが、あかりはすごいねって褒めてくれたんだよ、と。得意げなその小さな顔を見て、私はうまく笑い返せなかった。あの子は、褒められるのがただうれしいだけだった。その純粋さが、私にはいちばんつらかった。
その屈託のない笑顔に、スタジオがわいた。
かわいい。まるで天使のようだ。伊織さんの面影がある。大人たちが口々に、あかりを褒めた。あかりは、そのあたたかい拍手を浴びて、ますますうれしそうに笑った。
私は、その光景を見ていられなかった。
みんなが、あかりを愛している。今は。でも、私は知っている。このまぶしい光が、どれほどうつろいやすく、どれほど残酷か。今あかりに注がれている、この愛が。いつか牙をむく日が来ることを。
ぎおんが、そうだった。伊織も、ある意味でそうだった。この光のまん中は、いちばん危ない場所なのだ。
*
あかりの、あの笑顔を見ながら。
私は、心の中であの子に詫びていた。
ごめんね、あかり。お母さんは、あなたを守れなかった。このまぶしくてこわい場所から、あなたを遠ざけてあげられなかった。
あかりは、何も知らずに光を浴びて笑っている。そのいたいけな姿が、私にはたまらなく切なかった。あの子は今、自分がどんな場所に立たされているのか、分かっていない。この光がいつか、自分を焼き尽くすことも。
あかり、という名前に、私は光を願った。
そして、その光は今、文字どおりあの子を照らしている。
でも、その光のいちばん奥には。
もう、いちばん暗い場所へと続く道が、口を開けていた。
私には、それが見えていた。誰よりも光の外側にいた、私には。けれど、その道の入り口に立たされた幼いあかりには。まだ、何も見えていなかった。
栄家の、次の顔。
その、まばゆい肩書きを背負って。私の、小さな灯りは。滅びへと続くその道を、無邪気に歩きはじめてしまった。




