第十三章 糸が切れる
その日のことは、今でも一秒ごとに思い出せる。
なんでもない、水曜日の午後だった。
私は自分の家の台所で、あかりのために小さなおにぎりを握っていた。ラジオが低く鳴っていて、窓からはやわらかい日ざしが差し込んでいた。居間では、あかりが積み木を並べて遊んでいる。そのたわいもない物音が、台所まで聞こえてきていた。
普通の一日だった。この普通が、いつまでも続くものだと、私は疑いもしていなかった。人生でいちばん残酷なことは、たいてい、こういう、なんでもない日の、なんでもない時間に、前触れもなく訪れる。今の私はそれを知っている。でも、あの日の私は、まだ何も知らなかった。
電話が鳴った。
手についたご飯粒を落としながら、私は受話器を取った。母からだった。
「とっちゃん」
その一言で、私は何かがおかしいと気づいた。母の声が震えていた。母のこんな声を、私はそれまで聞いたことがなかった。
「お母さん? どうしたの」
しばらく、沈黙があった。その沈黙が、こわかった。
「伊織が」と、母はやっと言った。「伊織が、撮影中に倒れて……今、病院なの」
*
そこから先の記憶は、ところどころ飛んでいる。
気づいたら、私はあかりを抱えてタクシーに乗っていた。どの病院へ、と運転手に告げたのかも覚えていない。ただ、窓の外の景色が、やけにゆっくり流れていたことだけを覚えている。世界が急に、現実感を失っていた。
信号が赤になるたびに、心臓がきゅっと縮んだ。早く。早く。頭の中で、そればかりを繰り返していた。腕の中のあかりが私の様子に気づいて、不安そうに見上げていた。私はその小さな頭をなでながら、必死に笑顔を作ろうとした。うまく作れなかった。
大丈夫。きっと大丈夫。
私は自分に言い聞かせた。兄はまだ若い。ただの過労だ。少し点滴を打って休めば、また、あのやさしい笑顔で起き上がってくる。だいじょうぶだよ、とっちゃん、と、いつものように笑ってくれる。そうに決まっている。
そう思わなければ、私はどうにかなってしまいそうだった。
でも、心のいちばん奥では、気づいていたのかもしれない。あの震える手。灰色がかった頬。もう限界だと、あんなにも体が悲鳴をあげていたことを。私はそれを見ていながら、見ないふりをしていた。その報いが、今来ようとしていた。
*
病院に着いた。
長い廊下を走った。あかりを抱えた腕が震えていた。
処置室の前に、母がいた。父がいた。宗太がいた。みんな青ざめた顔で、ただ閉じた扉を見つめていた。誰も一言もしゃべらなかった。その沈黙が、すべてを物語っていた。
「お母さん」
私が駆け寄ると、母は私の顔を見て、それ以上何も言えずに、ただ首を横に振った。
その、首を横に振るというたった一つの動きが。
私に、すべてを告げていた。
膝から力が抜けた。あかりを落としそうになった。宗太がとっさに支えてくれた。その宗太も、声を殺して泣いていた。
のちに宗太は、兄の亡骸にすがりついて、子どものように泣きじゃくった。兄さん、兄さん、と、何度も呼びながら。いつも兄と比べられ、引け目を抱いていた宗太。それでも、いや、だからこそ、宗太にとって伊織は誰よりも大きな存在だったのだ。その大きな背中を、宗太は今、永遠に失った。
*
伊織は、もう目を覚まさなかった。
撮影の合間、控え室のソファで、少し休む、と言って横になったのだという。そして、そのまま。スタッフが次の出番だと呼びに行ったとき、兄はもう、静かに息をしていなかった。
眠るように逝ったのだと、お医者さんは言った。苦しまなかったのが、せめてもの救いです、と。
長いあいだ無理を重ねてきた心臓が、ある日、ふっと止まってしまった。それは、これまで一度も休むことなく走りつづけてきた体が、とうとう動くのをやめたということだった。
あの、たった一本の糸が。
ぷつりと。
本当に、切れてしまったのだ。
つい先日、実家で会ったとき、私はあんなにも兄を心配していた。あの震える手を見て、こわくなっていた。それなのに、私は何もしなかった。まだ間に合うと、どこかで思っていた。その油断が、この結果を招いた。私は一生、この後悔を抱えて生きていくことになる。
不思議なことに、涙はすぐには出てこなかった。あまりに突然で、あまりに現実離れしていて、心がそれを受け止めることを拒んでいた。兄が死んだ。その言葉を頭では分かっていても、胸がまだ信じていなかった。今にもあの扉が開いて、悪かった悪かった、心配かけたな、と、あの笑顔で兄が入ってくる。そんな気さえしていた。
*
処置室に通された。
白い布の上に、兄は静かに横たわっていた。
顔はおだやかだった。あんなにやつれて、灰色がかっていた頬に、今は不思議とやわらかい色が戻っていた。まるで、長い長い旅の果てに、ようやくゆっくり眠れる場所を見つけた人のような。そんな安らかな顔だった。
その安らかさが、かえって私の胸をえぐった。生きているあいだ、兄はずっと走りつづけていた。休むことを、自分に許さなかった。皮肉なことに、兄がようやく休めたのは、こうして、二度と目を覚まさなくなってから、だったのだ。
私は兄のそばに座った。その手に、そっと触れた。
冷たかった。
あんなに、いつもあたたかかった兄の手。子どもの頃、撮影の合間にお菓子を握らせてくれた、あの手。とっちゃん、大丈夫だ、と、私の頭をなでてくれた、あの手が。
今は、冷たく、動かなかった。
「兄さん」と、私は呼んでみた。
返事は、なかった。
「兄さん、起きて。だいじょうぶって、言ってよ。いつもみたいに、笑ってよ」
けれど兄は、もう笑わなかった。あんなに、いつも私を安心させてくれた、あの笑顔を、二度と見せてはくれなかった。
*
いちばんこわかったのは、父の姿だった。
父は、処置室の隅で立ち尽くしていた。
日本中を意のままに動かしてきた、あの父が。何百人もの人生を一言で左右してきた、あの父が。今はただの、一人の老いた男になって、そこに立っていた。
父は動けなかった。息子に近づくことも、その名を呼ぶこともできずに。ただ目を見開いて、変わり果てた我が子を見つめていた。その顔からは、いつものあの自信も、傲慢さも、きれいに消えていた。
かわりに、そこにあったのは。
何かに深くおびえている、一人の人間の顔だった。
たぶん父は、このときはじめて本当に負けたのだ。お金でも、力でも、才能でも、どうにもできないものが、この世にあるということを。父は、いちばん認めたくないかたちで思い知らされた。
伊織を、返してくれ。
父のその、声にならない叫びを、私はたしかに聞いた気がした。でも、その願いだけは、あれほど何でも手に入れてきた父にも、けっしてかなえられなかった。
*
伊織は、あっけなく逝ってしまった。
あんなに栄家を支えていたのに。あんなに、みんなに愛されていたのに。あんなに、たくさんのものを、その細い肩に背負っていたのに。
何の前触れもなく。ある日、ふいに。
盛りは、必ず過ぎる。けれど、まさか、その盛りのまん中で、いちばん大切な人が、いちばん先に、こんなにも静かに消えてしまうなんて。誰が想像できただろう。
そのとき私は、まだ分かっていなかった。
この兄の死が、栄家の長い長い滅びの、いちばん最初の一歩だったということを。
歯止めは、失われた。
もう、誰にも、父を止められない。
あの、あたたかかった一家が、これから坂道を転がり落ちていく。その静かな、はじまりの日だったということを。
私は、まだ知らなかった。




