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一億人が、あの一家を愛していた ~ある芸能一族の栄光と滅びの記録~  作者: 智珠
第二部 驕り

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第十四章 喪

伊織の死は、その日のうちに日本中を駆けめぐった。


どのテレビ局も通常の番組を止めて、速報を流した。国民的俳優・栄伊織、急逝。若すぎる死。街の大型ビジョンにも、兄の笑顔が映し出された。あのあたたかい笑顔が、もうこの世にいない人のものとして。


その反響は、すさまじいものだった。


インターネットには、兄を悼む言葉があふれかえった。何万、何十万という人が、兄の死を悲しんだ。子どもの頃に兄のドラマを見て育った人。つらいときに兄の笑顔へ救われた人。会ったこともない、名前も知らない大勢の人たちが、まるで身内を亡くしたように涙を流していた。


献花台には、花が山のように積まれていった。手紙も、ぬいぐるみも、絶えることなく届いた。ありがとう、という言葉が、そこにはあふれていた。あなたのおかげで生きてこられました。あなたの笑顔に、何度も救われました。その一つひとつが、兄が確かにこの世にいて、確かに人を照らしていたことの証だった。


テレビでは連日、兄の特集が組まれた。兄の出たドラマが、次々と再放送された。コメンテーターたちは、口をそろえて、惜しい人を亡くした、と語った。日本中が、一人の若者の死を悼んでいた。その光景は、まるで、国全体が大切な家族の一員を失ったかのようだった。


これが、と私は思った。


一億人に愛される、ということなのだ。


兄は、たしかに日本中に愛されていた。その死を、これほど多くの人が心から悲しんでくれる。それは、兄が生きた証だった。父があれほど求めた、忘れられない存在。兄は、まさにそれになっていた。ただし、こんなにも早く、こんなにも悲しいかたちで。


        *


葬儀には、たくさんの人が参列した。


芸能界の大物たち。共演者。スタッフ。そして、兄があの日、父に頼み込んで救った、あの古い制作会社の人たちも来ていた。みんな目を真っ赤にして、兄の遺影に手を合わせた。あの会社の社長は、遺影の前で、崩れるように泣いていた。あの子に恩を返せなかった、と。


会場の外にも、大勢のファンが集まっていた。花を手に、静かに兄との別れを惜しんでいた。その列は、どこまでも続いていた。寒い日だった。それでも誰一人その場を離れず、ただ静かに頭を垂れていた。


母は、その葬儀のあいだ、ずっと気丈にふるまっていた。弔問客の一人ひとりに深く頭を下げ、ありがとうございます、と、かすれた声で繰り返す。取り乱すことは、一度もなかった。でも、私は知っている。夜、みんなが寝静まったあと、母が一人、伊織の写真を抱いて、声を殺して泣いていたことを。子を先に亡くすというのは、親にとって、いちばんつらいことだと言う。母はその、いちばんつらいことに、たった一人で耐えていた。父が壊れてしまった今、この家族をかろうじて支えていたのは、その母だった。


私はその光景を見ながら、複雑な思いに包まれていた。


兄は、こんなにも愛されていた。それは、うれしいことだった。でも、と思わずにはいられなかった。もし、この愛のほんの少しでも、兄が生きているうちに届いていたら。もし誰か一人でも、兄に、もう休んでいい、と言ってあげられていたら。兄は、こんなに早く逝かずにすんだのではないか。


愛は、いつも遅れてやってくる。


失ってから、人はその大きさに気づく。生きているうちは、当たり前にそこにあると思って、大切にしそこねる。私もそうだった。兄がいつまでも、あの笑顔でそばにいてくれるものだと思い込んでいた。


        *


いちばん変わってしまったのは、やはり父だった。


葬儀のあいだ、父はほとんど口をきかなかった。弔問に来た人へ頭を下げることもしない。ただ、じっと一点を見つめて座っていた。抜け殻のようだった。


あんなに饒舌だった父が。あんなに、人の心を操るのがうまかった父が。今は、一言も言葉を発しない。何百人もの人生を動かしてきたその口は、固く閉ざされたままだった。


家に帰ってからも、父は部屋に閉じこもった。食事も、ほとんどとらなかった。夜中に、何度も伊織の部屋の前に立っている父を、私は見た。閉じた扉の前で、父はただ立ち尽くしていた。中にもう誰もいないと分かっていても、それでも、そこを離れられなかった。


一度だけ、父がぽつりとつぶやくのを聞いた。


「おれが、殺したようなものだ」


私は、息をのんだ。


父も分かっていたのだ。伊織をあんなに追い詰めたのが、ほかでもない自分だということを。自分のあの止まらない夢が、いちばん大切な息子をすり減らし、殺してしまったのだということを。


        *


けれど。


父は、その罪とまっすぐ向き合うことをしなかった。いや、できなかった、というほうが正しいのかもしれない。あまりにも大きな痛みを、父の心は受け止めきれなかったのだ。だから父は、その痛みから目をそらそうとした。


伊織を失った悲しみと、伊織を殺したという罪の意識。その二つが、父の中で行き場を失い、渦を巻いていた。そして、その渦はやがて、思いもよらない方向へと暴発していくことになる。


でも、このときの私は、まだそこまで考えが及ばなかった。


私はただ、目の前の抜け殻のような父を見て、少しだけ、かわいそうにさえ思っていた。あんなにこわい人だったのに。今は、大きな体を丸めて、暗い部屋にうずくまっている。その姿は、まるで迷子になった小さな子どものようだった。


皮肉なものだ。伊織という光を失って、はじめて、父の中のあの臆病な少年が、また、むき出しになっていた。


栄家という王国は、伊織という、たった一つの良心の上に、かろうじて立っていた。その良心が消えたとき、残ったのは、傷つき、おびえ、行き場を失った一人の男だけだった。父は、悲しみの底で、これからどこへ向かうのか。そのとき、そばで支えるべき兄は、もういなかった。


        *


私自身も、しばらくは何も手につかなかった。


家事をしていても、ふと手が止まる。あかりの笑顔を見ていても、涙があふれてくる。テレビをつければ、まだ兄の追悼番組をやっている。兄のあの笑顔が映るたびに、胸が締めつけられた。


兄さん。


私は、何度も心の中で呼びかけた。


もっとたくさん話しておけばよかった。もっとちゃんと、ありがとうと言っておけばよかった。子どもの頃、お菓子をくれたこと。手品で笑わせてくれたこと。とっちゃんはとっちゃんのままでいい、と言ってくれたこと。守ってやる、と笑ってくれたこと。ぜんぶ、ぜんぶ、覚えている。


覚えているよ、兄さん。


私は、そう心の中でつぶやいた。


だから、もしいつか、みんなが兄さんを忘れても。私だけは忘れない。ぎおんのことも、兄さんのことも。私だけは、ずっと覚えている。


そのときはまだ、それがどれほど重い約束になるかを、私は知らなかった。


        *


伊織を失って、栄家は大黒柱を失った。


家庭としての大黒柱。事務所としての大黒柱。その両方を、いちどきに失った。


けれど、それ以上に、栄家が失ったものがあった。


歯止めだ。


父のあの止まらない暴走を、ただ一人押しとどめられた人。父を、人間の側につなぎとめていた、あのたった一本の糸。それが、切れた。


もう、父を止められる者は、どこにもいない。


これから父の悲しみと罪の意識は、やがて、もっとゆがんだかたちであらわれてくる。そして、その渦は次に、いちばん守られるべき小さな存在をのみ込もうとする。


私の、あかりを。


でも。それは、もう少しだけ先の話だ。


今はまだ、栄家は深い喪の中に沈んでいた。

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