第十五章 空いた席
父が仕事に戻ったのは、四十九日が明けて、すぐのことだった。
正直、私は驚いた。あんなに抜け殻のようだった父が、もう現場に立てるのか、と。もっと長く、喪に服すものだと思っていた。
けれど、戻ってきた父は、私の予想を悪いほうに裏切った。
仕事に復帰した父は、以前よりもずっと精力的になっていた。いや、精力的という言葉では、足りない。取り憑かれたように、と言うほうが近かった。朝から晩まで、休みなく働く。次々と、新しい企画を立ち上げる。所属タレントに、これまで以上の仕事を詰め込む。まるで、一秒でも立ち止まったら、崩れてしまうとでもいうように。
私には、分かった。
父は走ることで、悲しみから逃げていた。
立ち止まれば、伊織のことを考えてしまう。自分が息子を殺したという、あの罪の意識にのみ込まれてしまう。だから父は、走りつづけた。考える隙もないほど、自分を仕事に埋めた。それは、悲しみを乗り越えるというのとは、まるでちがった。ただ、悲しみから目をそらしているだけだった。
*
空いた席が、あった。
伊織という栄家の大黒柱がいなくなって、大きな穴が、ぽっかりと空いていた。看板俳優としての席。事務所の跡継ぎとしての席。そして何より、父の心を支える、良心としての席。
父は、その空いた席を何かで埋めなければ、気がすまなかった。
まるで、伊織がいた場所が空いていることを認めたくないかのように。その穴を別の何かで、大急ぎで塞ごうとしていた。
けれど、伊織のかわりなど、どこにもいなかった。
父も、心のどこかでは分かっていたのだと思う。だからこそ、余計に焦っていた。あの、たった一人の、かけがえのない息子。その存在の大きさを失ってから、いやというほど思い知って。それでも、認めるわけにはいかなかった。認めてしまえば、自分が犯した罪の重さと正面から向き合わなければならなくなるから。
*
歯止めを失った父の残酷さは、日ごとにひどくなっていった。
伊織が生きていた頃は、まだよかった。父が誰かを切り捨てようとすると、伊織がそっと止めた。父さん、それはやりすぎです、と。そして父は、しぶしぶそれに従った。
でも、今は、その伊織がいない。
父を止める者は、もう誰もいなかった。事務所の人間は、みんな父の顔色をうかがうだけ。逆らえば、自分が切られる。だから、誰も何も言えなかった。
父の判断は、どんどん冷たくなっていった。少しでも数字の落ちたタレントは、容赦なく切る。逆らう者は、業界から追い出す。恩も、情も、関係なかった。あるのは、ただ数字と結果だけ。
かつての父にも、そういう冷たさはあった。でも、あの頃はまだ、伊織という歯止めがあった。今の父には、それがない。だから、その冷たさは、どこまでも際限なくふくらんでいった。
私は、久しぶりに会った父を見てぞっとした。
目が、笑っていなかった。
悲しみと罪の意識を無理やり心の奥に押し込めて、その蓋の上に、鎧のような冷たさをまとっている。それが、今の父だった。あの、人なつっこい笑顔でみんなを笑わせていた父は、もうどこにもいなかった。
ある若手のタレントが、少し数字を落としただけで契約を切られた。その子は事務所の前で、泣きながら父に頭を下げたという。もう一度だけチャンスをください、と。伊織がいた頃の父なら、その必死さに何かを感じたかもしれない。でも、今の父はふり向きもしなかった。使えないものは切る。それだけだった。父の中で、人はもう人ではなくなっていた。ただの数字になっていた。
そんな父を、周りの人間は腫れ物に触るように扱った。誰も、伊織の名前を口に出せなかった。父の前でその名を出せば、何が起きるか分からない。栄家の中でいちばん愛されていたはずの伊織は、いつのまにか誰も触れられない、禁忌のようになっていた。
*
ある日、私は母に呼ばれて、実家を訪ねた。
母は、げっそりと痩せていた。伊織を失った悲しみと、変わり果てた父をたった一人で支える重さで、母もまたすり減っていた。
「私も、何度も止めようとしたのよ」と、母は言った。「もう少し休んだら、って。あなたが倒れたら、どうするの、って。……でも、お父さんは聞かないの。聞こえてないみたいに、ただ前だけを見て走ってる」
母の目に、涙がにじんでいた。夫を支えたい。でも、その夫はもう、母の声さえ届かない所へ行ってしまった。その孤独が、母の痩せた背中ににじんでいた。
「お父さんがね」と、母は疲れた声で言った。「最近、おかしなことを言うのよ」
「おかしなこと?」
「栄家をもう一度、いちばん高い所に立たせるんだ、って。伊織がいなくなった今こそ、新しい顔が必要だ、って。……それを言うときの、お父さんの目がこわいの」
私はいやな予感がした。
新しい顔。空いた席を埋める、新しい象徴。父は、それを探しているのだ。伊織のかわりになる、栄家の次の顔を。
「まさか」と、私は言った。「宗太を跡継ぎに?」
「それも、あるでしょうね」と、母は言った。「でも……お父さんは、もっと別のことを考えているみたい」
母の声が、震えた。
「お父さんはね。この前、あかりちゃんの写真をじっと見てたの。……そして、こうつぶやいたのよ。この子なら、いける、って」
*
私の全身から、血の気が引いた。
あかり。
私のあかり。まだ幼い、あの子。
父は、伊織を失ったその穴を。よりによって、私の娘で埋めようとしている。栄家の次の顔に。次の象徴に。あの、まだ何も知らない小さな子を。
だめだ。
それだけは、絶対にだめだ。
私は、あかりが生まれた日の父の言葉を思い出した。この子は、栄家の次の顔になるぞ、と。あのときはまだ、遠い先の話だと思っていた。父も、まあいい今はな、と引き下がった。
でも、今は状況がまるでちがう。
伊織という歯止めは、もういない。父を止められる者は、誰もいない。そして父は、伊織を失った悲しみと焦りで、正気を失いかけている。
そんな父が本気で、あかりを欲しがったら。
私一人で、あの子を守りきれるのだろうか。
その夜、私はなかなか眠れなかった。天井を見つめながら、ずっと考えていた。父に頭を下げて頼もうか。それとも、あかりを連れてどこか遠くへ逃げようか。でも、逃げたところで、あの父から本当に逃げきれるのだろうか。日本中に、父の手が及ばない場所などあるのだろうか。考えれば考えるほど、出口は、どこにもないように思えた。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。伊織が生きていれば、こんなことにはならなかった。兄なら、きっと父を止めてくれた。あかりはまだ子どもだ、その子の人生はその子のものだ、と。でも、その兄はもういない。私はたった一人で、あの父と向き合わなければならなかった。
*
帰り道、私はあかりを、いつもより強く抱きしめた。
腕の中で、あかりは無邪気に笑っていた。母の不安など、何も知らずに。ただ、あたたかく、やわらかく、私の腕の中にいた。
この子を守る。
何があっても。この小さな灯りを、あのまぶしくてこわい光の世界から守り抜く。
私は、そう固く心に誓った。
でも、心のどこかで、私は恐れてもいた。
相手は、あの父だ。日本中を意のままに動かしてきた、栄一鶴。そして今、その父を止められる者はもう、誰もいない。
伊織が空けた、あの席。
その席が、私のいちばん大切なものをのみ込もうとしていた。
あの子の名前は、あかり。光、という意味だ。母である私が、あたたかい光を願ってつけた名前。その名前が今、いちばん恐ろしいかたちで、あの子を光のまん中へ呼び寄せようとしていた。
栄家の、本当の悲劇は。
ここから、始まろうとしていた。




